雑賀光夫の徒然草

saikamituo.exblog.jp
ブログトップ

私の原点

 古いフロッピーを検索したら、和教組委員長になったとき和歌山大学におられた碓井先生と対談した原稿がでてきた。
 実際に対談はしたのだが、自分の発言に加筆する原稿を作って、つきあわせて、スペースにあわせて削って対談を仕上げた。
 ここに収録するのは、削る前の私の原稿。わたしの原点を語っているようだ。

「月報」碓井・雑賀対談 雑賀部分原稿案

雑賀 大学は経済学部でした。高校時代は海南高校でどんぐり会どいう部落問題研究会にであいまして、そこから社会のこと教育のことに目を開きました。

雑賀 和責連という高校生の責善教育をすすめる組織がありました。海南高校でその役員になったので、部落問題にふれ、ドングリ会をつくる一員になるのですが………。私が1年生のとき、県教委が「責善教育」を廃止して「人尊教育」を押しつけた。高校生のなかでもおかしいじゃないかと論議しました。そのリーダーだったのが、星林高校3年生だった、いま西牟婁におられる加藤元昭先生。私などほんとにうしろからついていく影の薄い存在でした。
その後、海南高校には東上高志先生や住井すえさんが見えて部落問題についての講演をされるのですが、当時の校長は、涙を流しながら天皇崇拝を語るような方でした。そこで、校長が反対の立場の講師を呼んで講演させる。その時の講師先生や校長を相手にしても論争するようなことにもなりました。ややはねあがった高校生でした。

雑賀 大学に入学して、部落研で子ども会活動などするんですが、勉強か子ども会かなやみました。子どもとかくれんぼしながら「こんなことに時間をつぶすより、資本論を読みたい」と思い「資本主義的生産様式が支配している社会の富は膨大な商品の蒐集として現れ、個々の商品はその要素形態をなしている」という資本論冒頭の文句をくちずさんでみた思い出があります。もともと、人や子どもと交わるのが下手な人間でしたから。

雑賀 教員になったのは、1967年。海南市立野上中学校(今の東海南中学校)がかけだしです。英語の免許が取りやすかったので英語の免許をとりましたが、受験英語しかやっていないから、英語が話せない英語教師です。教員の採用試験は、京都・大阪・和歌山の高校全部落ちまして、和歌山の中学校にだけすべりこみました。
 部落子ども会などやってきていましたから、民主的な教師になりたいという気持ちはありました。でも教師の仕事は、理念だけでできないでしょう。未熟な教師でした。英語の授業も、教えるのが下手だから騒がしくなる。子どもともうまく行かない。自分は教師に向いていないとおもって、『教師をやめたい』となやんだこともありました。
 担任しているクラスに、しょうのないのがいましてね。授業妨害する、クラブ活動のじゃまをする。そのうち、まじめな女の子が日記に『先生は優しすぎるから男の子はまじめにしないんです』と書いてきたときは焦りました。前の日から、今度騒いだら殴ろうと決めて、自分の頭を殴って、手加減を確かめました。マカレンコというソビエトの教育学者の教育実践記録(教育詩)に子どもを殴る場面があることを知っていましたから、それを読み返して、「なぐってもいいんだ」と自分に言い聞かせました。
明くる日、ニュープリンスリーダーズの教科書でその子の頭をはったかしたのを今でも覚えています。教室は、一瞬静かになりました。女の子は日記に「今日の先生はいつになく厳しかった」とほめてくれました。でもそんなことでうまく行くはずがありません。子どもたちの反抗はいっそうひどくなりました。
一学期最後の個人面談のときです。僕は、親に言いつけるつもりで、子どもの悪いことをノートに書き付けて待ちかまえていました。お父さんが来たのは、面談の最後でした。私の話を聞いたお父さんは「いろいろ迷惑かけてすみません」といったあと、家庭での子どもの様子を話し始めたのです。
 「家内が病気なので、あの子が食事の支度をしてくれます。わし、このあいだ『もっとうまいもの食わしてくれ』といったんです。そしたらあの子は『お父ちゃん、うまいものつくろと思ったら、お金かかるんや。お母ちゃん病気でお金かかるんやろ。僕もしんぼしてるんやから、お父ちゃんもしんぼしてくれ』…………」
 私は、頭をがーんとやられたような気がしました。なんと自分はこの子の本当の姿を知らなかったのかと。その話を、そのあとある研究集会で話したのですが、その私の話をすごくほめてくれたのが、なくなった岡本佳雄先生でした。
今になれば整理してきれいにはなせますが、その渦中では大変です。10数年前、和教組は「体罰はやめよう」という呼びかけをしました。その中心になったのは森畑教文部長から「雑賀書記長はこのことについて自分の意見をいわんやないか」と迫られたのを覚えています。そのとき、未熟だったころの自分を思いだし、自分が現場の教師だったらどうだろうと考え込んでいたのです。

雑賀 クラブ活動のことを話しましたが、野球部の担当をしました。オンボロチームを県大会大三位まで導いた名監督なんですよ。先日、野上町の教育長にお会いしたら、「あのころ『雑賀というやつはノックもまともにできんのに、チームは強くなるじゃないか。どんな指導をしてるのか聞いて来いよ』など担当の先生に冗談を言ったことがある」とおっしゃっていました。その教育長さんは、当時、野上中学校(野上町立)の先生だったものだから。
手の豆がつぶれて血が出たので、保健室に包帯をもらいにいって下手なノックでしごきましたよ。外野ノックは、ワンパウンドでしかとどかないが、はずれた方に打って走らせる。今でも、トスバッティングをすれば、きれいにピッチャーにワンパウンドで打ち返しますよ。

雑賀 英語を話せない英語教師ではつらいので、仏教大の通信教育で社会科の免許をとりました。
 英語のことで、もう一つ、お話ししますと、15年ほど前にヨーロッパに行ったとき、フランスのホテルでルームキーを部屋に閉じこめましてね。フロントへ行って”My kee is in the room (door)バタン. と身振りでやったら通じました。帰国して報告集会でその話をしたら、ヨーロッパの教職員組合の話などだれも覚えていてくれないのに、バタンの話は、いまでもみなさん覚えてくれています。

雑賀 社会科の免許は二年間使っただけで、1974年に海草支部の書記長になり、そのあと本部にきました。
ストライキ万能論を克服して、「ストライキをふくむ多様な戦術」といわれたころ、「私と職場の要求運動」という提起をしました。西牟婁の書記長さんの報告。「一年生の子どもの親から『土曜日のパンとミルクだけでいいから食べさせて帰らせてほしい』という要求があって、校長先生と話し合って解決した」という報告です。朝早く、山の上の家を出て、帰りはおなかをすかせてぐったりして帰ってくるというのです。その話を聞いてすごくうれしかったのです。こういう具体的な要求が職場でとりあげられているということ、さらにそういう話が本部執行委員会で報告されるのは、職場の組合員がこうした職場での活動を本部が大事にしていると思っているから、報告してくれたと思ったからです。

