雑賀光夫の徒然草

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和歌山県勤評闘争少史

本稿は長く私のパソコン・ハードディスクに眠っていたものである。執筆者は私が尊敬する田辺在住だったI先生だと思う。

ある日、I先生は「まあ読んでくれ」といった調子で私に原稿を手渡された。面白かったので、私は和教組のアルバイト書記の方に「ワープロの練習のつもりで打ってよ」とお願いした。それがこの論考であろうかと思われる。


和歌山県勤務評定反対闘争小史

序章  勤評への布石

1、強まる国家統制

一九五三年一〇月二日、MSA協定をめぐる池田=ロバートソン会談議定書は「日本国民の防衛に対する責任感を増大させるために・・・・日本政府は教育および広報によって、日本に愛国心と自衛のための自発的精神が成長するような空気を助長することに第一の責任を負こととし、そのための議事録には、「アメリカの急速な再軍備のための要求にこたえるためには、日本は、以下四つの制約を克服しなければならない。即ち、①平和憲法をもっているという法律的制約 ②貧乏という経済的制約 ③日本人は、いかなることがあっても武器をとってはならぬと教育してきた社会的・政治的制約 ④共産主義が相当浸透し徴兵制は不可能と言う実際的制約」を銘記していた。

以後・わが国の政治は、この4つの制約を克服することに力を注いで来た。経済的制約には「所得倍増論」で幻想をふりまき、社会的政治的制約については、偏向教育というどう喝や日教組攻撃によって教育の反動化を推進してきた。もっとも日教組攻撃は、とりわけ国政選挙において日教組出身や推薦の議員を数多く当選させてきたことから保守派議員に日教組憎しの感を持たせ、政治活動禁止の攻撃を執ように受けてきたが、MSA協定以後は教育内容に関わる偏向教育攻撃がきびしくなっていた。

再軍備について代表的なものを六つばかりあげてみます。学級の問題としてどれが正しいのか考えましょう。

「① 日本にしっかりした軍隊がなければ、いつソ連や中国がせめて来るかもしれない。

② 強い軍隊があれば外国からせめてこない。③今の世界のありさまからみて、ソ連や中共は日本にせめて来るはずがない。だから、軍隊をつくる必要がない。

④今軍隊を作ればアメリカに利用される。アメリカについて戦争すれば、日本はまためちゃくちゃにされてしまう。だから軍隊はない方がよい。

⑤軍隊を作るには多つの費用がいる。軍隊を作る金があれば、貧乏で困っている国民の生活をよくするのにまわした方がよい。

⑥国と国との問題は戦争で解決しようとせずに、どこまでも話し合い(外交)で解決することができるはずだ。

などですが、あなたはどれに賛成しますか。」

この文が山口県教委・岩国市教委が偏向教育として取り上げた「山口日記帳事件」(五三年六月)であった。山口県教祖編集の日記帳にあったこの文章を「ややもすれば特栄政党の政治的主張を移して、児童・生徒の脳裏に印しようとするごとき事例」として槍玉にあげ「教育の中立」を喧伝した。これだけではない。山口日記帳の二カ月後、「いまのおとなは、ばかだ/せんそうするからだ云々」という詩をのせた「青森日記帳事件」(五三年八月)あるいは、「少年朝日年鑑」にのった作文を収録した滋賀県の「冬休みの友事件」(五四年一月)などがそれである。そして、「教育の政治的中立」という耳ざわりのいい言葉を並べ立てながら「義務教育諸学校における政治的中立の確保に関する法律」という、いわゆる教育二法を国会に提出しようとしていた。(53年秋)

そして、それを正当化するために兵庫県などで警官を使って教員の思想調査を行なったり、「偏向教育二四の事例」を文部省が発表した。この事例は、一方では実在しない学校があるかと思えば、和歌山県西牟婁郡和深村和深第一小学校吉川薫雄教諭の社会科「働く」の実践もふくまれていた。和深村では、同校PTAが、吉川支持を決め、教育二法反対決議を上げた。県教委も「偏向教育でない」と県議会で答弁、和教組が正式見解を求めたのに対しても同様の態度を言明した。(五四年三月一三日)

