県学習協の草分けの「二人の上野さん」のお一人、上野幸男さんがお亡くなりになった。
もう一人の上野寿男さんは、ずっと学習協によりそって松野理事長をささえてこられたのに対して、上野幸男さんは共産党の専従もされてお忙しかったから、いまの学習協の若い皆さんの中には、面識のない方も多かろう。
上野幸男さんは、共産党を退職されるころから海南市の旧貴志川町との境に近い高津という地域に住み、桃作りの農家の皆さんに溶け込んで暮らしておられた。そして、地域での共産党支部の活動、治安維持法同盟の活動などに献身された。寒い中、単車で集金にこられて恐縮したことを思い出す。
私の家は琴の浦の山際にあるが、夏には庭の草取りがたいへんだ。妻の母親が同居してくれていたころは、草引きをしてくれたのだが、その後はお手上げになった。
妻が言った。「シルバーの方にお願いするんだったら上野さんが行ってあげてもいいといってくれるんだけど」。
私は即座に、「やめてくれ」といった。「ぼくにとって、上野さんはどんな人かわかってるのか。和教組委員長だった北又安二先生と同格の人なんだ。夏休みに上野さんが草引きにきてくれて、僕がパンツ裸で昼間からビールを飲んでいられないじゃないか」そのころは、盆休みには、高校野球のテレビを見ながら、昼間からビールを飲んでいた。今は議員だから暑い中でも歩き回るのでそんなわけにはいかない。
上野さんは、1960年代、全電通(今のNTT)の組合の委員長だった。1964年の春闘で、総評は4、17ストライキという大きなストライキを企画した。そのストライキを共産党は「挑発ストライキ」だという規定をして反対する声明を出した。「4・8声明」というものである。数ヵ月後に、共産党はこの声明とその後のストライキに反対したことが綱領路線から逸脱した誤りであったと自己批判する。「日本共産党8大会9中総への幹部会報告」というものである。この「9中総」とその自己批判を予告した宮本顕治書記長(当時)の党創立記念日の名講演「わが党の革命的伝統と現在の進路」は、迷いながら民青同盟から共産党の接近しつつあった僕の青春で忘れられないものである。
(注)この名講演がのっている「現在の課題と日本共産党」(上)をとりだしたが、「自己批判の予告」が見当たらない。「時の話題」だから収録のとき削ったのかもしれない。
上野さんは、一時的に綱領路線からはずれた誤った党の方針と大衆団体の方針の間で苦しみながら、最終的には党の決定に従い、全電通の組合から排除された方なのである。共産党の誤りに従ったために組合委員長の座を追われたにもかかわらず、上野さんはその誤りを短期間に克服した共産党とともに歩まれた。「共産党のあやまりでえらい目に会った」などと愚痴をいうことは一度もなかったのではないだろうか。
追悼文をかくにあたって「草刈」のことを妻に話してみたら、「その話、上野さんに話したら、そんなに言ってくれたかとニコニコ笑ってくれたよ」といっていた。「いつもニコニコしておられたことを書いたらどう」ともいう。
いまになれば、草刈においでいただいて、僕も草刈を手伝って、早く終わって一緒にビールを飲みながら「4、17スト」のお話をもっとお聞きしたらよかったかもしれないとも思う。
上野さんは大きな労働組合の委員長をされた方だ。共産党の専従もされた。僕も、労働組合の委員長までさせていただき、今は議員をさせていただいている。こんな仕事をしながら、「幹部や議員ががんばるのは当たり前。人間の値打ちは肩書きがとれたときの生き方で決まる」と自分に言い聞かせている。いろいろな貢献の仕方があるのだろうか、僕は体が動く間は、自分の家の周りのビラ配りをし、5部でも10部でも赤旗の配達・集金はさせてほしい。上野さんは、そういう生き方を貫かれた方として、僕の模範なのである。
さいかみつお(県学習協副会長・日本共産党県議会議員)