雑賀 私は、現場経験がすくないだけに、学校現場の話や父母の声を努めて聞くようにしています。数年前に「いじめから子どもを守るネットワーク」というのを、子ども劇場のかたと協力してつくったことがあります。「ニュース和歌山」に紹介してもらって、初対面の方々にお会いしたのが、すごく新鮮でした。そのネットワークで「学校は楽しいですか」などのアンケートを子どもから集めました。三〇〇ほど集まったのですが、小学校三年生の女の子が「楽しくない」と答え、「どうしたらいいですか」という問に「学校がなくなればいい」と書いていたのは、ショックでした。

雑賀 先日、「教育実践・運動交流集会」を開いたんですが、「子育てサークル」をしているお母さんが報告してくれました。「県教研だとか母親大会だとか、『キャンペーン期間』には先生方も参加してくださるんですが……。私などはつきあいが長いからそれでもいいと思っています。でも若いお母さんからは、厳しい意見もあります。」というお話でした。
こうしたお母さんたちが、いま、「開かれた学校」を求めている。「きのくに子どもサポートネット」などにでかけて、隅っこでお母さんたちの話を聞くようにするのですが、教育に関心を持つお母さんたちが、文部省の「開かれた学校」という言い方に幻想をもつ。「日の丸」「君が代」の押しつけをしながら「開かれた学校」などあったものじゃないんですがね。

雑賀 おなじ研究集会での、大成高校美里分校の報告もおもしろかったですね。地域にねざした学校になっている。町長さんも分校を大事にしてくださっている。
 数年前に、市町村長・教育長と対話してみようと五〇市町村中、19市町村まで1年半ほどかけて訪問したことがあるんです。「組合といえば要求書を持ってくることが多いんですが、今日は教育問題についてご意見を聞きに来ました。教育を守るために立場の違いを越えて協力したいと思うからです。教職員組合へのご意見もお聞きしたい」と切り出しましたら、ある町長さんなどは「わしら教育については素人だ。教育の専門家である先生がなぜわしらの意見を聞きたいと言うのですか」とおっしゃる。そこで「教育のことは教師や学校が一番よくわかっていると思ったら大間違いだと思っています。胸を開いて県民のみなさんのご意見を聞かなくてはならないと思うんです」と申し上げました。すると、堰を切ったように子どもと教育への思いを語り出されるのです。地域に行けば、子どもは宝物です。保守も革新もありません。
いま、こうした立場で「開かれた学校」を作らなくてはなりませんね。それは、民間人を校長に登用したり、文部省流の「学校評議員」をおかなくてはできないことでもない。「学校評議員」についていえば、PTAを軸にして幅広い地域の人々、さらに子どもの声も学校運営に反映できるような「開かれた学校」づくりをすすめなくてはならないと思っています。

雑賀 おなじ研究会で、伊都の先生の障害児教育の報告を聞かせていただきました。情緒障害の子なんです。卒業式のような時でも舞台にかけあがったりする。お母さんは「卒業式は休ませようか」と悩まれる。でも、「舞台に駆け上がる」というのも「発達段階」なのですね。なにもできなかった段階から、自分を抑制できないが表現できる段階へ、さらに自分を抑制できる段階へ発達するステップだという捉え方をして、子どもの発達を、口答詩などでつかんでいく実践でした。
こんなすばらしい実践をきくと、私は、いつも同じ質問をするのです。「教師というのは、免許状をもって採用試験に合格したら一人前というわけではないと思います。先生は、子どもを見る目や感性を、どこで養われたのですか?」と。未熟だった、しかも子どもや人と交わるのが上手でない自分と重ね合わせて質問するのです。この先生は、サークルが自分を育てたとおっしゃいましたね。

雑賀 私は、あまり遊びをしらない人間で、趣味は読書と囲碁ぐらいかな。囲碁の師匠は、この民研の楠本先生。「囲碁には囲碁の独自の法則があるから、勉強しなくては強くならない」としかられています。
読書も晩生でしてね、文学少年という時代を経ず、二〇才に近くなってから日本文学も世界文学も読み始めた。「戦争と平和」も「アンナ・カレーニナ」も「レ・ミゼラブル」も読んだのは教師になってからですね。先に経済学や哲学などの古典にふれて、社会科学の古典家たちは、こんなに文学的教養があったのかと読み出したようなわけです。最近、ゲーテの「ファウスト」がおもしろくて何度も読み返したり。ごく最近読んで強烈だったのは、山崎豊子さんの「沈まぬ太陽」でした。
日本の作家では、松本清張も田辺聖子も藤沢修平も内田康夫もなんでも読みますけど、繰り返し読むのは夏目漱石ですね。「我が輩は猫である」は、本がすり切れるほど開いたところを読みました。どこでも開いたところを読むのがおもしろいという本の読み方の話が「草枕」にでてきますね。
なぜ漱石が好きかと考えてみると、「漱石文化」という言葉があるんですね。戸坂潤という戦前、官憲にとらわれ獄死した哲学者が使った言葉なんです。「岩波文化」とも「教養主義」ともいう。いい意味にも悪い意味にもとれますが。労働組合の役員をしながら、そういうものにあこがれるところがある。昔、子ども会でかくれんぼしながら資本論をくちずさんだところに自分の原風景があるような気がしています。
 人にすすめたい本を1冊だけと言われれば、吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」(岩波文庫)をあげます。以前は、国語の教科書に出てきたのですが、最近は、でてこないのではないでしょうか。
1937年にかかれた本で「日本少国民文庫」の一冊だったそうです。満州事変から太平洋戦争へというあの暗い時代に、「せめて子どもにだけはいいものを」という思いから、「路傍の石」の作家・山本有三が中心になって編纂した文庫なんですね。山本有三が体をこわしたため、編集を手伝っていた若き吉野源三郎が代理で書いたというものですが、書物ができたいきさつもふくめて、すごく感動します。道徳教育の教材として読み聞かせに使っている先生もおられるのではないでしょうか。「日の丸」「君が代」の押しつけでやりきれない気持ちになったとき読み返してみると、「日の丸」「君が代」の押しつけにやっきになっている人たちが哀れにみえてくる。

雑賀 最近は、インターネットに、はまっています。和歌山大学と碓井先生のホームページもよく見に行きますが、自分でもホームページをつくっています。自分が書いてどこかに載せた文、発表する当てのない文を全部入れています。そしたら、東京の私立大学のフランス唯物論研究者がメールをくれましてね。「あなたのホームページはおもしろい。パスカルやディドロとくらべて、今の哲学はどうだろうと思ってるんだが、あなたのホームページには時代に応える力がある」というような、過分のことばをいただきました。もう一人、大企業の管理職を退職した方とも知り合いになって、三人で毎日のようにメールの交換をしています。

雑賀 学校現場が大変なとき、しかも政治も教育も大きな曲がり角に来た時期に大任を引き受けてしまいました。前任者の阪中先生が10年間委員長をつづけられた後だけに、すぐにそんな具合にはいきませんが、組合員や役員のみなさんに助けていただいて、乗り切っていきたいと思います。