「二十四の事例」のみならず教育二法案は人々の反感を買っただけだった。

「われわれは(五四年)二月一四日一堂に会し、今日の悪法それ自体悪法であるばかりでなく、憲法改正・再軍備への道をたどり、ますます植民地化を強行するものであることを確認し、民族の独立と離れることますます遠きであると信じ、絶対これに反対し、全村こぞって反対運動を展開することを決定しました。

日教組本部に和歌山県西牟婁郡朝来村長榎本操六以下、村会議長・教育委員長・PTA会長・婦人会長らの連盟の書簡も届いていた。

 二法案の審議が始まると、和歌山第二区選出の衆議院世耕弘一は「日教組は解散させられないか」という愚問をはっして、元内務官僚で、戦時中は昭南(シンガポール)市長をつとめた大達文相を喜ばせたりした。もっとも世耕は日教組にたいし、深い恨みをいだいていた。

五二年八月「抜き打ち解散」で狼狽した左派社会党は、全く準備もないまま、日教組中執辻原弘一を立候補させ、若干二八才、全国最年少で金的を射止めたが、世耕は、そのために苦杯をなめた。その差は僅少だったために、名前が弘市と弘一でもあったから、恥じをしのんで「弘一」裁判を行なうなど、日教組は不倶戴天の仇敵とも思っていたのである。

ともあれ、教育二法反対闘争で、全組合員が、給食抜きの抗議行動と、院内闘争に動員交渉を重ね合わせ、一定の修正をおこなわせていた。

しかし、法律は成立すると、それは活動を始める。まず、京都で旭ヶ丘中学校問題がおきた。五五年八月には民主党の「うれうべき教科書の問題」が世の注目をひき、五六年には「検定機関の官僚統制の強化、採択は、教委任命の採択委員による地域ごとの統一採択」を骨子とする「教科書法案」が国会に上程された。各界の反対も激しかった。和歌山県教委も、東京など一八都県と共に法案が通過すれば総辞職を決意していた。政府・自民党は、会期末が近ずくと一切の法案を犠牲にしても新教委法の成立を決め、六月二日、制服警官五〇〇名を参議院本会議場に導入、一四時間という混乱の中で成立させるという暴挙をやってのけた。

そうした中で教師たちは、再軍備への不吉な足音を震える思いできいていた。朝鮮戦争と共に発足した警察予備隊は、自衛隊に変貌していた。内灘をはじめ、和歌山県内でも大島軍事基地反対闘争が発展していた。五四年三月一日には、ビキニ環礁で第五福龍丸が被爆し、ほどなく久保山愛吉さんがなくなったりして、全国民に大きな衝撃を与えた。

二、和歌山県下での諸闘争の発展

こうした時期における和教組を中心とした動きをみておこう。

五二年の西川事件、五三年の七・一八水害闘争を通じて和教組は結成当初の校長組合的性格や民同系の影響を徐々に脱却していた。

といってもそれは至難の道程であった。死者・行方不明者をあわせて一〇〇〇名、物的被害が当時の価格で優に一〇〇億円をこえた七・一八水害に県下の民主団体は、民主団体水害対策委員会(民水対)を結成(七.二二)、救援と復興闘争にとりくんでいた。和教組も夏休みになるのを待ちかねて、有田・日高両川流域を始め各地で、和教組の旗をひるがえし、献身的な救援活動をすすめた。ところが、八月の県委員会の席上、日高支部が民水対に共産党が加わっていることを口実に、脱退を求めた。「救援にアカもシロもない」という反論に席を立つなどして、ついに民水対を脱退した。前年の西川事件でも共闘会議に参加せず、組合員の間にも疑議や不満の念を醸成していた。

