雑賀光夫の徒然草

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党とともに歩んだ岩尾靖弘さん

生涯を党とともに歩んで 岩尾靖弘
                    月刊学習1992年 3・4月掲載
                    佐々木良平(本名 楠本一郎)

地域におけるすぐれた指導者…
<子どもたちに親しまれた教師  
  
  和歌山県における一九五八年を中心とした、教職員の勤務評定に反対する闘争(勤評闘争)は、全国的な民主勢力のたたかいが警職法反対闘争から安保闘争へと発展する上で、大きな役割を果たしたといわれています。それは和歌山県の勤評闘争が、それぞれの郡市においても県段階でも、教職員組合や民主団体による共闘を重視して、たたかわれたからです。
 それ以後の和歌山県の教職員組合運動や民主運動を支えてきた活動家が、ここ数年、相次いで亡くなりました。そのうち、六十歳前後という働き盛りで惜しまれながら亡くなった一人に、岩尾靖弘さんがいます。彼は、労働運動、教育運動の中でつねに学びながら成長し、すぐれた組識者として、多〈の人に親しまれ、敬愛された指導者でした。
一昨年(一九九〇年)十二月二十日付の『赤旗』は、岩尾さんの死去について、十八日午前六時五十分、肝硬変のため死去。六十三歳。一九五四年入党。永年党員。和歌山県教職員組合専門委員。和歌山県国民教育研究所事務局長。和歌山県教職員組合執行委員。同海草支部書記長、海南市政を明るくする会事務局長などを歴任した、と伝えました。

 ◎文学書を読みふける青年時代

 一九二七年十一月二十九日、那賀郡猿川村(現海草郡美里町)に、父泰三、母たまえの二男として生まれた岩尾さんは、一九四二年猿川小学校(現国吉小学校)高等科を卒業し、兄さんの進んだ道にならって、和歌山師範学校予科に入学しました。このころの彼のことを、同級生であった中山豊さん(現日本共産党海南市議)は、次のように書いています。
 「学生の頃、彼は教壇からあびせかけてくる課題に熱心でなかった。懸命に文学書にふけっていた。戦時中のことである。軍国主義教育をさけて如何に人間らしく生きるかを勉強していた」。
 生前岩尾さん自身が語っていたところによると、彼の文学好きは、小学生の時若い女の先生が授業で文学の読み聞かせをしてくれた影響によるということでした。後に教師として国語を語るときも、すぐれた文学は、読むだけでいい場合もあるのではないかというのが、彼の持論でした。
 教え子が語る教師としての岩尾さんですが、学芸会の劇の練習の際、何度か夜練習したことがあったが、そんなときは自分も好きな柿をむいてみんなに食べさせてくれたこと、音楽の時間は、ピアノを弾きながら、いい声で歌を歌ったこと、体育の時間には、年に十回ぐらい近くの山へつれて行ってくれたことなどが、印象的なことだと語っています。子どもと同じ日の高さで物事を見、考えていました。
 六〇年安保闘争のあと、彼も会員であった教育研究サークルの合宿研究会で、「文学論 スタンダール『赤と黒』」と題して講話をおこなっています。その中で、「人間一生のうちに何度か如何に生きるべきかということを考える機会がある。その際、宗教書とか哲学書等を読んで、直接教訓を導きだすという型があるが、もう一つ、文学というものを通した、小説や詩という形を通じて、歴史観、社会観や生き方を直接説いていないものから生き方をとらえていく型がある」と語っています。その話の終わりに、教師はあまり小説を読んでいないのではないか、という疑問を投げかけ、楽しく小説を読んでほしいと注文をしています。
 読書好きの岩尾さんは、青年時代から何でも読む乱読タイプで、新刊書はいち早く読み、人にすすめるほうでした。マーク・ゲインの『ニッポン日記』や五味川純平の『人間の運命』などは、自分が読んだあと、人に「読んでみないか」とすすめた書物です。こういう乱読タイプの読書は亡くなる直前まで続いたようです。
 文学を好んで読んだことが、人びとを組織する際、人間をありのままとらえそこから出発する、という彼の資質と切っても切り離せないことだったと思います。
 少しつけ加えますが、卒業するために人並みの勉強をする、というようなことも軽視しないのが、岩尾さんのもう一つの側面でした。先の中山さんの言を借りると、師範時代、「試験の前になると数学などについて、『どこがでる』かと、出題されるかもしれないいくつかの問題を言えという。少なくともその中でいくつかは言い当てていたのであろう。必要な問題の正解をしてパスをするのである」。

◎勤務評定反対闘争をくぐって

  一九四八年三月、和歌山師範の本科を卒業して教職につきますが、その翌年結婚し、一男一女をもうけます。このころの岩尾さんは、教職員組合運動や「わだつみ会」のような平和運動にあまり関心を持っていなかったといいます。
 ところが一九五一年に政府は、アメリカなどと単独講和を結びましたが、日本共産党をはじめ、労農党や産別会議、私鉄総連をはじめ多くの労組、民主団体、大学教授などの知識人が、全面講和を要求する運動をくりひろげ、全面講和を要求する署名が四百八十万も集められました。
 また、そのころ原子兵器の無条件禁止を要求する有名なストックホルム・アピールの署名が六百四十万も集まるなど平和運動が大きくもりあがりました。
 こういうなかで、岩尾さんは、物の見方、考え方について、居住組織の人びととしばしば討論し合ったといいます。
 そんなとき、一九五三年七月十八日に和歌山県をおそった大水害の救援活動に教師として積極的に参加するなかで民衆の側に立つと、心のうちに決意を固めていた岩尾さんは、入党のすすめにたいして快く応じました。
一九五七年から始まった勤評闘争の時期は、和歌山県の教職員組合が、いわゆる「校長組合」から、下積みの教育労働者が主人公の組合に脱皮する時期と重なっています。
一九五八年四月、岩尾さんは海草郡内の二つの町にまたがった教職員組合班組織の書記長の役につき、勤評闘争をたたかいます。和歌山県の勤務評定反対闘争は、「勤評は差別を助長し、民主教育を破壊する」という合言葉のもとにたたかわれました。この二つの町の各職場では、愛媛の勤評闘争の経験などをきちんと学びながら、地域の父母や個人・民主団体との共闘を追求しました。その結果、二つの町の教育委員会が勤務評定実施反対の決議をするという成果を上げることができました。
しかし、権力の側の反撃もきびしく、その年度末の人事異動で、ある学校の教職員のうち半数が配転されるという報復的人事が出てきました。この時、岩尾さんたちは地教委と交渉するため、国鉄の駅で終列車まで待っても帰ってこなかった教育長を、朝の一番列車まで待ってやっとつかまえ、交渉の場を持つことを約束させるというきびしいたたかいもおこないました。
 岩尾さんは、このような勤評闘争をふりかえって、次のように書いています。
 「勤評ほどすべての教師を闘いの中にまきこみ、教師自身の力をいやおうなくひきむいた闘いはなかった。あるものには限りない自信と勇気を与え、あるものには権力の前におしひしがれるよわい姿を見せつけ、あるものにはあきらめと逃避をうえつけ、その意味で非常に残酷な闘いであるとも言える。残酷であるだけに今後の闘いそのものも如何に苦しくとも途中でやめることのできない性格を持っている。前むいて闘いつづける以外に苦しみを少なくする道がない。それほど権力との闘いは冷酷無慈悲なものである」
 和歌山闘争の意義は、愛媛などの貴重な経験に学びながら、過去十数年蓄積してきた組織の全能力をふりしぼって、全国的に守勢に追いこまれていた勤務評定反対闘争を攻勢に転じ、文字どおり全国民的な運動へ転化させる機縁を与えたという点にあったといわれています。そして、勤務評定反対闘争の前途に希望の光を点じ、高知闘争とともに、単なる教師のたたかいの枠をこえて、全労働者階級を中心とする国民的なたたかいに発展させる有力な支柱となったのです。岩尾さんたちのたたかいは、この和歌山闘争を下から力強く支えました。