[PR]
# by saikamituo | 2007-09-30 00:09

万葉集によせて

万葉集によせて

                (一)

先日、柄にもなく李白などを読んで、宮中のおかかえ詩人である唐の詩人が反戦・厭戦の詩を書くことに興味を持ったということを書いたことがある。
「唐の詩人が………である」と論じることは、その反面で、たとえば「日本の詩人は………でない」ということを意識している。実は、私もそうであった。私の頭の中の「宮中詩人・文学者」といえば、「百人一首」と「枕の草紙」と「源氏物語」の一部分ぐらいしかない。その私は、またもここに不学を恥じることになったのである。
数年前、父・紀光を見送ったおり、丁重な毛筆のお便りをいただいた。「犬養孝」とある。いつか、公害問題の汐見文隆先生が、「犬養先生というような偉い先生が来てくれたのに和歌山県知事は会おうとしなかった。不見識だ」と憤慨しておられたことがあったような気がした。その万葉研究家の犬養先生だということに気がついた。
その後、橋本市が、万葉の歌をたずねて歩く企画をした。その企画には、生前の父・紀光が参画していたというか、言い出しべえの一人だったらしい。父のやりかけたことなど関係ないのだが、橋本市の担当の方が、わざわざお参りに来られ、ぜひ参加をとおすすめいただいたものだから、家族サービスもかねて出かけたのだった。
出かけてみると、和歌山線の中から「和歌浦を考える会」の顔見知りのみなさんとご一緒するなど楽しい一日になった。犬養先生は、高齢のため車椅子でのご参加だったが、歌碑の説明をされ、「いっしょに詠おう」と朗々と歌に節をつけて詠われた。「歩きながらの説明で、「万葉の遺跡は心の文化財です。大事にのこさなくてはなりません。和歌山の知事さんも、和歌山市長さんも開発に熱心なので心配です」という意味のことを言われた。知事選挙前のことである。
途中で、私は、車椅子に近づいて名詞を出して「紀光の息子です」と生前のお礼を申し上げた。

  (二)

父の遺品を整理していたら、犬養先生の万葉解説のテープがあった。それを今、カーステレオでくり返しきいている。その結果、不学を恥じることとなったのである。
私は、万葉集を全く知らないわけではない。高校の国語でならったくらいのことは知っている。東国の農民が防人にかり出されるのを妻が「わが背」と呼んで送り出す歌があった。和教組の婦人部長をしていただいた西川先生のことを、私は、「万葉の女性」と勝手に名づけて悦に入っていた。戦時中、出陣学徒の何人かが万葉集を限りある荷物の中に加えたということも読んだことがある。
しかし、犬養先生のテープは、そんな程度でなく、万葉集に私を引き込むことになった。

信濃なる 筑摩の川の さざれしも
    君しふみてば 玉とひろわん
さ桧の隈 桧の隈川の 瀬を早み
君が手とらば 言寄せんかも

というような乙女の恋の歌の新鮮さにはじめてふれた。

犬養先生は、「玉とひろわん」の歌を、「人がふれることによって、魂がうつると考える心の厚み」と解説される。そこで、話に出されるのは、先生が朝のテレビでたまたま見たという、特攻で息子を死なせた老夫婦が鹿児島(知覧であろう)に旅行し、特攻の碑の所で拾ってきた一つの石ころを老夫婦がどんな思いで大事にしているかという話である。
唐詩にもとめなくても、古代日本の詩歌に、民衆の心が生きていたことをはじめて知ったのだった。いま、何回も何回も同じテープをきいている。

         (三)

和歌山の歌をいくつか紹介しておこう。だれでも知っているのは次ぎの二首
和歌の浦に 汐満ちくれば 片男波
 あしべをさして たづなきわたる
     山辺赤人
旅にあれば けにもる飯を 草枕
    旅にしあれば 椎の葉に盛る
     有馬皇子

 これなら、ぼくでも知っていた。初めて知ったのは

 玉津島 見れども飽きず いかにして
     つつみていかん 見ぬ人のため

大和の人たちにとって、和歌浦の海を見ることは大きな感動であったのである。この海の美しさを、孫や曾孫にも、万葉の人たちの感動を微かにでも追体験できるほどには残したいと思った。

一九九六、七、二一に書いたものを少しだけ手を入れた
                                       雑賀光夫
[PR]
# by saikamituo | 2007-09-29 00:08

地域から財界戦略への対抗軸を(岡田講演まとめ)

地域から財界戦略への対抗軸を
県自治研総会・岡田知弘先生の講演から

はじめに

 5月20日、県民文化会館で、和歌山県地域自治体問題研究所定期総会が開かれ、自治体問題研究所理事長・京都大学大学院教授・岡田知弘氏による記念講演「憲法・くらしと地方自治のゆくえ」が行われました。この記念講演を、「感想を含めて2800字にまとめよ」というのが、自治研事務局・武内まゆみさんの注文です。議員をおやめになってからも献身的に自治研の事務局を支えておられる武内さんには、深く敬意を抱いている関係で、手に余る仕事もお引き受けしないわけにはいかない。
 岡田先生は、「三年前には、市町村合併問題で、紀の川筋によくこさせてもらいました。」と切り出された。「その後、憲法問題が大変なところにきています。」
 そして、こんな大変な時代だから「地域からモノを見ることの重要性」を第一に強調される。「地域」とは、人間が生活する場である。人間が、安全・安心で生きていけるのかどうか、ここにしっかりと視点を据える必要がある。
 一方、資本主義の経済活動は、地球規模にグローバル化している。地域を顧みず地域産業空洞化もひきおこす。「グローバル経済」にたいして、私たちが作り上げる対抗軸は、地域の足下から、国を自治体を再生させることである。
 
財界がすすめるグローバル国家と地域経済の衰退

 「地域経済の後退」は深刻である。岡田先生は、1980年代以降の人口の減少・農林・水産・製造業の後退、就業の不安定化と格差拡大など、資料によって明らかにする。そしてその原因を「二重の国際化」と指摘する。第一に、海外への直接投資の急増で地方に分散していた工場が撤退した。直接投資の利益は、本社がある東京に集中する。第二に、農産物など輸入促進策で、農業・地場産業が衰退する。日本の食料自給率は28%になり、環境や災害問題をふくめて「危うい投資国家ニッポン」になっている。
 財界がすすめてきた「グローバル国家論」というものは、どういうものだったのか。1996年の「経団連ビジョン」は、橋本行革ビジョンに組み込まれ「多国籍企業に選んでもらえる国づくり、地域づくり」をすすめた。2003年の日本経団連ビジョン「活力と魅力あふれる日本をめざして」は、「メイド・イン・ジャパンからメイド・バイ・ジャパン」を打ち出した。
 内外企業が自由な活動できる環境整備、規制緩和・技術革新への支援・インフラ整備・法人税率ひきさげなどである。