総会に次ぐ決議機関。重要な闘争時には、拡大闘争委員会としてその任に当たることになっている。 けれども、教育反動化のうごきには厳しく対決しよう と努力してきた。

政府が日教組いじめを文教政策の基本としているかの様相を見せはじめると、和歌山県でも保守系議員がこれに追随した。五三年三月一二日、教員の政治活動を禁止するために教員を国家公務員とすることを意図した義務教育学校職員法案反対闘争の日、県議会では、丸山弘が「三、一二についての和教組の措置」を質問して嫌がらせをした、と思ったら三月一六日、下西岩吉が「学校教員21名が学校に席をおいたままで、組合の仕事や選挙運動を行なっている。こうしたヤミ専従者に賃金を払うのは違法」と県教委を追求した。

教育は「ヤミ専従者は一三名いるが三月異動で解決する」と見解を示した。が下西や丸山は「一三名のベースアップ分四五万円は支出が不当」として、51年度決算を承認しないという暴挙にでた。

この問題で、結成間もない和高教が教育長に「責任をとって辞職せよ」とせまり、教育長は「見解の相違」と突っぱねた。事実ヤミ専従者は前からの慣例であり、教委と和教組の紳士協定でもあった。

ところで和高教であるが、高校教師の間では、日教組結成以来全国的に賃金問題で不満がくすぶっていた。というのは、高校教師には旧制中学から引きつづき教壇に立つ人が多く、中等教員免許状を所持する者と、小中学校の小学校本科正教員免許状所持者では学歴が異なるから、小中教員と賃金格差を設けよという給与三本だてを主張し、保守政党と結んで日教組を離れ全高教を結成していたのである。

和歌山県下でも、教育長村上五郎が初代校長をつとめた田辺高校や南部高校から脱退者がで、五一年七月三日、和教組高校部会で全員が和教組脱退、和高教結成(初代委員長松野三郎桐陰高校長)へと進んだもので、ヤミ専従問題の頃は和教組の第二組合的存在でもあったから教育長への抗議となったのであろう。これだけではなく反共連盟を名乗る団体は県教委・教育長・和教組を背任・業務上横領で告訴していた、が県教委は、和教組との間で解決をはかるとし、最終的には四九五万円を和教組ヶ返済することで決着をみた。(五三年一一月)公選制教委の主体性と教育長村上五郎の良識がこうした解決をはかったのであろう。

このような攻撃のなかで和教組組合員の間にはMSA協定以後の再軍備の気配をひしひしと感じてい足。大島基地反対闘争(五三年)や原水禁運動、教育二法反対闘争と息つく暇もなかった。和教組はこうしたたたかいを通じて父母と共にたたかうことを執ように追求して来たが第一一回定期大会(五五・二・五~六白浜)は、「職場の要求、職場闘争を基礎にして国民との統一行動(町ぐるみ・村ぐるみ)をすすめることがたたかいの基礎であり、国民教育運動の展開の基本」だとした。これは前年七月、第五回総評大会で高野実が太田薫と争って事務局長に就任したことも背景にあったが、和教組は、その前年の大会では居住地における父母労働者との居住地会議も提唱していたが、それなりの理由はあったのであろう。

 即ち四九・五〇両年にわたるシャウプ使節団による税制勧告は地方財政を極度に圧迫しはじめていた。加えて和歌山県では五三年七月一八日の有田・日高両河川を軸に全県にわたる豪雨が戦中戦後を通じて荒廃させていた山林の深い傷後が大水害となって、死者・行方不明者をあわせて一〇〇〇名を越え、物的損害も当時の金額で100億円を越える大災害となり、その復旧のため県財政は窮乏のどん底に落ち込んでいた。

五四年度特別交付税について八億を予想していたところ、四分の一の二億そこそこで、五四年度決算は二億の赤字、五五年五億、五六年一六億と雪だるま式にふくれ上がり、財政再建団体転落一歩手前となっていた。

 小野県政はその責任を労働者に転嫁した。彼は最初の知事選で官選知事との決戦投票で事実上和教組に支持を受けて初の民選知事になっていたが三選をはたした頃になると、初めて知事になった頃のことは忘れていた。もっとも和教組の側でも、それだけ階級的に成長していたことも事実であった。