◎組織者として一回り大きく成長
 よく知られているように、一九五八年は日本共産党の第七回大会がもたれた年です。この大会で採択された「『勤評反対』激励の決議」では、「教師の勤務評定は教育の自由をうばいとり、子どもと教師とを軍国主義体制の確立に奉仕させ、日本の核武装のための思想的準備を整え、学校教育をふたたび戦争への道へのぼらせようとするものであります。(中略)諸君の闘争には子どもをはじめとして全人民の幸福とわが国の将来とがかけられています」と呼びかけていますが、これは、勤評闘争をたたかう教職員を大きく励ましました。d0067266_18551244.jpg
 岩尾さんは翌年一九五九年四月には、海草郡・海南市の小中学校の教職員で組織されている和教組海草支部の書記長に就任します。そして職場の組合員の声や要求を引き出しながら地域での共闘をひきつづき発展させる幅広い活動をすすめていきました。人を組織する上での彼の持ち味がいかんなく発揮され、組織者としてひと回り大きく成長したのは、この時代です。
 彼の友人の田伏通男さんは、そのころのことを次のように書いています。
 「このような彼だからこそ、勤評闘争後のあの困難な時期、海草支部書記長として支部組織を守りぬき発展させることができたのだろう。勤評闘争後、厳しい弾圧に耐えきれなくなって次々と脱退者が出たころも、少しも動揺せず、いつも笑顔を失わなかった。支部委員会を招集しても、数人しか集まって来ない状況の下で、先ず人を集めることが大事だと考えた彼は、青年教師たちに働きかけて焼肉の会を開き、そこへ集まった組合員に学習させたりなどして、次々と組織していった。
 どんな人にたいしても、じっと話を聞き、その上で歯に衣を着せず率直に批判をしたりするけれども、その人のすぐれた点を大いに評価しつつ展望を示し、相手の気持ちを汲む心遣いを忘れない態度は、彼と接したすべての人々をひきつけたのだった。
 考え方が全く違う人さえひきつけ親しくつき合うのをみて、靖っさんは、磁石のような不思議な力を持った人だなあと、感心したものだった」

貫いた科学的社会主義の学習  同和教育でも党の立場

 ◎集中的に国民融合諭を深める 

  和歌山県では、一九七一年四月に同和対策特別措置法の趣旨にそって、同和加配教員が県下に初めて配置されます。当時有田市の小学校に勤務していた岩尾さんは、学校の要請でその任務を引き受けます。それ以来、岩尾さんは退職までの十三年間同和教育推進教員(以下、同推教員と略す)の仕事を続けます。
一九七四年十一月、兵庫県で八鹿高校事件(七十名の教職員を襲い、五十四名を負傷させた惨事)が、部落解放同盟によって引き起こされました。十二月十九日には日本共産党の村上弘議員が、衆議院予算委月会の総括質問で、この事件を取り上げて政府を追及しました。ちょうどこの日和歌山県同和教育推進教員連絡協議会(以下県同推協と略す)が御坊市で研修会を開いていたのですが、テレビに映る村上議員の質問が、夕刻、一日の研修を終わってロビーにすわっていた参加者をとらえました。参加者はまんじりともせずこの質問に聞き入っていました。
 翌年四月、岩尾さんは県同推協の事務局長に就任します。八鹿高校事件をきっかけに国民融合論にもとづく同和教育の見直しが提起されます。「解放教育」の影響が比較的少なかった和歌山県においても、改めてこれにとりくむことは重要な課題でした。
 この時期、部落問題についての日本共産党の政策・方針が、「赤旗」紙上にいくつか発表されました。一九七五年四月四~五日の小林栄三論文「自主的民主的同和教育の確立のために--朝田派の教育破壊への批判に立って--」、同五月二十六~二十七日の「部落解放のいくつかの問題--差別主義に反対して、国民的融合ヘー-」、同六月九日の「いわゆる『差別用語』問題について」などは、当時日本共産党が教育政策・教育運動・教師論について発表していた多くの文献とともに、民主的同和教育を求める教職員にとって大きな支えになりました。
 岩尾さんは、県同推協の中で、この同和教育を見なおすという課題に敢然と、そしてねばりづよくとりくみます。定期にもたれる県同推協の研修会で、現場の実践家や大学の研究者を呼んで話をききながら、ねばりづよく国民融合論にもとづく同和教育の基本路線についての理解を深めていきました。「提起された問題を集中的に深める」という、岩尾さんの活動スタイルが、威力を発揮しました。
 基本路線の問題だけでなく、それにもとづいて、同和教育の各論ともいうべき課題についても、その正しいあり方を解明する努力がなされました。同推教員と地域の関係、小学校での歴史学習のあり方、同和教育の「特設」授業、同和地区子ども会の問題など、岩尾さんの手がけた問題は多岐にわたっています。
 後年この時期の経験をもとにして、「同推教員の位置づけと任務をめぐって」という文書を執筆しました(『部落』一九八九年八月号)。この論稿をふくめて、岩尾さんの残した文章・講演記録が『ロマンを語る 岩尾靖弘遺稿集』として、1991年末出版されています。

 ◎体罰問題にとりくんだ民研時代
 岩尾さんは学校現場を持ちながら、県同推協の事務局長・会長をという大役を九年間も引き受けてきました。この間、有田地方の子どもや教職員の抱える問題を解決するためにも、日夜奮闘しました。
 岩尾さんは、退職後和歌山県国民教育研究所(以下、民研と略す)の事務局長に就任します。そしてある中学校で吹き出した非行問題についての調査をすすめ、抜本的な解決策を探るために、教育実践・学校レベルの問題にとどまらず、地域や行政レベルをふくめた全面間な教育調査を、現場教師や研究者の力を結集しておこないました。
 民研の事務局長時代、岩尾さんが特に力を入れて取り組んだ課題の一つは、教師の体罰を克服するということでした。教職員組合の機関紙に体罰問題の連載を執筆するとともに、この問題で学習討論する機会があれば、県下どこへでも出かけていきました。
 また、そのころ教職員組合の援助でつくられた教育相談センターの活動にも積極的に参加しました。今でも語り種になっているのですが、会議に岩尾さんが参加するときは問題がよく深まるというのです。それは、彼自身問題を解明するというより、彼が人から話を引き出すのがとても上手で、討論に花が咲いたからです。
 岩尾さんの活動を支えたのは、科学的社会主義のねばりづよい学習でした。一九五八年の夏、勤評闘争の最中に第七回党大会議案である「党章」(綱領と規約を合わせたもの)草案が発表されました。その学習・討議を、岩尾さんとともに、たたかいの合間を縫い何回かの日曜日をさいておこなったことを、昨日のように思い出します。
 岩尾さんは、一九六五年の四月、彼の死因にもなった肝硬変の発病で、六年間の専従の海草支部書記長を辞任し、現場へ復帰しました。この時期に岩尾さんは、古典もふくめ、科学的社会主義の学習を集中的におこないました。そのころ、第九回党大会の後、第二次総合二カ年計画と独習指定文献が発表されそれにもとづいてねばりづよく学習がすすめられていました。d0067266_185927100.jpg
 岩尾さん個人の独習の様子を語る資料として、一九六六年二月十日の日付のメモが残っていますが、その年の十二月まで読了する文献(古典の部類)として、次のようなものがあげられています。
 『国家と革命』、『帝国主義論』、『さしせまる破局それとどうたたかうか』、『民族自決権について』、『社会主義革命と民族自決権』、『共産主義内の「左翼主義」小児病』、『反デューリング論』、『労働組合について』、『第二インターナショナルの崩壊』、『フォイエルバッハ論』、『党の統一について、戦闘的唯物論の意義について』。
 ◎『月刊学習』に投稿
 岩尾さんは、山本進のペンネームで、『月刊学習』(一九六五年十二月号)に「わたしたちの細胞(現在の党支部)学習会」という報告を書いています。
 学習の基本は独習ですが、声をかけるだけではなかなか実践にうつされにくい、と言われています。それを助け全体の学習意欲をもりあげるため、一泊二日でおこなったのが、この学習会です。
 岩尾さんは、この報告の中で、学習が身についていくためには、比較的抵抗の少ない短い文献から始めること、分からないところが多くても、毎日少しずつ読みすすめて、とにかく一冊の本を仕上げるようにすること、とくに古典は簡単に全体が分かるものではないが、労働者の解放のための理論だから、やりさえすれば誰でも成果を上げ、学習の喜びを味わうことができることなど、自分の経験も含めて、説得的に語りかけています。
 また、全体の独習が進んでいく上で大切な四点を、次のように上げています。①支部会議でどんなときにも一貫して学習の問題をとりあげること。②思いきった集団学習会をすることが、独習の大きな刺激になること。③支部員の中でまず一名ないし二名独習をやる人を意識的につくること。④どんなささやかな経験や問題点もつねに出しあって相互援助をすること。
 また岩尾さんは、大衆活動としても科学的社会主義の学習を大事にしました。経済学教科書の学習サークルについては、先にふれましたが、一九七〇年四月、京都知事選に何人かで支援活動に行った帰り、車の中の雑談から生まれたのが、唯物論の学習サークル「紀北唯物論研究会」でした。