矛盾の拡大から生まれた住民自治の発展

 多国籍企業の自由な活動を優先する政策は、一方では憲法改悪に収斂し、他方では住民の基本的人権とくらしを直撃せざるをえない。その矛盾がいま拡大している。JR尼崎事故、耐震強度偽装事件、ホリエモン事件、大企業と中小企業の収益格差、東京都地方の格差、ワーキングプア、社会的犯罪の増加、等々。
 その矛盾が集中的に現れるのが住民の生活領域としての地域である。この地域にある3232の自治体を1000に集約しようとした市町村合併は、政府・財界のもくろみ通りにはすすまなかった。目標達成率は、63%にとどまっている。昭和の大合併は達成率が98%であったのと対照的である。
 その中から戦後地方政治の歴史を画する住民自治が発展しつつある。住民投票条例制定で合併の可否を問う住民投票(400近い市町村)、「小さくても元気な自治体」フォーラムにみられる首長と研究者のネットワーク。ちいさい自治体でも、さまざまな努力がされている。
 長野県の栄村はその一つである。村づくりの基本は、大型公共事業に頼るのではなく、できるだけ「地域内経済循環」をめざして、「田直し事業」「下水道整備事業」などすすめている。
 「PPK(ピンピンコロリン)」というのは何のことかと思ったら、在宅医療・在宅介護を基本に、お年寄りは元気に生きていただいて、死ぬときには「コロリン」といく。できるだけ、「寝たきり老人をつくらない」という考えだろう。私も60才を過ぎて老後を考えると「PPK」でいきたいと思う。
 「下駄履きヘルパー」というのがある。2600人の村民のうち、160人がヘルパーの資格をもっているという。また栄村では、1970年代末に、雪崩で人身事故があったそうだ。そこで、建設業関係者を、雪の時期に特別公務員にして、お年寄り家屋の雪下ろしをしている。その後、人身事故は起こっていないという。
 岩手県・紫波町での地元の木材で小学校を建て、木材ペレット・ストーブを開発して、石油に頼らないことを目指している。じつは、この紫波町には、昨年、日本共産党和歌山県議団で、東北視察したおり、立ち寄って、木造の保育園や小学校におじゃましたのであった。
 「2007年問題」といわれる団塊の世代が退職する時期になった。有能な人材が、地方に帰ってくる。地域作りの大きな輪をつくるチャンスである。


「夕張みたいになったら、どないするんな」

岡田先生の講演のあと、いくつかの報告があり、その一つ「合併後の自治体の現状」として自治労連の根来書記長が「夕張みたいになったら、どないするんな」といわれると労働組合も住民も萎縮するという報告をされた。このことに、岡田先生がふれられたことを少し紹介しておきたい。
 「“第二の夕張になる。だから合併しかない“という言い方はよくあります。しかし、夕張の問題というのは少し特殊です。1980年代に、『前川レポート』というのがだされて、日本がアメリカからの輸入促進をさせられたとき、石炭の輸入促進もありました。政策閉山で、2000年には、炭坑はゼロになりました。閉山交付金というのがだされましたが、人口は10分の1に減りました。夕張市は、そのうえ、市長が独断でヤミの借金をした。政府の側は、北海道で市町村合併が進まないので、夕張をやり玉にあげたということもある。夕張では、いろいろ特殊な条件が重なったのです。
 ただ、財政の健全運営がなされているかどうかを公開するという問題は、夕張だけでなく、普遍的な問題ですね」

未来を胸にするものは青年

 岡田先生は最後に「植木枝盛『無天雑録』」を紹介された。
「人民は国家を造るの主人にして国家は人民に作られし器械なり」…「植木枝盛が言ったことが、いまでは常識になっている。正しいことは、いつか多数派になる。」と岡田先生。
「未来が其の胸中に在る者之を青年と云ふ 過去が真の胸中に在る者之を老年と云ふ」…「今日もこの会場にいらっしゃる真田寿雄さん(県自治研顧問)のような方は、青年なんですよ」とも。
 さいごに、「地域破壊がすすみ、同時に、地域での共同の輪がひろがっている。憲法問題が重大な局面になっている。ここでたたかわれる参議院選挙は、後世の人から見て、歴史の分岐点といわれるかもしれません」という言葉で、身が引き締まったのだった。
[PR]
# by saikamituo | 2007-09-22 23:37

三択問題と「なまけもの先生」

これも古いフロッピーから発見。城月で飲んだ時で、相手の先生もよく覚えている。


A お久しぶり。まあ一杯。このごろどうですか?
E 持ち手のなかったクラスをもってるよ。荒れたクラ スだったもので、校長に耳打ちしておいたんだ。「どうしても持ち手がなかったら、いうてきてくれていいよ。かわってきた先生に押しつけるようなことはやめよう」と。
職員会議の朝、家に校長から電話があって「すまんが、あのクラスもってくれるか」というから、「いいですよ」と引き受けた。
A それで、どんな実践してるの。
E 毎朝、先生についての「三択問題」をやる。
C どんなこと ?
E 「先生は、昨夜、八時、何をしていたでしょうか。
①デートをしていた。 ②一人で飲み屋で寂しく飲んでいた。③家で子守をしていた」なんて調子のものだよ。子どもたちがすごく盛り上がって集中する。そこから授業にはいる。この「三択問題」で自分を子どもにさらけだしてしまう。
A いかにも、先生らしいじゃない。他には?
E 「学級通信」出してる。
C 先生の例の手書きで?(下手な手書きの「職場回覧板」を出して全国に有名になった)
E いや、ワープロでやってる。面白かったのは、子どものことを知らないままに、一人一人の子どもの名前に託した親の願いを読みとって「通信」にのせた。「先生の書いて下さった通りです。ところが落ちつきがなくて……。」などという親からの手紙がわんさときた。
手紙のいくつかを「通信」にのせて、「今度の担任は怠け者です。怠け者に仕事をさせるためには、手紙をどんどんだすことが大事です。」などと書いておくと、ますます、手紙がふえる。
(このあと調子よく飲んで、あとをおぼえていない)

 飲んだ相手の先生は、飲んで教育実践の話をしたことをおぼえておられ、「通信」をとどけて下さいました。
[PR]
# by saikamituo | 2006-12-01 09:11

弔辞  田伏通男先生を偲んで

弔  辞

 田伏道男先生
 日曜日のお昼前、知り合いから、先生の訃報をしらされたとき、何度も聞き返しました。それでも信じられませんでした。
その前の日、憲法を守る「9条の会」が、澤地久枝さんをむかえて県民文化会館をあふれる集まりを開きました。先生はその集会からかえって、「いい話だった」と奥さんに語られて、休まれたといいます。「バスで一緒に集会に参加したのに」とどなたもが信じられないといわれます。いまでも信じられない思いでいっぱいです。