 特別交付税が二億に決まった翌日、知事査定は教育費二割り削減という大なたをふるった。 さて、給与三本だてで分裂した和高教、分裂に力を貸した人々は別として、多くの組合員は、必ずしも和教組脱退を快しとしていなかった。あるいは、御用組合的存在となることを認めていなかった。和教組とは高校入試や賃金体系の問題ではしっくり行かなかったが、教育の反動化がすすめられていることや、賃上げ闘争などでは、両教組ともその要求は実現しにくくなっていた。そして和高教内部でも日高高校長問題をめぐって松野執行部退陣(五三年六月)や、新宮高校「わだつみかい」問題、高校総務任命制問題などの問題を通じて第二組合的性格を克服していった。

2、責善教育の展開

二・一一ストを機に「教員組合運動の主軸として責善の大運動を展開」することとなった和教組は曲折の末、第五回大会(五〇年二月)に、国民運動として展開すべきだと県教委にその責任を移管した。更に第七回大会(五二年二月)では「封建的差別意識払拭への教育活動」(広義)から「部落民として差別する意識払拭への教育活動」(狭義)かの論議のすえ、小委員会での決定を覆して、本会議で執行部提案の広義説をわずか二票差で決定するなど、その方向を模索していた。

しかし、五一年五月「部落は実在する。」と力説した北原講演や、第七回解放委員会方針、そして直接的には西川事件闘争や七・一八水害復興闘争を通じて、その観念性を脱却して行った。それだけではなしに御坊や庄などの解放運動の進展が、責善教育の観念性を大きく突き崩していた。

他方朝鮮戦争前後から県下各地で民間教育運動の機運が強まり歴史教育協議会や生活綴り方運動が展開され始め、中でも、「日本綴り方の会和歌山県では第一号の会員」という藤田土与や真鍋清兵衛・佐藤昭三の四人で結成された『教師の友』紀南グループから発展させた紀南作文教育協議会(紀南作教)は、責善教育推進の上で大きな役割を果たしていた。 

一方西川事件や七・一八水害復興闘争を通じて多くの組合員も部落問題の本質をつかみはじめていた。和教組も朝来を始め切目・杭の瀬・打田などでフィールドワークを行ない部落問題を科学的にとらえようとしていた。部落の子供たちの置かれている差別の実体、長欠・不就学、教科書や学用品の不足、学力不振・劣悪な健康状態・衛生状況・暴力・野荒し等の非行、就職・進学時の機会不均等、結婚問題等の苦悩、どのひとつをとって見ても厳しい差別の現実であった。

ぼく学校へ行きとうてしょうない。そやけどとうちゃんが七年も病気で寝てるから「行きたい」ていうてもあかん。ぼく、にいちゃんとガンビひきに行く。そのガンビはお札になるんやて。ぼく、ガンビひくとき、いつも不思議になってくる。ぼくは学校やすんでまで、毎日毎日こんなに働いても、貧乏でどうにもならんのに、世間には、ええ家で暮らしている人もあるし、自動車でゴルフに行きはる人もある。そんな人等はみんな札もっている。ガンビひきせんでも、そのガンビで作ったお札を持っている。その反対にガンビ引きする僕と兄ちゃんは、そのお札がもてへん。

差別の現実を深く見つめさせ、そこから差別にも貧乏にもいじけず、ふまれても抵抗して行く強い人間を育てるという生活綴り方の実践は、他の民間教育運動の実践とあいまって五五年一月、和歌山市で開かれた全同教第四会大会において、同和教育の具体的実践の方向を切り開いた。全同教大会のみならず、その成果は第四次教研の頃からようやく職場に定着してきた教研活動や、県教委と共催で行なわれてきた責善教育研究集会(ワークショップ)等に反映して責善教育を実り豊かなものとしてきた。けれども、五五年一二月、湯浅町で開かれたワークショップが「父母・子供の願いに応える教育」をめざして緊張感や恐怖感を持たない責善教育をめざし、すべての教師がとりくめることを強調したあまり、実践報告は文字どうり緊張感から解放されたのか、部落問題の視点が欠落し、「民主教育一般への解消」が大きな問題となった。