◎教職員共産党後援会の活動の中で
 最後に、教職員共産党後援会の中での活動をふりかえってみたいと思います。岩尾さんという人のもつ力が最も総合的に発揮されたのは、この活動の中であったといえるかも知れません。
 彼の口ぐせは、「構えを小さくしないで、大きな構えを」でした。彼の活動の特徴をいくつかあげるとすれば、次のようなことでした。
 後援会に集まってくる人びとに、必ずその時の情勢を訴える。そして、みんなと一緒に段取りをきめ、そのためのいろいろな係の分担をきめる。それぞれの動きが軌道に乗るまで気を配り、動きだしたら信頼してまかす。実務を抜きに活動はないことを他人にも説きながら、自分もきちんと実務をこなしていく。情勢判断は事実にもとづいて総合的にきびしくおこなう、などでした。
 どの人にも温かく接する岩尾さんの人柄が、多くの人を引きつけました。新しく参加した人には必ず声をかけて、話をじっくり聞きました。また、元気をなくして結集できていない人には電話をかけ、励ましながらぜひ力を貸してほしいと訴えました。時には、言いにくいことを、ずばり忠告するということもありました。みんなが元気づくこと、たとえばにぎやかな雰囲気をつくることなどをとても大事にしました。職場からたまり場へ直接かけつける仲間のために、時には自分で「おさんどん」を引き受けて、温かい食事を用意するということもありました。
 食事の時間には必ず食べる、というのが彼の活動の際の習慣でした。好きな酒もぷっつりやめて、発病以来二十五年間肝硬変を体内に持ちながら、常に温かく仲間を励まし続けた岩尾さんから学ぶものは多いと思います。

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# by saikamituo | 2012-01-10 00:27

陝西省人民対外友好協会表敬訪問

日中友好協会和歌山県連で、2011年10月14日から19日まで「北京・西安への友好の旅」をおこないました。その報告から。陝西省対外人民友好協会への訪問の記録です。


古都・西安を訪ねて
陝西省人民対外友好協会表敬訪問


劉先蓮副会長の歓迎のことば(要旨)

 陝西省人民対外友好協会を代表いたしまして、雑賀先生をはじめとする和歌山県連合会の皆さんのご来訪に対し心からの歓迎の意を申し上げたいと思います。
 先日、和歌山県連合会から、うちの対外友好協会副会長の張宝文あての手紙を拝見させていただきました。張宝文主任に代わって皆さんのご来訪を歓迎いたします。
 元々の対友協の場所は別のところにあったのです。半年くらい前に、こちらの方へ引っ越ししまして、ここに来てから二度目に和歌山県からの代表団を受けることになりました。  
 二カ月前に、和歌山県からの教育文化会の代表団が来られました。教育分野で交流しずいぶん意見を交わし懇談しましたけれども、また今回再び同じく和歌山県からの代表団をお受けして、本当に歓迎したいと思います。d0067266_15584662.jpg
 私も和歌山県へは一度行ったことがあります。非常に美しいところです。
 陝西省は、中国の真ん中のほうにあります。世界的に知られているところがありますけれども、人口は三千七百万人、面積は二十万平方キロくらいです。地形からみると南北に細長い省です。南の方は暖かい山岳地帯、中部は平野部で西安もここにあります。北は黄土高原という砂漠に近い地域で冬の寒いところです。
 西安は、開中平野にあり五つの市のひとつですが、この平野部は古くから農業が盛んなところで、現在では非常に農業以外でも科学技術とか教育もふくめていろんな面で発達しているところです。また陝西省は黄河のおかげで文化の発祥地として発展してきました。
 歴史上では、周・秦・漠・唐とか有名な時代の都は、西安でした。都としての歴史は千年を超え、中国では一番長いところです。
 陝西省と日本との交流は非常に歴史が長く、たとえば和歌山県とか大阪、京都、奈良とか、これら府県との交流は秦の始皇帝の時代にさかのばることができます。徐福の上陸、遣隋使、遣唐使。阿倍仲麻呂や小野妹子など、これらの人々・中日友好の先駆者は両国の交流のために力を尽くされましたけれども、最近になっても両国の交流・友好関係は健全に発展しているので非常に喜ばしい事情です。
 来年は中日国交正常化四十周年です。私たちも四十周年をきっかけにいろんなイベント、いろんな交流が盛んに行なわれることを心から期待していますし、もし和歌山県側の方で良い交流の提案がありましたら、ぜひ陝西省対外友好協会として協力してまいりたいと思っています。
 改めまして皆様の来訪を心から歓迎いたします。ありがとうございました。




雑賀団長のあいさつ(要旨)


陝西省人民対外友好協会・劉さんをはじめとしたみなさん、お会いできてうれしく思います。
今年は、1931年の柳条湖事件から80年に当たります。それは、15年間の日中両国の不幸な歴史のはじまりでした。昨日は、北京で盧溝橋と中国人民抗日戦争記念館を見学してまいりました。私たちは、過去の誤りに決して目を背けてはならないと考えています。同時に、その時代にも命がけで侵略戦争に反対した人たちもいました。日本共産党を中心にした人たちです。d0067266_1605451.jpg
日中友好協会は、日中国交回復以前から両国人民の友好に取り組んできました。海南市には「日中両国平和の塔」があります。1972年に海南市民の募金でたてられたもので、毎年、この塔の前では、「平和のつどい」が開かれます。(「平和の塔」の写真を手渡す)
日中友好運動には、戦後、一つの断絶がありました。それは、中国の文化大革命の時代でした。対等平等の友好運動をすすめようとしていた私たちは、中国の公式代表とはお会いすることもできないという事態がつづいたのです。しかし、中国人民のみなさんとは、いつか友好関係を回復できると信じてきました。
1998年に日中両国共産党が、関係を正常化したのをきっかけに、私たちの友好協会も、訪問・友好を深めることができるようになりました。
日中両国の間には、まだ領土問題など意見が一致しない問題もあります。そうした問題は、ねばり強い話し合いで解決すべきであって、両国人民の友好の妨げにしてはなりません。
最近日本では、大震災・原発事故、台風で大きな被害を受けました。前回の中国訪問では四川省大震災のお見舞いを申し上げたのですが、このたびは、日本の災害で中国の皆さんからも多くのご支援をいただいたことに感謝申し上げます。
今年は、辛亥革命から100年の年です。和歌山県が生んだ世界的な博物学者・南方熊楠は、ロンドンで、辛亥革命の指導者・孫文と交友を深めました。その後、熊楠と日本に亡命した孫文が、和歌浦で旧交を暖めたことがあります。その地に、日中友好のシンボルとして、記念物をつくる運動を私たちはすすめています。
(和歌浦の芦辺屋跡地で、孫文と熊楠の出会いの寸劇をしたり太極拳をしている写真を手渡す)
 また、忘れてならのは、唐代の長安で空海が密教の教えを受け、日本に帰って真言宗高野山を開いたことです。高野山はいま、世界遺産に登録されています。その観光パンフレットもお持ちしました。ぜひとも、和歌浦や高野山にもおいでいただきたいと思っています。