 私が教員になって赴任したのは海南市立野上中学校でした。その学校は、同和教育にとりくみ、地域のみなさんと協力して、毎年、同和教育をすすめる「沖野々集会」という集いを開いていました。教職員の権利を守る宿日直廃止のたたかいでも団結して感動的なたたかいをした職場でした。
 先生は、その中心になったお一人でした。あえて「そのお一人」といいます。それは、先生はどんなときでも、自分が縁の下の力持ちになって、「仲間と一緒にやったことだ」といわれていたからです。
 未熟な教師だったわたしは、やんちゃな子どもたちと格闘する毎日でした。私の宿直の日に遊びに来る子どもたち。学校に不満を持ち、そのはけ口を見出せない子どもたちを前にして、先生は、この地域の人たちが、差別のない人間が大切にされる世の中にするためにどんなに苦労してがんばってきたのかを語りました。「それなのに、おまえたちはあたけてばかりいて何だ」と子どもたちに厳しく迫ったのです。そのときの一人の子どもが、一年後に「差別をなくすために」という作文を書き、その後、この地域の同和教育教材として使われた、その始まりの歴史的瞬間でした。

 私が子どもたちとのとりくみに自信をなくし、教師をやめたいと言う思いだったとき、先生は私を自宅に呼んでくださいました。一緒にお風呂に入って「同志さいかと風呂にはいるか」といいながら私を励ましていただきました。そのとき「いなか料理やけど」といいながら出していただいた夕食の味と一緒に思い出します。

 私が教職員組合の専従役員として日方の教育会館の事務所にすわったときは、明楽民主市政を守った年でした。先生は、教職員組合の支部長であり海南地区労議長をされていましたね。中山豊先生が県会議員選挙に最初の挑戦されました。教育を守るために「子どもの幸せを守る会」をつくって、空手の先生など多彩なみなさんに集まっていただきましたね。そのとりくみが、教育を守るために、子どもの姿をまぶたに浮かべて話し合えば、保護者と教職員は一致点を見つけることができるという、その後の私の確信になったのでした。
 あのころの教職員組合の集会では、組合員の先生方は田伏支部長が、目をグリグリッと大きくしながら、情勢と教育を語って、笑わせながら元気づけてくださるのを楽しみにしたものでした。紀北教育研究会などの教育サークル、教研集会では、私たちが報告したつたないとりくみも、いいところを見つけ出して、ときには大げさと思えるほどほめてくださり、激励してくださる先生でした。
 そして地区労議長としての仕事では、その後の何度かの海南市長選挙がありましたね。民主的な海南市への挑戦が、その後の海南で、中山県議の当選、県会議員、市会議員が連携して市民の願いに応えるという今の姿をつくったのでした。
 私が和教組本部にいって、教育相談センターができたとき、先生はその主任として、不登校の子どもたちへの教育相談にかかわってくださいました。また現職の先生へのあたたかい助言者でありました。
 そして、三年前の中山県議からバトンタッチした私の県議会への挑戦であります。日本共産党後援会会長として、また無党派の人たちへのつなぎ役として、私を県議会に押し上げてくださいました。

 先の市会議員選挙で、先生はハンドマイクを担いで私と一緒に宣伝にまわってくださいました。「年寄りにハンドマイクを持たしていると思われたら票が減るから」と担いでいるハンドマイクをとりあげたりしたものです。選挙で忙しい中で、田んぼをきれいにして、田植えの準備をしていたと奥さんがおっしゃいます。野尻という地域をこよなく愛した先生です。
以前に組合活動で政府への要求行動に参加したとき、文部省の建物に入るのに、守衛さんから「どこから来たのか」ととがめられて「野尻から来た」と答えたというエピソードがあります。野尻という地域には、日本の主権者・国民が住んでいるんだ。主権者が政府の建物に入るのに何をとがめるのかという、先生の思いがこもったエピソードであります。

 毎年の年賀状に、先生は詩を書いてお送りいただきました。今年いただいた年賀状です。

   えんどう
稲刈りの終わった田の端を耕し
そっと植えるえんどうの苗
やがて伸びるつるが巻きつくよう
しっかりと杭を立てる
枝の張った竹をしばりつける

老いていく父母の姿に 帰省した子らは言う
「もうそんなしんどい百姓はやめなよ」と
だが 祖父母から受け継いだ百姓を頑固に続ける
この土が育ててくれた粘り強さや
人をいつくしみ 自然を愛する心を
お前たちに伝えたいという願いをこめて

増え続ける農産物の輸入
食料自給率の低下 百姓いじめの農政
郷里を離れて暮らすお前たちよ 忘れないでくれ
新しい明日を開くのだと
負けずに頑張る百姓たちの心を

今はまだ か細く頼りなそうなえんどうのつる
やがて次第にのび 竹の枝にしっかり巻きつき
厳しい寒風や吹雪に耐え抜いて
春にはたくさんのサヤをならせるであろう
    二〇〇六年 元旦

 先生、私たちは先生のお教えを受け継いで、たくさんのサヤをならせます。さようならとは、いいたくありません。先生はいつまでも私たちとともにあると思っています。先生のご意志をうけついでがんばります。いつまでも見守ってください。やすらかに。

二〇〇六年五月十六日      
                                県議会議員 雑賀 光夫
[PR]
# by saikamituo | 2006-05-17 10:00

中学校合併説明会より



★黒江公民館
(参加者) 教委の説明は一般的・抽象的にはわかるが、ベストといわれるとウソとちがうかと思う。本当の目的は金べらしではないか。
【教育長】小規模校のメリットは否定しない。一中は現在、数英は専科教員が各一人で場合によっては3年間、ずっと同じ先生に教えてもらうことになる。適正規模になると、いろいろな先生に教えてもらえる。多様な指導が求められている。小規模校では十分でない。行革としての計画ではない。
(参加者) 学力テストの結果の分析・評価が出されていれば、客観的に理解できるが、教委の資料ではわからない。
【教育長】規模による学力差はみられない。現在は9年間、同じ仲間で過ごす。規模は、幼小中と大きくなることが望ましい。部活は、1学年100人以上が望ましい。
(参加者・中学校教員)この10年間、新規採用はされていない。一中では20代はなく、40代・50代が中心。統合されれば、教員数が減るから、より採用されない。英語の授業では、25人のクラスを2人の教員で指導しているが、どうしても5人ぐらいついてこられない生徒がいる。小規模だからキメ細かい指導ができる。学校が荒れを防いでいるのは、小規模だから。広域となると通学上の安全性が問題。部活を早く切り上げなくてはならない。
【教育長】教員数は減るが、特別加配で教員が配置される。よりよい時代にあったゆとりのあるのびのびしたすばらしい公立学校をつくる。
【小畑課長】極端な意見なので反論する。中学校教員の平均年齢は48歳。徐々に是正されている。小規模だから荒れないのではない。諸取り組みの力。一時、30人学級が言われたが大都市のこと。地方では15―16。これでよいのか。
(参加者) いつごろ、どこになるのか。
【教育長】理解を得つつ、3-5年以内に実施していきたい。早いほどよい。いくつか考えている候補地があるが、公表をさしひかえたい。理解が得られる合理的な場所を考えたい。
(参加者) 何を判断として決めるのか。
第一案と言うが、親の立場から「総論賛成、各論反対」となる。意見などの記録はしているのか。参加者は少ない。日曜日などに実施すべき。参加呼びかけは、幼小低学年の保護者を重点的に。
【教育長】できるだけ多くの意見をお聞きしたい。おおむね賛成を得られたと判断できれば、教委が責任をもって決めたい。何回も機会を持つ。記録している。
(参加者) 通学距離、地域性を考えるべき。今後の開発・少子化対策も十分検討すべき。
【教育長】東海南中は、過去に統合した。3小学校で通学区が広い。まち作りと学校、開発も考えた。
(参加者・PTA会長)アンケート結果は、地域ごとに公表してほしい。
【教育長】公表できる。
(参加者) 1クラスの人数は、少ない方がよい。
【小畑課長】1・2年生は、35人学級。
(参加者) そのままの意見を公表してほしい。まず統合ありきでなく、じっくりと時間をかけて考えていくことが大事。
【教育長】慎重のうえにも慎重に。意見を聞き、公表する。
(参加者) すべての意見をホームページに。3―5年かけて市民の意見を聞くべき。3回目の説明会は、わからないという人がいないようにしてほしい。教委は十分な資料を持っているが、我々は、3-4回だけではわからない。
【小畑課長】公開はやぶさかでない。きてもらえれば、みてもらえる。

