雑賀光夫の徒然草

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万葉集によせて

万葉集によせて

                (一)

先日、柄にもなく李白などを読んで、宮中のおかかえ詩人である唐の詩人が反戦・厭戦の詩を書くことに興味を持ったということを書いたことがある。
「唐の詩人が………である」と論じることは、その反面で、たとえば「日本の詩人は………でない」ということを意識している。実は、私もそうであった。私の頭の中の「宮中詩人・文学者」といえば、「百人一首」と「枕の草紙」と「源氏物語」の一部分ぐらいしかない。その私は、またもここに不学を恥じることになったのである。
数年前、父・紀光を見送ったおり、丁重な毛筆のお便りをいただいた。「犬養孝」とある。いつか、公害問題の汐見文隆先生が、「犬養先生というような偉い先生が来てくれたのに和歌山県知事は会おうとしなかった。不見識だ」と憤慨しておられたことがあったような気がした。その万葉研究家の犬養先生だということに気がついた。
その後、橋本市が、万葉の歌をたずねて歩く企画をした。その企画には、生前の父・紀光が参画していたというか、言い出しべえの一人だったらしい。父のやりかけたことなど関係ないのだが、橋本市の担当の方が、わざわざお参りに来られ、ぜひ参加をとおすすめいただいたものだから、家族サービスもかねて出かけたのだった。
出かけてみると、和歌山線の中から「和歌浦を考える会」の顔見知りのみなさんとご一緒するなど楽しい一日になった。犬養先生は、高齢のため車椅子でのご参加だったが、歌碑の説明をされ、「いっしょに詠おう」と朗々と歌に節をつけて詠われた。「歩きながらの説明で、「万葉の遺跡は心の文化財です。大事にのこさなくてはなりません。和歌山の知事さんも、和歌山市長さんも開発に熱心なので心配です」という意味のことを言われた。知事選挙前のことである。
途中で、私は、車椅子に近づいて名詞を出して「紀光の息子です」と生前のお礼を申し上げた。

  (二)

父の遺品を整理していたら、犬養先生の万葉解説のテープがあった。それを今、カーステレオでくり返しきいている。その結果、不学を恥じることとなったのである。
私は、万葉集を全く知らないわけではない。高校の国語でならったくらいのことは知っている。東国の農民が防人にかり出されるのを妻が「わが背」と呼んで送り出す歌があった。和教組の婦人部長をしていただいた西川先生のことを、私は、「万葉の女性」と勝手に名づけて悦に入っていた。戦時中、出陣学徒の何人かが万葉集を限りある荷物の中に加えたということも読んだことがある。
しかし、犬養先生のテープは、そんな程度でなく、万葉集に私を引き込むことになった。

信濃なる 筑摩の川の さざれしも
    君しふみてば 玉とひろわん
さ桧の隈 桧の隈川の 瀬を早み
君が手とらば 言寄せんかも

というような乙女の恋の歌の新鮮さにはじめてふれた。

犬養先生は、「玉とひろわん」の歌を、「人がふれることによって、魂がうつると考える心の厚み」と解説される。そこで、話に出されるのは、先生が朝のテレビでたまたま見たという、特攻で息子を死なせた老夫婦が鹿児島(知覧であろう)に旅行し、特攻の碑の所で拾ってきた一つの石ころを老夫婦がどんな思いで大事にしているかという話である。
唐詩にもとめなくても、古代日本の詩歌に、民衆の心が生きていたことをはじめて知ったのだった。いま、何回も何回も同じテープをきいている。

         (三)

和歌山の歌をいくつか紹介しておこう。だれでも知っているのは次ぎの二首
和歌の浦に 汐満ちくれば 片男波
 あしべをさして たづなきわたる
     山辺赤人
旅にあれば けにもる飯を 草枕
    旅にしあれば 椎の葉に盛る
     有馬皇子

 これなら、ぼくでも知っていた。初めて知ったのは

 玉津島 見れども飽きず いかにして
     つつみていかん 見ぬ人のため

大和の人たちにとって、和歌浦の海を見ることは大きな感動であったのである。この海の美しさを、孫や曾孫にも、万葉の人たちの感動を微かにでも追体験できるほどには残したいと思った。

一九九六、七、二一に書いたものを少しだけ手を入れた
                                       雑賀光夫
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by saikamituo | 2007-09-29 00:08