劉副会長より記念品

 団長の温かいご挨拶をありがとうございました。
 歴史を一変して、中国と日本は近隣だし仲良くしなければならないし、これからも両国政府ならびに両国人民の協力で関係がいっそう高まることを期待しています。歴史を忘れてはいけないのですけれども、前向きにしなければなりません。d0067266_15563964.jpg

 これは、陝西省の記念品としてお贈りする『銅馬車』というものです。今度皆さんは『兵馬桶』に行かれますが、その中の重要な場所の『銅馬車』 です。
 皆さんには、秦と明の時代に盛んに作られた『青磁器』のキーホルダをお贈りします。

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<雑賀団長より記念品

・海南市の漆器『蒔絵・赤富士』
  両国民の友好万歳」の文字入り
・高野山関係誌

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# by saikamituo | 2011-11-14 15:51

長恨歌への旅

長恨歌への旅
     続「酒飲みで反戦の中国の詩人たち」

 

(一)

今年(二〇一一年)の和歌山県連・日中友好の旅は、北京と西安(長安)を訪問した。
北京は、交通渋滞と破壊された文化財でみなさんの評価は散々だった。考えてみれば、東京に来て江戸時代の文化を求めても無理かもしれない。
他方、漢・随・唐時代の都だった西安(長安)は、古い文化財が見事にのこされていた。
玄宗皇帝と楊貴妃のロマンスの場、華清池を訪れた。ここには、玄宗皇帝・楊貴妃それぞれ専用の温泉あとがある。d0067266_16114245.jpg
旅に先立って、「長恨歌」を読んでみた。僕は、盛唐の詩人、杜甫・李白のものや、もっと前の晋代の陶淵明の詩が好きでよく読むが、中唐の白楽天(白居易)のものは、読んでいなかった。
「春寒くした浴を賜う 華清の池
温泉水滑らかにして 凝脂を洗う」
とある。
 「温泉水滑らかにして…」は、どっかで見た。そうだ、漱石の「草枕」で、温泉にはいるところで、「温泉と言うとこの一句が浮かぶ」というようなことを主人公の画工がつぶやく。その那古井の宿の温泉というのも「石が不自由せぬ国と見えて、御影石を敷き詰めている」となっているが、玄宗皇帝と楊貴妃の温泉も、石の四角い温泉である。ただ考えてみると、温泉跡地だから当時はそこに板を張って湯船にしたのかどうか、説明はない。
 草枕を読んだときは、「凝脂を洗う」の意味が分からなかった。御影石の浴槽から湯があふれているのかと思っていた。「凝脂」とは、楊貴妃の柔肌のことだったのか。長恨歌では、この温泉で倒れこんでしまった楊貴妃が侍女に助け起こされて、その夜、初めて皇帝のお情けをいただいたことになっている。
 「長恨歌」は「天にあっては、比翼の鳥、地にあっては、連理の枝」という有名な句が、最後のところに出てくる。僕が知っていたのはこれだけ。一番最後は「この恨みは綿々として尽くる期(とき)なからん」で結ばれる。「恨」というのは、「非恋の恨み」かと思っていたら、「恨=恋」、長い恋の歌ということらしい。
(「中国名詩選・下」岩波文庫)

      (二)

 「名詩選」で、その少しあとに「重題」という白楽天の詩がある。
  「遺愛寺の鐘は、枕をそばだてて聞き
   香炉峰の雪は、簾をかかげて看る」
 これは誰でも知っている。高校時代に習った「枕の草紙」の有名な話。
 中宮が「少納言よ、香炉峰の雪は、いかに」と問いかけると、清少納言は、立って、御簾を巻き上げた、つまり、白楽天の詩を知っていたということで教養を示し、周りにいたひとたちは感嘆したという、清少納言らしい自慢話である。ところが、不学な私は、その出典を今ごろ知ったような、はずかしい話である。
 その詩は「日高く眠り足りるも猶お起くるにものうし」で始まる。この句だけは、僕でも知っていた。「春眠暁を覚えず」によく似ている。前に「酒飲みで反戦の中国の詩人たち」という文にも一海知義先生の受け売りで書いたが、当時の中国で朝寝坊できるのは、出世街道からはなれた窓際族なのだ。
 「司馬はなお老を送るの官たり…故郷 何ぞ長安にのみあらんや」と結ばれる。「司馬」というのは、閑職であったそうな。左遷され首都・長安に離れての朝寝坊の歌なのである。

      (三)

「長恨歌」と「重題」の間にある「新豊の腕を折りし翁」に衝撃をうけた。
  腕を折った八十八歳の翁にわけをたずねた。
 「生まれて聖代に逢って征戦なし」(良い政治で戦争がなかった)
 ところが程なく、政治が変わって、雲南にまで兵を送るようになり、三戸に一戸は徴兵されるようになった。「千万人行きて一の回るもの無し」
 そこで翁は、二十四歳のとき、大石で腕を折って、徴兵を逃れたのである。
 「老人の言、君、聴取せよ……又聞かずや、天宝の宰相 楊国忠」
 「楊国忠」というのは、無頼の徒であったが楊貴妃の従兄であっただけで宰相になったという。     (「中国名詩選・下」岩波文庫P107)
 まあ、時代がかわったからここまでいいきれたのだろうが、悪政をここまで告発するとは!白楽天が、左遷されて、長安からはなれて、朝寝坊をしたことは、こうしたことと関係があるのだろうか?
(2012年10月修正)

     (四)

ところで、「酒飲みで反戦の中国の詩人たち」という文を書いたと述べた。その中で「宮廷詩人であった唐代の詩人たちが、どうして反戦の詩を書けたのか」という意味のことを書いた。「宮廷詩人だった」というのは、杜甫の「飲中八仙歌」中で、李白などが酒を飲んで宮廷に召されても酔っ払っていたということだけで、そう思い込んでいたのであった。まことに恥ずかしい。
杜甫・李白・白楽天など、科挙試験に合格した秀才であったかも知れないが、一時は宮廷に仕えても、それに収まりきらない。失脚もし、放浪もする。酒を飲み、反戦の詩が生まれたのであろう。(どちらが先かは知らない)
もう一つ恥ずかしい間違いを告白しておくと、李白の「長干行」
「門前の遅行の跡、
 一一 緑苔を生ず。
 苔深くして掃うこと能わず、」
について
「夫は若妻をのこして兵役に行くのがつらくて、門前で行ったりきたりする。」と書いたが、この夫は、遠方へいったが兵役というわけではなさそうだ。  
一知半解で、書き散らしたのを恥ずかしく思っていたが、楊貴妃のおかげで、ここにお詫びすることができた。

     (五)

ところで、今回の「友好の旅」でもお酒を飲んだ。まずビールを頼むが、そのあとはたいてい紹興酒。50度のリキュールがサービスでついていることもある。
しかし、「李白一斗詩百編」「斗酒比隣を集む」の酒。陶淵明が、家族は別のものをつくってくれというが、粟をつくって酒にし、「いざ帰りなん」と故郷の我が家に帰って、壷に満ちた酒を頭巾で絞って飲んだという酒は、度数が低い醸造酒であった。私は、老酒の色から、茶色い酒だと想像していた。ところが白楽天の「間劉十九」という詩は「緑蟻 新賠の酒」で始まる。緑色で蟻のように泡だっている。
日中友好協会で、「唐代の酒と詩を味わう旅」を企画したら大当たりすると思う。そのためには、海南で藤白墨を復活したり、各地で古代の赤米を栽培しているように、緑色の唐代の酒を復活しなくてはなるまい。