★内海公民館

(参加者) 教育委員会の3案は、よく考えてくれていると思う。第一案が一番いいというが、東海南は将来学年1学級になるが、それでもいいのか。
私は旧制中学校をでたが、当時、南野上の赤沼から通っている生徒が何人もいた。通学距離と言うことは、あまり問題にしなくてもいい。
【教育長】東海南は、いちど合併しているという経過もあるし、校区が広い。昔と違って通学路の安全問題もあるので、スクールバスも考えたい。
(参加者) 決定の時期や手続きは?
【教育長】できるだけ早く決めたいが、みなさんのご意見を聞いて慎重にやっていく。
(参加者) 統合するとすれば、海南二中のあたりになると思う。三中や一中は新しい体育館をたてたばかりだ。無計画な無駄遣いではないか。そんなお金がどこにあるのか。
【教育長】体育館は防災拠点になるし、いまでも社会体育のためにもつかわれている。無
駄ではない。市長部局とも相談している。教育施設にお金をかけることは必要だ。
(参加者) 海南三中は、10年間は、現在より生徒がへるわけでなく、学年3学級ある。まえの説明会のあとも、まわりのお母さんたちの中では「なにも統合しなくてもいいのに」という声が多かった。
【教育長】 私学に行く生徒もいる。   
(参加者) 私学にいく生徒がいるという話もあるが、私もよそからきたときは、3中では爆
竹もなったりしていたから、私学ということも考えた。しかし、いまの3中はバッチリ。
入学式で校長先生が「この学校は活気がある」と語られたがほんとにそうだ。3中をこの
まま残してほしい。
【教育長】学校がそんなに信頼されているとはうれしいことです。意見としてうけとめたい。
(参加者) 私も3中を残してほしい。それで提案があります。海南二中は校舎も古いので、市役所のあたりで二つに分けて、一中と三中にわかれたらどうか。
【教育長】一つの提案として、お聞きしておきたい。


★ 亀川公民館
(参加者) 時期や場所はどうなるのか。
【教育長】(他会場とおなじ)
(参加者) 巽中と合併して校区がひろくなると、岡田あたりは、一二三中の合併校の方にいく生徒もでるかもしれない。亀川の地域がばらばらにならないか心配だ。
(参加者) 亀川の生徒数は減っていない。統合する必要があるのか。3つの案と言うが、統合せず現状でという第4の案はないのか。
(参加者・PTA会長)亀川小中学校は、生徒数・学級数がふえて教室がたりなくなっている。「新しい統合中学校をつくるので、当分はがまんしてくれ」といわれては困る。
(参加者) 統合は不安です。通学距離は6キロまでといいますが、部活動をおわって6キロも歩いて帰るというのがほんとうにいいのでしょうか。(そのほか統合への不安をいろいろ述べられた)
【教育長】気持ちはわかります。
[PR]
# by saikamituo | 2006-03-30 23:08

「義務教育ニュービジョン研究会議報告」批判

「義務教育ニュービジョン研究会議報告」と
小中学校の統廃合問題(原稿素案)
県会議員  雑賀 光夫

(はじめに)
 私は、昨年末、「義務教育ニュービジョン研究会議報告」の素案が公表されて以来、問題の重大性に鑑み、いろいろな場で発言してきた。「しんぶん赤旗」がこの問題を報道してコメントを求められたので、コメントした。それは、字数の都合で短くされているが、次のようになっている。
【あとから挿入                        】
 その後、2月県議会で、予算特別委員会、文教委員会の場でこの問題での討論をおこなった。その報告も含めて私なりに問題点を提示してみたい。

1 小中学校のリストラ計画

 「義務教育ニュービジョン研究会議報告」は、建前上は、少子化の時代に義務教育はどうあるべきかを提言したことになっている。しかし、報告を求め、「報告」をまとめた事務局(県教育委員会)の意図は、いかにして小中学校の統廃合をすすめるかにあることは、容易に見て取ることができる。
 「報告」には、「資料」が添付されている。もしも、小中学校のあるべき姿を全面的に検討とするのなら、「学力」「体力」「不登校」「校内暴力」など学校がかかえる教育課題についての資料が添付されているのだろうと誰もが考えよう。ところが、そこに添付されているのは、「学校規模」「児童生徒数の減少」などにかかわる資料だけなのである。
このことから「研究会議には今後の義務教育に大きな影響が考えられる項目を何点か諮問しており、学校統廃合についてはそれらの中の1つの項目である。」(予算委員会での教育長答弁・予算委員会議事録メモ)にもかかわらず、学校統廃合のために求めた答申と断ぜざるを得ない。
私は、県議会の限られた討論時間の中で、二つの側面から問題を提起した。
第一は、「財源不足で大変だ」ということから、委員を誘導して「統廃合報告」をつくったのではないか。
第二は、「報告」の文面がそのまま実施されれば、県内の小中学校はどうなるのかを、委員のみなさんに本当にわかるようにして、審議をいただいたのだろうか。
「義務教育ニュービジョン研究会議」がどのように運営されたのかは、委員のみなさんがおいおい明らかにされていくだろうが、たいていは事務局主導ですすめられるのであろう。教職員組合から推薦された委員がはいっている場合は、苦労してそれにチェックをかける。けれどもそういう委員が入っていない「審議会」では、事務局主導でつくられる文案に、委員の意見が多少の色づけとして加えられる場合が少なくないように思われる。
私は、「中高一貫教育」を提唱した報告書を手にしたとき、委員の中の知り合いの方に電話して「どんな意見がでたのですか」とお聞きしたことがある。そのときの電話でのやりとりから、以上のような印象を持っている。
小関教育長は「『報告』は研究会に出していただいたのであって、教育委員会の方針ではありません。教育委員会は、提言をうける立場です」と責任を「義務教育ニュービジョン研究会議」の委員メンバーに押しつけている。今回の「報告」は、小中学校教育をゆるがす、県民的な論議になるだけに、委員のみなさんは「義務教育ニュービジョン研究会議」の審議の実態を積極的に明らかにしていただきたいと思っている。