他方では、警官を議場に導入した中で強行成立された新教委法にもとづく任命制教委発足間近かという情勢もあった。和教組は「だれでもとりくめる責善教育を作り上げよう」という方針を明らかにした。(五六年九月)

この方針はまず「考えかた、ちがいや立場をこえた一致した親の要求」とともに、部落の親や子は「差別と貧乏から解放されたいという人間としてのぎりぎりの要求をもっている」とし、責善教育は一〇年の歴史のなかでこの要求のうえにたってすすめられてきたのであったが「具体的なすすめ方のうえでは多くの混乱がある」ことを明らかにし、責善教育国民教育に基礎をおいた部落解放の教育」として展開されるべきことを示した。そして、まさしく「誰でもとりくめるもの」として

一人ひとりの子どもを喜んで学校へ来させるために

  子どもに真実を教えるために

教育内容と子どもの自発性を結びつけるために

子どもと子ども、子どもと教師のつながりを深めるため  に

教師と教師、教師と父母のつながりを深めるために

(未解放部落を含む地域で特に強化されるべき活動)

未解放部落の子どもの教育を高めよう

未解放部落と一般の地域の生活のちがいや共通した問題  を見出そう

未解放部落内部の民主化と統一を進めよう

  という八節五二項目の「責善教育の課題(研究テーマ例)」  を提起した。

共同闘争の前進

「誰でもとり組める責善教育」のもうひとつの背景は、全県的な解放運動と労働者農民の生活要求にもとずく運動の結合の前進があった。本宮における村民連、朝来の供米闘争、失業者同盟や仕事よこせ運動等々が解同支部を中軸に進んでいた。と同時に「二〇件にもあまる差別事件がヒンピンとして起こっていた」状況もあった。

日置小学校、串本町有田小学校、御坊市小竹八幡宮祭礼事象、湯浅町服部、横田事象、海草郡紀伊村議差別発言、時期的には少しずれるが有田郡五稜病院、湯浅小学校、日高農地事務所、日高土木事務所等々であり、それらの多くが共闘会議によって糾明され解決されていた。日高の場合は実に二二者共闘に達していた。

これらの差別事件闘争のなかで大きな闘となって発展したものに日置差別裁判闘争があった。

五〇年一一月九日、差別発言を抗議したところ再び差別を発言したことに激昂した日置町坂本部落の青年たちが差別者を殴打した。が暴力について反省をして駐在所に自首して出たところ起訴され、やがて田辺簡裁で略式による罰金刑に処せられた。青年たちはこれを不満として正式裁判を申し立てるとともに解同中央の指導のもとに「日置差別裁判事件糾弾闘争委員会」を発足させ、県下各地で部落総決起大会や民主団体による現地調査などを含む激しい抗議運動を展開していた。

田辺地裁支部でその正式裁判が始まる日、解同は民主団体と共に日置差別裁判部落総決起集会を開催、西牟婁地方教育局栃崎博孝責善教育担当主事が抗議文を読み上げた。

責善教育担当主事というのは前に和教組が県教委に責善教育を移管した際、責善教育部長松本新一郎を県教委学校教育課に入れ責善教育を担当させ、以下各地方教育局にも同様配置したもので各郡市の責善教育推進の中心的役割をはたしていた。

ところで栃崎の行動が県教育委員会で問題となった。任命制教委として最初の会議で、問題としたのは田辺市出身で県会議員もつとめた経験をもつ小山周次郎であった。教育長は「公務員としては行き過ぎ」と答弁した。かつてヤミ専を始め種々の局面で良識を示した村上五郎は任命制教委のもとではこう答えざるを得なかったのであろう。責担主事会はこれに反発した。松本が「差別をなくするための責担主事が差別をなくする会で抗議文を読んで何故悪い」と追及すると社教会長が「国体で旗をもつのはいゝが、解同が全県民の支持がないから悪い」と答え、問題は更に大きくなった。解同県連は和教組・和高教・教育庁職組・県職との五者で県教委交渉を行い、その差別性を追及、県教委は庁内民主化としてこれをうけとめ、一一日間にわたって相互批判、自己批判を重ねた。