  二〇一一年十一月 

雑賀 光夫
(日中友好協会和歌山県連合会副会長)

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# by saikamituo | 2011-11-13 20:45

小林多喜二と「早春の賦」によせて

小林多喜二と「早春の賦」によせて


 学習協の松野理事長は、学習新聞の原稿が足りないと携帯に電話してくる。「雑賀さん、すこし刺激的なことを書いてください」と挑発する。久しぶりで挑発にのってみようか。

            (一)
 小林多喜二・「早春の賦」をみた。「ずいぶんむずかしい芝居だね」という感想もあった。そのむずかしい場面の一つが、芝居の後半にあった「同伴者作家」をめぐって、仲間と論争し、意見が分かれて仲間は用意したすき焼きも食べずに帰ってしまう場面だった。
 頭を整理するために、年表をつくって見よう。
  1928年 2月 第一回普通選挙
3月 3.15共産党大弾圧
3月26日 全日本無産者芸術連盟(ナップ)結成
 (日本プロレタリア芸術連盟と前衛芸術家同盟が合同)
  5月 「プロレタリアレアリズムへの道」(蔵原惟人)
    (「前衛の『目を持って』世界を見ること」という言葉が、その結びにだてくる)
  1932年 32年テーゼ
  1933年 小林多喜二逮捕・虐殺
 短い期間に、なんと劇的な事件がつまっていることか。年表をつくってみて改めて思った。
 劇中で多喜二が「えらい評論家の先生に会う」といっているのは、蔵原のことである。蔵原は小説はかかないが、文学運動の理論的指導者として、地下から運動を指導する。多喜二の小説の中で「ひげがつかまった。拷問に屈せずがんばっている」と出てくるのは、この蔵原のことである。その指導的論文が、ここにあげた論文や「芸術方法についての感想」(1931年)などである。〔「芸術方法としてのレアリズム」(新日本文庫)所収

(二)
 ところで、劇中で多喜二が仲間と論争して物別れになる「同伴者作家」というのは、プロレタリア文学と共産党に近いが、その周辺に居る文学者のこと。宮本顕治に「同伴者作家」(1931年3月)という論文がある。広津和郎(注1)を例にとって、同伴者作家への評価をのべたもの。(「宮本顕治文芸評論選集・第一巻」1980年初版)
 ところでこの第一巻の「あとがき」で宮本顕治は次のように述べている。
「私がどの組織にもはいっていなかったころの『敗北の文学』『過渡時代の道標』(一九二九年)などは半世紀後の今日にも批評文学として読み得るものをもっている。また、一九三一年前半期ぐらいまでの…… 今日的にも一応読まれる意味はあろう。しかし、一九三一年後半、「唯物弁証法的創作方法」論以後の作品論などは、機械論が目立って、自分で読んでも苦痛である。それはただ、組織の方針に心ならずも拘束されたというようなことでなく、私自身もそれが正しいと考え、それに忠実であろうとしての努力の結果だった。」
 劇中の小林多喜二の同伴者作家論は、宮本顕治が「自分で読んでも苦痛である」とした時代の制約をうけていたのではないのだろうか。
 (注1)広津和郎 「風雨強かるべし」などの作品がある。戦後、松川事件の無罪を主張して活躍。「松川事件」をかいた。

(三)
 観劇の合間に、配られたリーフレットを読んだ。この脚本は1970年代にかかれて何度も公演されたものだという。
 歴史を生きた小林多喜二が歴史の制約をうけたのは当然として、現代の水準からそれを描くときどう描いたらいいのだろうか。原作者と演出家は、限界を限界として意識してえがいたのか。そうでないのか。
 まあ、そんな議論は、脇においておこう。こんな議論をしていたら「むずかしい文章だね」といわれそうだ。そこで私の思いは、宮本顕治の「第一巻あとがき」への思い出に飛ぶ。
この「文芸評論選集」の刊行がはじまったのは、私の学生時代の1966年である。「第二巻」から出た。私は、初版を買ったはずなのに手元にあるのは1981年出でた「第15刷」だ。そうだ、誰かに貸して返してもらえなかったので買いなおしたのだ。ちなみにあとの巻は、すべて初版である。「第三巻」1968年、「第四巻」1969年。待ちかねて買ったのだ。そして、11年の空白のあと、戦前のプロレタリア文学運動を全面総括した「あとがき」がついた「第一巻」が出された。佐藤静夫、津田孝といった文芸評論の第一線のひとたちが、「文化評論」「民主文学」などの雑誌で、この「あとがき」を絶賛した。
 私は、この「あとがき」の意義を認めながら、複雑な気持ちになったのを思い出す。文芸評論の一線でいる佐藤・津田という人たちは、政治活動で忙しい合間に、宮本顕治が、戦前のプロレタリア文学運動の全面総括をやってのけたことをうけて、自分のふがいなさを感じないのだろうか。宮本顕治も、当時まだ現役だった蔵原惟人やこれらの文芸評論家にアドバイスして、この人たちの手で総括をかかせてやろうという気にならなかったのだろうか。これが、当時の「複雑な気持ち」の中身だった。
            
            (四)
 すこしひねくれた思いを書いたから、こんどはもっと素直な、もうひとつの思い出を語ろう。蔵原の「前衛の目」にかかわってのことである。
 宮本百合子の「評論選集」①に私の好きな評論が二つある。「両輪」「心に疼く欲求がある」。今は、この「評論選集」よりも「全集」をお持ちの方の方が多いから、読みたい方はさがしてほしい。
 その「心に疼く欲求がある」の中に、次のようにある。
 「『前衛の目を持ってえがけ』といわれたことは、社会主義リアリズムへ展開して、もとよりその核心に立つ労働者階級の文学の主導性を意味しているのではあるが、前衛の目の多角性と高度な視力は、英雄的ならざる現実、矛盾、葛藤のそこまで浸透して、そこに歴史が進み、人間性がより花開くためのモメントとして、目にも立たないさまざまないきさつまでを発見することを予想している。」
 私は、この言葉が好きで、「機関紙の取材の極意は『発見』である」といって、この文章を紹介したことがある。
 「たたかう労働者の姿を描いていないプチブル文学だ」と戦後、一部の人たちから宮本百合子は批判された。百合子を擁護してたたかった宮本顕治の論文が、評論選集第3巻「宮本百合子の世界」だが、第二巻もセクト的傾向とのたたかいにあてられている。その圧巻は「統一戦線とインテリゲンチャ」という論文だとおもっている。同時に、この巻には、小林多喜二の思い出がいくつか載せられている。
 トルストイの「戦争と平和」を賞賛する小林多喜二。(注2)私は民主青年同盟の時代に、「レーニンの青年同盟の任務」の「共産主義は人類の価値あるものを引き継がなくてはならない」というくだりを解説するのに、このエピソードを紹介したものだった。ここには、狭く受け止めた「前衛の目」論(唯物弁証法の創作方法)はない。1933年の芝居にでてきた当時の多喜二の「同伴者作家論」も、宮本顕治が「自分で読んでも苦痛である。」と述べたものとは違っていたかもしれない。理論が正確でない場合でも、実践の場にいるものは理論を現実に近く解釈して現実に立ち向かうことがあるものだから。これ以上の研究は、文学の研究家・樋尻さん(原水協事務局長)にお任せする。
 「早春の賦」は、私の青春の文学論への旅を思い起こさせてくれた。