2 財源論から誘導された「報告」

「財源不足で大変だ」ということから、委員を誘導して「統廃合報告」をつくったのではないかと述べた。
私は、この報告が出されたとき、教育委員会事務局にお願いして「研究会議に出された資料を全部持ってきてください」とお願いした。第一回会合でだされた資料に「義務教育費半額国庫負担が廃止されたら40道府県で財源不足になる」という表題がついたグラフがある。出所はかかれていないが、文部科学省が発表して当時の新聞にも取り上げられた資料であることはすぐわかった。
文部科学省が「半額国庫負担が廃止されたら大変だ」という「制度を守る」立場でつくった資料を、県教育委員会は「半額国庫負担が廃止されるから和歌山県の教育財政は大変だ」という資料として、「研究会議」で配布したのである。
 木村知事は「三位一体の改革」に熱心である。そこで私は、教育委員会が「研究会議」で配布した「文部科学省資料」を示して、「こういう資料もあるのに、知事はなぜ、国庫負担廃止に与するのか」と質問した。
(知事)義務教育は地方の自治事務であり、地方分権の発想からいけば、国からの補助制度により担保されるものではない。
    税収の偏在により差ができることは別の問題であり、税源の多寡をうまく調整できる制度を義務教育とは関係なしに構築していくものであり、本当の分権型社会の構築のためには、こういった考え方に賛成していただきたい。(予算委員会での知事答弁・予算委員会議事録メモ)
財源の不足分は、配分調整があるから大丈夫だというわけである。知事はさらに、「こういう資料で大変だとふれまわっては困る」とい意味のことまで述べた。私にとっては、事前にかわした「答弁メモ」にはないが、期待通りの答弁である。
 私は、この知事答弁をうけて、教育委員会が「こういう資料で大変だとふれまわっては困る」ということを追及したのである。

(注)実を言えば、予算委員会での討論は、私にとっては、一種の「あそび」にすぎないことを告白しておいたほうがいい。
 ちょっとみると、知事と教育長の矛盾をついて、あっと言わせた討論なのだが本質的な問題は、次のようなことである。
① 現在の義務教育費半額国庫負担(半額でなくても3分の1でも同じ)のもとでは、全国的に共通の教育水準が保障される。小規模校が多い地域でも、それだけの教員数が、国庫負担と地方交付税の積算の基礎になる。学校統廃合をして教員数をへらせば、県の財政支出は減るが、国からの歳入もへるから「学校統廃合で財政を楽にする」「その分を借金返済に充てる」ということにはならない。つまり学校統廃合への財政面からのインセンティブ(誘因)は働かない。
② 半額国庫負担制度がなくなり、知事がいう「財源調整」が、学校数・教員数の積算でおこなわれなくなると、学校統廃合をおこなって、教員数が少なくなれば、そのまま県財政がうるおうという仕組みが作られることが考えられる。私たちが「半額国庫負担」に反対するのは、そのためである。
③ 知事は、そうした財政の仕組みづくりを積極的にすすめているのであり、そのために「こういう資料で大変だとふれまわっては困る」というわけである。(たしかに文部科学省が作った資料は、一面的な資料である。)
④ 一方、教育長は、知事が考えるような制度になることを見越して、いまから学校統廃合を準備している。
⑤ 知事と教育長がやっていることは、矛盾しているのではなく、本質を県民から隠すやりかたが違っていたために、その矛盾を私につかれたのにすぎない。
* ここにのべた制度の説明は、大まかな話であることは断っておく。

3 学校現場がどうなるのかを現実につきあわせて考えもしない作文

「報告」の文面がそのまま実施されれば、県内の小中学校はどうなるのかを、委員のみなさんに本当にわかるようにして、審議をいただいたのだろうか。
わかりやすいように「報告」の文面から、「中学校の適正規模化」だけを、抜き出して要約してみよう。
① 一学年3学級(学校で9学級)以下の中学校は、統合を検討する。
② 通学範囲は、文部科学省がいう6キロメートルを大きく上回るが、通学路の整備やスクールバス導入につとめる。
 以上の2点につきる。「あまりにも通学距離が大きくならないように配慮する」などという文言は、どこにもない。
 この物差しを提言するとき、和歌山県の中学校をならべてみて、提言が受け入れられ実施されればどうなるのかを考えるのは、あたりまえのことであろう。「机上の論議」という言葉があるが、「机上」でもそのくらいのことはできる。
 私が、すぐに頭にうかべたのは、合併した紀美野町のことだった。野上中学校・美里中学校・長谷毛原中学校という3つの学校がある。これを合併して、美里中学校のあたりに紀美野中学校をおくのだろうかと考えた。
 もっと紀南の方に行ったらどんなことになるのだろうか。私は、新田辺市の中学校をならべてみて、唖然とした。
 龍神・本宮・大塔・など新しく田辺市に編入された広大な地域に散在する中学校。二つにわけては、適正規模の基準を満たすことにはならない。「報告」の物差しでは、一つの中学校にして、通学路の整備とスクールバスで保護者の不安をとりのぞくというのである。
 文教委員会でこのことを指摘すると、小関教育長は「研究会の報告を弁護する必要はないが、雑賀委員がそこまで言われるのなら申し上げるが、報告本文をみていただけば、そういう心配はないように書いている」と開き直った。私はそこで議論を打ち切ったが、あらためて本文を読み返してみても、わたしの立論をさまたげる記述は、どこにもない。
 「この提言をそのまま受け入れるような人は誰もいないから気にしなくてもいい」というのであれば、あまりにも無責任ではないだろうか。

 議会と言うところはいいところで、議事録は残るから、次の議会でどこまでも追及することができる。

                     (暫定原稿)
[PR]
# by saikamituo | 2006-03-15 23:21

茶話

薄田泣僅というコラムニストがいる。「茶話」で知られる……といっても知る人は少ないかもしれない。
私の手元に、昭和26年11月10日印刷の、初版「茶話」がある。父・紀光に「何かおもしろい本はないか」と聞いたら、「こんなおもしろい本はない」と紹介してくれた父の形見ともいうべき本である。文庫本で一四〇ページ程度のものだ。フランス文学者の河盛好蔵氏の解説によると、大正五年から三四年間書き続けたという。
………長い演説より短い演説の方が準備がいる。短い演説をして好評を博したと妻君に自慢した男がいた。聴衆は妙齢の婦人ただひとりだった。その人はここにいる。
I love you.  ………
というぐあいな話を、もうすこし長い文章で、話の間に細君が目を三角にすることもふくめて書く。フランクリンがうそをついたという話(牡蠣を食う馬)も面白い。
完本「茶話」というのが1983年に「富山房百科文庫」として出版された。三冊の新書本・計二〇〇〇ページを越すだろう。私はそれを東京の本屋で見つけて持っている。ただ第一巻が見つからない。
たしかその第一巻にあったと思われる話が、好戦的なジャーナリストへの皮肉である。
「中国への強硬姿勢を書き立てるのもいいだろう。ただし私は、戦争になったとき、〇〇、▽▽などの面々に、戦線にでてもらいたいと思う」という趣旨のことが書かれている。
今日の「赤旗」に、アメリカで対イラク強硬論を唱えているのは、本人が兵役を逃れた人たちだということがアメリカで問題にされ始めているという記事があった。私は、夜中になって、「茶話」にあった好戦的ジャーナリストへの批判を探し始めたが、第一巻が見つからない。しかし、歴史は繰り返す。いや、繰り返させてはならない。
ところで薄田泣僅が、そんな文章を書けた時代は貴重である。「大正デモクラシー」といわれる時代である。有事法制を許す様なことになったら、こんな批判さえできなくなるのではないかと心配する。
(数年前に書いたもの。一太郎の新しいソフトを買ったので、古い原稿が生き返った)
[PR]
# by saikamituo | 2006-01-21 20:25