杉山、しかしすごかったですね。たとえば給仕さんが主事に対して、「あんたはタバコを買いに行かすが、公用と私用をいっしょにしてるやないか」と批判する。そして最後は差別していたの、いなかったのかというところまで自己批判と相互批判をするわけです。「差別していました」というと、こっち側にすわれといって民衆の座にすわらしてくれる。そして今度は主任が係長にあんたはいついつああした、こうしたとまじめに平素いえなかった批判を行う。こうして係長が課長に、課長が次長と、そういうふうにしてしまいには村上教育長にとどくのに一一日かかったわけです。

村上、(それは)やっぱり教育庁全体の機構の中では、ある種の民主的な役割を果たしたわけです。それは責善教育を狭い意味だけで考えないで、それから来るいろんな問題の考え方を深める意味があったわけです。私自身の立場というものももちろん含んでいたと思います。しかしそれがあとに何を残したかということになると極めて問題は大きいと思うんですけどね。

文化大革命を思い起こすような話であるが当時の考え方を知るには面白い。ともかくこうした差別事件闘争を通じても共闘の形成が追求されていた。

和歌山における勤評闘争の特色のひとつは七者共闘にあったが、その基盤はこうした闘争で絶えず共同闘争の展開が行われていたことが大きな力となったことはいうまでもなかった。

圧迫される教育財政 

和教組が共同闘争の中核となるのは少なくとも五三年頃からではなかったろうか。というのは共同闘争へは参加しても民同系の反共ムードで西川事件にも、水害復興闘争にも参加しなかった。しかし地方財政の窮乏化に伴い定期昇給すら完全に実施されなくなると少なくとも県関係職員の共同闘争は不可避であった。もちろんそうした事情だけではなくて西川事件等の共同闘争不参加などが逆に組合員の階級意識を育てたいといえよう。 ともあれ賃金闘争で県関係の共闘を組んだのは『和教組二〇年史年表』によれば五二年六月一八日「和教組、和高教、教育庁職組、県職夏期手当を要求して共闘」と初めて出てくる。以後四者共闘は曲折がある。たとえば「ヤミ専」問題のときは高教組が共闘に参加しなかった。和教組は無署名の〓文書で、ヤミ専問題は、高教組脱退の主役だった某が、その力を失って来たので、勢力挽回のために一部の県会議員と結んでうち上げたものだという情報を職場に流していたりしたのでこの時期に共闘に参加することはお互いに許されなかった。

それにしても地方財政は全国的に窮迫してきた。和教組では例えば「一〇月一日付け昇給を闘いとろう」(昭三〇・九・一九、指示第六号)というような指示を出さねばならぬほど定期昇給すら見送られるほどの状況であり、名目的に昇給しても、三カ月とか六カ月間の昇給分を県に寄付という名目で支給されないこともあった。

あるいは五五年一二月、四者共闘の年末要求の機先を制して教職員の昇格昇給予算の査定を見送った。和教組・和高教に昇給予算を見送ったのは巧妙かつ悪質な手段であった。 この時期県当局は四者共闘に対し、県職と教育関係三者を切り離すことが再三あなって、四者共闘といえば不信の種となるようなことも少なくなかったがそれでも四者共闘が組織されていた。

五六年一月、県との団交で総務部長は一月以降の定期昇給は困難であり、人員整理も検討中だと答えた。新年度予算の財政課査定は県教委の要求教員定数を大幅に下回り、高教授業料引き上げも含まれていた。四者共闘は教育の危機として二月二八日県議会開会日に、「地方交付税率引き上げ、学級定数五三人確保、高校授業料値上げ反対、地方教育局を守れ」と地方自治と教育を守る総決起集会を開催、一五〇〇名が参加した。それでも県議会は「財政再建」のため「人件費圧縮、単独事業縮小、経常経費縮減」等を骨子に「前年度予算に比し一九億三〇〇〇万円減」で「人件費については……昇格延伸、互助会補助圧縮」等を知事が説明した。小学校一学級の定員は五五人で、四月の異動期に新規採用された和大卒業生は僅か二一人という有様であった。