(五)
 作家同盟の歴史は、多くのドラマを含んでいる。特に多喜二と百合子と顕治はその圧巻である。
「文学新聞」の販売活動に参加する中条百合子。百合子の後姿を、「軽い足取りで」と表現した宮本顕治。好きな女性は、体型はどうであろうと、軽やかに見えるものだ。一方、顕治とあえる日に、鏡を見て「自分がこんなに喜んでいる」とつぶやく百合子。(どこに出てきたのか思い出さないが私の青春時代に強烈な印象をうけた場面である)
 「十二年の手紙」そして、それを乗り越えて二人が一緒になれたときのことを書いた「風知草」、夫婦の不一致があって、それが解消したあとの「ひろ子は、うれしさでとんぼ返りをしたいようだった」という一文は、百合子の作品で一番好きな一行である。

(注2)「小林多喜二の回想」(宮本顕治評論選集②)より抜粋
「小林はその頃、トルストイの『戦争と平和』を読んでいた。「実にすばらしい、うまいものだ。」彼はたびたびそういって感嘆した。私もむかし読んだ記憶を思い起こし彼と語り合った。プロレタリア文学は、「種蒔く人」の時代から、雑誌「プロレタリア文学」までのあいだにかなりの成長はしたが、まだ豊饒な開花をよく誇ることはできなかった。それは階級的地盤と社会的方向において、トルスイトの時代より新しい史的段階の所産であり、日本文学の新しい潮流として、世界の革命文学の一環としての存在を確認された。しかし代表的な作家の小林でさえ、まだ三十歳であったくらいの、全体としての運動の若さは作品にも反映した。ブルジョア文学の無力と退廃に比べて、それは純真で健気ではあったが、芸術作品の規模としては多くがまだまだというところであった。小林も『戦争と平和』を読み進むあいだに、そうした状態をふり返って、率直にというよりむしろ、やや強い揶揄をこめて作品の若さを慨嘆してプロレタリア文学の『戦争と平和』が善かれなくてはならないといっていた。世界文学の高い峰からみて「綴り方」程度であっては駄目だ。私たちはそう言って、日本のプロレタリア文学のなかからも、世界文学の頂につらなるものを生まなくてはと語り合った。しかしそうした作品が、進展する階級闘争を逃避する安易な自足的な生活から生まれるものではないことは、彼の信念でもあった。それはトルストイ自体が、あの必死の家出を敢行したよぅな強烈な魂ではなかったか。新しい時代の『戦争と平和』は、困難な時代に直面して、良心的に発展的にそれを乗り越えて力闘する生活の地盤から生まれるものでなくてはならなかった。
彼は『党生活者』の前編をまとめた。これは、発表することを予想して書かれたために不自由な言葉で語られている。しかしここに、日本文学は、地下に追い込められた困難な条件に屈せず、工場に根をはろうとするプロレタリア前衛についてのかなりの本格的な構図をもつことができた。彼は『戦争と平和』をうなりながら学んだように、バルザックやゴーリキーからもっと学びながら書きつづけることのできる、達しい前進力のある作家だった。
一九三三年二月二十日、彼は赤坂付近で共青の仕事をやっていた、当時やはり地下に追い込まれていたプロレタリア作家同盟の若い詩人、今村恒夫と連絡する途上で、多数の特高部員に襲われた。当時共青中央部と党へ潜入していた警視庁のスパイ三船留吉が手引きしたのであった。三船が用事をつくって小林と今村をそこへおびき出したのである。小林は、全力をつくして追跡からのがれようとしたが、ついにくみつかれ築地警察署へ連れて行かれ、その日のうちに拷問によって虐殺された。」


参考文献
「たたかいの作家同盟記」(江口渙)新日本出版社
「芸術方法としてのレアリズム」(蔵原惟人)新日本文庫
    「宮本顕治文芸評論選集・①②③」新日本出版社
    「宮本百合子評論選集①」新日本出版社
    「風知草」宮本百合子

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# by saikamituo | 2011-08-27 23:05

終戦記念日宣伝・2011年8月15日


終戦記念日宣伝   2011年8月15日


日本共産党県議会議員の雑賀光夫です。東日本大震災・大津波から、5ヶ月になります。被災地での苦難がつづいています。
さらに原発事故、放射能汚染は、どこまで広がるのか、不安がひろがっています。一日も早く収束するために全力を挙げる。放射能汚染などのデーターは、全面公開することです。
今日は、終戦記念日です。無謀な侵略戦争をして、アジアの人々に大きな犠牲をあたえた。日本国民も戦争に駆り出され、海南市でも爆撃がありました。そしてヒロシマ・ナガサキの悲劇があったわけです。
戦後日本は、二つのメッセージを世界に発してきました。
一つは、侵略戦争の反省に立って、日本は二度と戦争をしない。「憲法9条」の決意であります。
もう一つは、ヒロシマ・ナガサキをくりかえすな。ノーモアヒロシマズというメッセージでございます。
ヒロシマ・ナガサキ、そして第五福竜丸と原爆・死の灰の被害をうけてきた日本で、世界最悪の原発事故がおこったということを、私たちはどう考えたらいいのでしょうか。
まず、歴代自民党政府は、「日本の原子力発電は絶対に安全だ」という「安全神話」をふりまいてまいりました。そして、和歌山県にも原子力発電所をつくろうとしてきました。古座原発、日置川原発、日高原発。
しかし、漁師のみなさんは、どんなにお金を積まれても故郷を売るまい、海を売るまいと原発を拒否してきました。日本共産党は、原発は技術的に未完成であること、廃棄物処理技術が確立されていない、トイレなきマンションであると批判してきました。
それでも、このたびのフクシマ原発事故がおきてみると、私自身は自分の認識が甘かったと思わないではいられません。
原子力発電所は、事故が起こったら取り返しがつかない。大量の放射能がでてきています。フクシマではいまも放射能がもれだし、汚染がひろがっています。汚染牛肉が全国にひろがっています。
この放射能廃棄物というもの、商業用原発ひとつから、1日に、ヒロシマ型原発、3発分の放射能廃棄物が生み出されるのだそうです。1年間では、1000発分になる。
ヒロシマ・ナガサキでは多くの方がなくなり、直後には、強い放射能をあびましたが、今は立派に復興しています。しかし、原発事故ではそうはなりません。1年間に1000発分の放射性廃棄物がうみだされている。
私は、そのことを知ったのは、フクシマ原発事故がおこったあとのことでした。そして、大量の放射性廃棄物の処理に莫大な費用がかかる。原子力発電の費用は安くないということを、一般新聞でも報道するようになりました。
「原子力発電は安全だ」という神話も「安上がりだ」という神話も完全にくずれたのです。
日本共産党は、「期限を切って原子力発電から撤退」ということを呼びかけています。
原子力発電の開発につかわれていた予算、電源立地交付金というものを、自然エネルギーの開発につかえば、太陽光発電、小水力発電、バイオマスといった自然エネルギーの開発にまわせば、地域にねむっているエネルギーを引き出すことができます。
私は、昨日、和歌山大学システム工学部にうかがって、自然エネルギー開発のお話を聞いてまいりました。谷川に水車をおいて、電力発電をすれば、遠方の発電所から長い距離の電線でロスを生みながら電気を引いてくるよりも効率がいい。しかも、地域の電気屋さんや土建やさんに仕事が回るというお話です。
もちろん、大きな火力発電所や水力発電所も必要ですが、地域では、エネルギーの「地産地消」で、地域を活性化するというお話です。
これまで、東京・大阪と言った大都市中心、そこで大企業が経済活動をするのに都合がいいような経済のしくみ、大企業の利潤追求優先の社会でした。
それが、原子力発電の暴走となって、今度の事故でそれが破綻したのではないでしょうか。
このたびの事故では、日本の食糧が大変心配です。いまでも低い食料自給率。牛肉や野菜の放射能が問題になっていますが、お米も心配です。
放射能汚染の心配ない紀美野町のようなところで、農業の振興を図らなくてはならない。そのためには、農業で食べていけるようにしなくてはなりません。
そんなとき、日本の農業をつぶしてしまうTPP協定。アメリカやオーストラリアなど太平洋を囲む国々で、農産物を含む関税撤廃などとんでもないことです。
それは「大企業に利益追求第一」「アメリカいいなり」の政治から抜け出すことをもとめているのではないでしょうか。