私の生き方の模範としての上野幸男さん

 

県学習協の草分けの「二人の上野さん」のお一人、上野幸男さんがお亡くなりになった。
もう一人の上野寿男さんは、ずっと学習協によりそって松野理事長をささえてこられたのに対して、上野幸男さんは共産党の専従もされてお忙しかったから、いまの学習協の若い皆さんの中には、面識のない方も多かろう。

 上野幸男さんは、共産党を退職されるころから海南市の旧貴志川町との境に近い高津という地域に住み、桃作りの農家の皆さんに溶け込んで暮らしておられた。そして、地域での共産党支部の活動、治安維持法同盟の活動などに献身された。寒い中、単車で集金にこられて恐縮したことを思い出す。
 私の家は琴の浦の山際にあるが、夏には庭の草取りがたいへんだ。妻の母親が同居してくれていたころは、草引きをしてくれたのだが、その後はお手上げになった。
妻が言った。「シルバーの方にお願いするんだったら上野さんが行ってあげてもいいといってくれるんだけど」。
私は即座に、「やめてくれ」といった。「ぼくにとって、上野さんはどんな人かわかってるのか。和教組委員長だった北又安二先生と同格の人なんだ。夏休みに上野さんが草引きにきてくれて、僕がパンツ裸で昼間からビールを飲んでいられないじゃないか」そのころは、盆休みには、高校野球のテレビを見ながら、昼間からビールを飲んでいた。今は議員だから暑い中でも歩き回るのでそんなわけにはいかない。

上野さんは、1960年代、全電通(今のNTT)の組合の委員長だった。1964年の春闘で、総評は4、17ストライキという大きなストライキを企画した。そのストライキを共産党は「挑発ストライキ」だという規定をして反対する声明を出した。「4・8声明」というものである。数ヵ月後に、共産党はこの声明とその後のストライキに反対したことが綱領路線から逸脱した誤りであったと自己批判する。「日本共産党8大会9中総への幹部会報告」というものである。この「9中総」とその自己批判を予告した宮本顕治書記長(当時)の党創立記念日の名講演「わが党の革命的伝統と現在の進路」は、迷いながら民青同盟から共産党の接近しつつあった僕の青春で忘れられないものである。
(注)この名講演がのっている「現在の課題と日本共産党」(上)をとりだしたが、「自己批判の予告」が見当たらない。「時の話題」だから収録のとき削ったのかもしれない。
上野さんは、一時的に綱領路線からはずれた誤った党の方針と大衆団体の方針の間で苦しみながら、最終的には党の決定に従い、全電通の組合から排除された方なのである。共産党の誤りに従ったために組合委員長の座を追われたにもかかわらず、上野さんはその誤りを短期間に克服した共産党とともに歩まれた。「共産党のあやまりでえらい目に会った」などと愚痴をいうことは一度もなかったのではないだろうか。

追悼文をかくにあたって「草刈」のことを妻に話してみたら、「その話、上野さんに話したら、そんなに言ってくれたかとニコニコ笑ってくれたよ」といっていた。「いつもニコニコしておられたことを書いたらどう」ともいう。
いまになれば、草刈においでいただいて、僕も草刈を手伝って、早く終わって一緒にビールを飲みながら「4、17スト」のお話をもっとお聞きしたらよかったかもしれないとも思う。
上野さんは大きな労働組合の委員長をされた方だ。共産党の専従もされた。僕も、労働組合の委員長までさせていただき、今は議員をさせていただいている。こんな仕事をしながら、「幹部や議員ががんばるのは当たり前。人間の値打ちは肩書きがとれたときの生き方で決まる」と自分に言い聞かせている。いろいろな貢献の仕方があるのだろうか、僕は体が動く間は、自分の家の周りのビラ配りをし、5部でも10部でも赤旗の配達・集金はさせてほしい。上野さんは、そういう生き方を貫かれた方として、僕の模範なのである。

さいかみつお(県学習協副会長・日本共産党県議会議員)
[PR]
# by saikamituo | 2006-01-03 02:14

徒然草 このブログの名前のいわれ

 赤旗日曜版の配達をしていて、集金に立ち寄るのが楽しみなお宅がある。
 玄関に入ると花の香りがいっぱいなのだ。その玄関というのはけっしてりっぱなものでなく、「ただの上がり口」というだけなのだけれど、狭いだけにかえって、花の香りがするのかもしれない。毎週、この上がり口に花を生ける方の奥ゆかしさが感じられる。
 そんなことを考えていたら、昔、国語で習った「徒然草」のある段を思い出したのだった。
 「月のきれいな夜、ある女性のお宅を訪問した。そのお宅を辞した後、しばらく様子を見ていたら、女性はすぐに引きこもらずに、しばらく月をながめていた。誰かが見ているともおもっていないのに、風流を愛する姿に感銘をうけた」というような内容だったと思う。

 どこにあったのだろうか。高校時代の参考書をおいていたので引っ張り出したが、徒然草の全文が収録されているわけではない。岩波文庫の徒然草を買ってきてさがしてみて、やっと見つけた。第32段である。

九月(ながつき)二十日の頃、ある人に誘はれ奉りて、明くるまで月見歩く事侍りしに、思し出づる所ありて、案内(あない)せさせて入り給ひぬ。荒れたる庭の露しげきに、わざとならぬ匂ひ〔たきものの匂ひ〕しめやかにうち薫りて、忍びたるけはひ、いと物あはれなり。よきほどにて出で給ひぬれど、猶ことざまの優に覺えて、物のかくれよりしばし見居たるに、妻戸〔兩方へあける戸〕を今少し〔客の開きし戸をもう少し〕おしあけて、月見るけしきなり。やがてかけ籠らましかば、口惜しからまし。あとまで見る人ありとは如何でか知らむ。かやうの事は、たゞ朝夕の心づかひによるべし。その人程なく亡せにけりと聞き侍りし。

 インターネットで「超現代語訳・徒然草」というのをみると、この段には、「客への心づかい」という表題がついていて、「客が帰ってすぐに戸を閉めなかったのが客への心遣いとして奥ゆかしい」と読み取っているが、どうだろうか。

 こんなことを最初にかいたので、このブログの表題を「さいか光夫の徒然草」とした。
[PR]
# by saikamituo | 2006-01-03 01:51