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# by saikamituo | 2011-08-17 14:17

海南市PTA総会でのあいさつ 5月13日

みなさんこんばんは。県会議員の雑賀光夫でございます。尾崎議員・藤山議員も出席しておられますが、順番ですので、私から、ご挨拶を申し上げます。

 本日は、PTA総会ご盛会、おめでとうごあいます。
私はよく、「子どもの姿をまぶたにうかべて話し合えば、父母と教職員は必ず一致できる」と申し上げてきました。しかし、現実には、むずかしいこともある。モンスターピアレンツなどという言葉もある。そうすると、私にはどう考えていいのか分からなくなってしまいます。
そこで、教育の問題は、複雑ですから、分からないことがあって当たり前と開き直ることにしています。

 考えてみますと、「私は自分の子どものことはよくわかっています」という自信を持って、学校にご意見を言ってこられるお父さんがいます。しかも、「自分の子どもが悪い点も、先生の立場もよく理解しています」とまでおっしゃる。
 それに対する先生は、「私は子どものために、こんなに、教育の取り組みをしています」と一生懸命、お話になる。ところがかみ合わない。こんな場面があるのではないでしょうか。

 子どもと教育のことが、親でも先生でも完璧にわかることなんてないと思います。私は、県議会の本会議で、未熟な若い教員であったころの失敗の話をしたことがあります。そして、県の教育長に、「あなたも若いころいろいろ失敗もしただろう。それを語ってください」という質問をしました。この質問に答えてもらえる教育長と思ったからの質問でした。ベテランになっても失敗がある。それほど、教育はむずかしい。

 教育長さんも…今日はおられませんが…、校長先生も、若いころの失敗の経験を、若い先生に語ったらいいのではないかと思います。そして、お父さん、お母さんも、「子どものころ、こんな失敗をしたんだよ」という話を子どもさんにしてあげたらいいのではないでしょうか

「かしこい親ほど子どもをダメにする」という本を読んだことがあります。大人が「かしこい」ふりをすると、子どもは息が詰まります。
先生も親も自分が不完全なものだと意識して、教育には分からないことがいっぱいあることを踏まえて、発達途上にあって、それこそ不完全な子どもの姿をまぶたに浮かべて話し合うなら、かならず一致点はえられるのかなあと思うようになりました。
 子どもたちは、ストレス、イライラをためこんでいると思います。ゆとりをもって、子どもの声に耳を傾けてあげてください。

 そして、県会議員は、教育条件整備のために、力を合わせていきたいと思っています。

 最後に、ひとことだけ。最近流行の「トイレの神様」という歌が、私は大好きです。涙がでてきます。どうしたら、あのおばあちゃんのような躾をできるようになるのだろうと考えますが、答えは見つかりません。一緒に考えていただけたらと思います。
 とりとめもないことを申し上げましたが、PTAの発展をお祈りします。
ありがとうございました。


この日、教育委員会からは次のプリントを配って、教育について大事なことを説明されていました。font>
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# by saikamituo | 2011-05-13 22:00

紹介「現代の哲学と政治」

紹介「現代の哲学と政治」
(岩波新書・ジョンサマヴィル著・芝田進午編訳)
志位委員長のアメリカ訪問にかかわって
(一)
 参議院選挙を前にして、街頭宣伝にでます。
…いま、最大の政治問題は、沖縄基地の問題です。
鳩山首相は「国外に移す、最低でも県外に、」とさかんに言っていましたが、いま鳩山首相が言っているのは、当面は今の基地をそのままにして、名護市の沖に杭を打ち込んで、新しい基地をつくり、一部を鹿児島県の徳之島に移す計画です。今、沖縄県では、自民党から共産党まで、すべての政党が、民主党の公約違反に怒り、先月25日には、9万人の県民大集会が開かれ(中略)
鳩山首相のあやまりはどこにあったのか。オバマ大統領と会って、「トラストミー」(を信じて下さい)などといって、アメリカも気に入るようなことを考える。沖縄県民の声を受けて、全面返還の交渉をしようとしないことです。d0067266_9532496.jpg
このたび、志位委員長など共産党代表団がアメリカを訪問し、「日米友好のためにも、普天間基地は全面返還しかないことをアメリカ政府に伝えました。そればかりではなく、アメリカ建国の精神とリンカーン大統領とマルクスの交流に触れて、アメリカ民主主義に訴えかけたのでした。…
このたびの志位委員長のアメリカ訪問、そこでアメリカ国民に訴えた中身は、大変深い思想的意味をもつものだと思います。
            (二)
私は、いま、若い人たちに読んでもらいたい一冊の新書本を本棚からとりだしました。標題にかかげた本です。1968年に出されたもので、私の蔵書には、「1971年3月30日―31日」と書き込んでいます。学校現場でいて組合青年部や民主青年同盟の活動をしていた時代です。65歳になったいまなら、新書本でも読みとおすのに一週間ぐらいかかりますが、「40年前には、二日で読んだんなあ」という感慨もわきます。読書は、若いころにこそすべきものです。インクで書き込みがあります。「マルクス主義とジェファソン主義は、共通の基礎に立ちうる!」
ジェファソンというのは、アメリカの第三代目の大統領ですが、アメリカ独立宣言起草に中心的役割を果たしたのです。独立戦争で大きな役割を果たした軍人のジョージ・ワシントンが第一代大統領になるのですが、アメリカ独立宣言の思想をジェファソン主義というのだそうです。この本ではじめて知って、本に書きこんだのでしょう。

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# by saikamituo | 2010-12-14 21:20

魯迅と宮沢賢治

魯迅と宮沢賢治
 サラリーマン・宮沢賢治がテレビで紹介された。これまでにない新しい視角で、それなりに面白かった。童話を何度も書き直したということも紹介されていた。そこで久しぶりに宮沢賢治詩集をとりだした。
 宮沢賢治の詩というのは、わかりにくいのである。「雨ニモマケズ」というのは、分かりやすいから、宮沢賢治という人はそんな詩を書いた人だと思ってはいけない。岩波文庫の「宮沢賢治詩集」は、谷川徹三編集のものだが、そのかなりの部分を占める「春と修羅」などという詩は、僕には全く理解できない。「雨ニモマケズ」というのは、生前に発表されたものでなく、サラリーマン賢治の鞄の中の手帳に書きつけられていたもの。それが一番有名な詩になったわけである。
 一時、「もし私が先生になったら」というのがはやったことがある。 『もし私が先生になったら』 もし 私が先生になったら 自分が 真実から目をそむけていて どうして子供たちにあしたのことを語れるか・・・。 もし私が先生になったら 自分が 未来に目をそむけていて どうして子供たちにあしたのことを語れるか・・・。 (以下・略)
   作:作者不明(宮沢賢治とされているが違う)

 宮沢賢治だったら、こんな風に語っただろうということが、誰かが詩の形式で語ったもので、大変よくできている。一時、「宮沢賢治・作」ということで流れていたが、「賢治にそんな作品はない」ということになった。その論議の時、「本当の宮沢賢治なら、こんな平明な表現はしない」という専門家の意見があったが、僕もそうだろうと思う。ただ、この偽作は、それ独自の価値を持って、先生の在り方を語っている。宮沢賢治も「勝手に名前を使ってけしからん」とは、言わないのではないだろうか。
そんなころ、谷川徹三編集の賢治詩集を手にした。教育にかかわるもので「生徒諸君によせる」という詩がある。生徒諸君の中には多くの天才がいるとして、未来のダーウィンよ、コペルニクスよ、マルクスよと呼びかける壮大なスケールの詩である。「雨ニモマケズ」の素朴・平明さは、例外的である。

d0067266_1054859.jpg 宮沢賢治の晦渋な詩と平明な童話や「雨ニモマケズ」について考えているとき、もう一人の文筆家の名前が頭をかすめた。魯迅である。最近、「魯迅評論集」(岩波文庫・竹内好)をベッドに持ち込で読んでみた。この魯迅が、分かりにくいのである。「私は人をだましたい」などという文がある。魯迅の「故郷」というのが好きだった。「故郷に帰ってきて、幼馴染に昔のように声をかける。ところが幼馴染は、『旦那さま』といって、その息子にまで頭を下げさせる。そこに作者は矛盾を感じる」という、平明な内容で、「はぐるま教材」にはいっていた。
 平明さと晦渋さをあわせもつ賢治と魯迅。そこに彼らが生きた時代の反映があるのではないかと思うのである。

 ベッドでの読書の最たる友は、夏目漱石、とくに「吾輩は猫である」である。
先日、中学校のころから読んだ文庫本がぼろぼろになったので、岩波文庫の一冊を買って、今も枕元においている。d0067266_1062826.jpg
 魯迅と漱石というと「私の読書法」(岩波新書1960年)を思い出す「「図書」に掲載されたものをまとめたものだ。高校生の時、海南高校図書室で手にした。その中で大内兵衛さんは「このごろの読書」として、「寝床で漱石と魯迅を読んでいる。魯迅はえらすぎる。」という趣旨のことを書いておられたのを記憶していた。
 改めてひもといてみると、「夜中に目が覚める。2・3時間読書することもあるが、たいていは10分間で寝てしまう」とある。「10分間で寝てしまう」だけは一緒だとうれしくなる。50年前の大内先生にちかづいたようでうれしくなる。
 
 作品に大きな違いをもつのに違和感を持ったもう一人の作家が太宰治である。「人間失格」と「走れメロス」はどうして同じ作家の作品となれたのだろうか。
ここに、その時代を生きた作者の屈折があるのではないかと思うのである・

2010年5月23日

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# by saikamituo | 2010-12-14 21:18

ガンビのはなし・没にした原稿

ガンビのはなし
  ・没にした原稿

 
 「議会と自治体」編集部から「和歌山の教育についてのとりくみをまとめてください」といわれて原稿を書き始めました。最初の草稿の書き出しが、以下の分です。
しかし、これは教育・労働運動家としての私の個人的問題意識がですぎると思って、没にしました。しかし、捨てがたく、ここに掲載します。

1 子どもをまるごとつかむ

 和歌山県の民主教育をささえてきた合言葉に「子どもをまるごとつかむ」という言葉があります。子どもの学力・体力・情操・徳性の発達だけでなく、子どもをとりまく家庭や生活をふくめてとらえなくてはならないという意味でしょう。
 和歌山県では戦後の生活困難をかかえる子どもたちと向き合って教育実践をすすめてきた中に、こんなエピソードがあります。
 和歌山県南部の西牟婁地方での話です。子どもたちは家計をたすけるために、山に雁皮をとりにいきます。子どもたちにとって重労働です。雁皮というのは、コウゾ・ミツマタとともに和紙の原料になる植物です。「雁皮は、お札になるそうや。けど、雁皮ひきにいく兄ちゃんも僕もお金がない」と生活綴り方に書きます。「働くものがどうして貧しいのか」と告発した綴り方です。
 この教育実践が、教育研究集会で報告されました。「こういう実態をどう考えてどう取り組んだらいいのでしょうか」という報告者の質問に、助言者席にいた勝田守一教授(戦後民主教育の大御所というべき東京大学教授)が「私にも分かりません」とお答えになったという話です。
 私が、和歌山の同和教育などの民主教育の歴史を考えるとき、いつも思い出すこのエピソードは、民主的な同和教育の発展に大きな役割を果たされた西滋勝和歌山大学教授(故人)からお聞きしたものだと思っています。
 若かった西先生は、勝田先生という大御所が、「私にも分かりません」とお答えになった率直さに感動されて、私たちに語られたのでしょう。そして、どうしていいか分からなくても、子どもの生活の事実をつかむことが、その後の民主的な教育実践の出発点になったんだということを私たちに教えるためにこのエピソードを語られたのだろうと思います。
 労働組合運動の理論の発展に貢献された堀江正規先生は、ことあるごとの、エンゲルス「イギリスにおける労働者階級の状態」の冒頭にいわれている「労働者階級の状態は、すべての社会運動の出発点である」という言葉を引用されました。
 子どもの状態・労働者階級の状態をリアルにつかむことが、昔も今も、教育でも労働運動でも出発点だと思うのです。



あとがき
 このエピソードが、西先生がどこで語ったのか。著作を探したがわからない。
 ここまで覚えているのだから、誰かに聞いたものに違いない。
 池田孝雄先生にお聞きしたら、「その話、よく知らないが、浜本收(元県会議員・白浜町長)の実践ではないか」と言われた。いまでは、確かめようもない。
2012年2月12日

追記
民研の教育運動史研究班に入れてもらっている。
 和歌山の教育遺産を掘り起こして「解題」を書く仕事をしている。
 そこで「ガンビの話」をして「出典がわからないか」と言ったら、今日、楠本一郎さんからメールがとどいていた。
 西滋勝先生体感記念「教育学研究収録」1989年 所収
 「責善教育の歴史と教訓」初出1985年 県・高教組責善集会講演
であることが分かった     1917年1月24日 

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# by saikamituo | 2010-07-29 02:01

朝青龍問題に思う

朝青龍問題に思う
(一)
 僕はスポーツの問題は何も分からない。だから僕が考えることは見当違いかもしれない。しかし、朝青龍の問題でマスコミで言われていることには違和感を感じて、仕方がない。ただ、朝青龍の最後の暴力問題は、文句なしに許されない行動である。しかし、それまでのさまざまな問題、「モンゴルでのサッカー」「毎日稽古しない」「ガッツポーズ」などの問題は、文化の違いではないかと思う。批判する側が狭い日本の「相撲文化」にとらわれていて、グローバルの時代についていけない「漫画」のような気がしてならない。
 やくみつるさんも、自分を漫画の対象と考えてもいいのではないか。
                (二)
 今日のテレビで冬季オリンピックについての報道をしている。スキーの「ノルディック複合」というのだろうか、ジャンプとクロスカントリーを組み合わせた競技で、日本選手はゴール直前で勝利が確実になって「日の丸」をもってゴールした。しかし、スポーツ競技は、「より高く・より早く」をめざす以上、競技に勝てるからといって国威高揚などせずに、競技に集中すべきだという意見があってもいいのではないか。そんな批判は聞いたことがない。
 野球では普通のことであるガッツポーズが、相撲ではタブーなのだろうか。柔道のヘーシングが勝った時に、沸き立つ自分の応援団を抑えたということもいわれるが、そんなことまで探し出して、ガッツポーズを批判することに、違和感、日本的狭さを感じるのはおかしいのだろうか。
                (三)
 「仮病で巡業を休んで、モンゴールでサッカーをしていた」と批判される。僕は、朝青龍のサッカー映像に感嘆した。「なんとすばらしい運動能力だろう」と。そこには、奇形化せずに全面発達したスポーツマンの姿があった。
 「相撲取り」というものは、ちゃんこ鍋を食べて体重をつける。それは、医学的にはどうなのだろうか。太りすぎた体は、命をちぢめるのではないだろうか。相撲取りの平均寿命の統計があれば知りたいと思う。僕の周りでも、かつてのスポーツマンが、腰を痛め、肩を痛め、50歳、60歳になって体を壊している例は枚挙にいとまがない。
 相撲取りであっても、自分の体が休養を必要と感じたら、巡業を休んで休養する、休養の間には、体に無理のないゴルフでもサッカーでもして、リフレッシュするという権利は、相撲文化より上位の、人間としての基本的人権ではないのか。そんなことを認めない「相撲文化」のほうが奇形ではないのか。ちゃんこ鍋を無理に食べて体重を増やして相撲に強くなるが命を短くするとすれば、それはスポーツとして奇形である。
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# by saikamituo | 2010-02-11 21:30