それでも事態は好転しなかった。九月議会に先立つ全員協議会で当局は、予算をその侭執行すると一四億の赤字になると説明、諸経費三割削減を指示した。四者共闘は知事部局県教委と団交の結果、県教委は三割削減は反対だが予算権がないとし、総務部長は削減案撤回はしないと答えた。そして打ち出されたのが出張旅費削減であった。

そのころ朝来中学校は「誰でもとり組める責善教育方針」の具体化をはかるため県教委の責善教育研究指定校となり、その発表会(責善教育ワークショップ)を一一月三〇日~一二月一日の両日に予定していた。共闘側は旅費問題が解決しないのでその前々日に参加拒否を県下の各学校に指令した。指令は整然と守られた。       

研究会延期 一一月三〇日、本日及び明日の二日間開催予定の県教委委託責善教育研究発表会は教員の旅費削減反対闘争の出張拒否にあい延期となる。教育長村上五郎氏並びに教育委員西川、栗栖、萩野氏等と本校職員と懇談をなす。

 同校『沿革史』は淡々と述べているが打撃は大きかった。

和教組は引き続き年末手当二カ月要求を掲げて一二月五日午後二時授業打ち切り、県下四〇会場で総決起集会を開催し、県教委との団交を進めた。

そして三割削減解除と五七年度当初予算の教育費へのしわよせ排除の回答をひき出し、出張拒否闘争を解いた。

責善教育研究会(五七年)一月一八日一九日、県教委・町教委・和教組並びに本校共催の責善教育研究会開催、参会者一千名にのぼる多数のため第一日午後より会場を熊野高校にうつす。 第一日 研究授業と話し合い、講演上田一雄氏

 第二日 実践報告、講演金子欣也氏

朝来中学校『沿革史』はこれも淡々と述べているが全職員は大きな仕事の成功に心がはずんでいた。彼らは二週間後の雪の金沢市で開かれた第六次教研集会に全職員が研究会の慰労を兼ねて参加した。なお、第一日目の講演のあと、すでに県教委が発表していた「責善教育指導方針案」について協議が行われた。これは同方針案の最初の大衆討議であった。

 ところで朝来中学の研究会の拒否闘争や、主催者も予測し得ない程の大量参加も和教組の力量を見せつけた集会であった。と同時に県教委移管や広義狭義の論争などを繰り返しながらも責善教育を教員組合運動の一環として位置づけ、自主的民主的な発展を積み上げて来た成果でもあった。それだけに朝来中学校の実践は「誰にでも……」方針案、更に県教委の「責善教育指導方針案」とならんでこの時期の到達点を示すものであった。 ところで、拒否闘争などは和教組の力の勝利だったと述べた。が、その背景には勤評闘争における七者共闘への伏線としての重要な動きがあった。

解同県連は一一月一九日県連役員・県委員に次の文書を送っている。

緊 急 招 請 状

「四者共闘委」同盟の申し入れを受諾/対県交渉の火ぶたを切る差別行政撤廃要求闘争はいよいよ積極的に展開されつつある。さきにわれわれは民主勢力に対し共闘を申し入れたが、この内四者(両教組、教育庁、県庁職組)は既に具体的なスケジュールをたて、共闘を受諾する旨、本日の共闘準備会席上(解放同盟代表も参加)でその回答が伝えられた。 (略)

そして、一一月一三日午前中同盟県連の県委員会(拡大)と午後五者共闘による「第一回団体交渉」を県教委と持ったのである。

ところで前掲の文書で、民主勢力に共闘を申し入れ、四者が妥諾したという点に説明を加えた方がよい、と思うのは、四者共闘が史料的に初めてみえるのは、五二年六月だと前述した。がそれは恒常的な組織でなくて、その都度組織されていたもので、この場合は、和歌山県地方労働組合評議会(以下地評)にも恐らく共闘申し入れを行い、四者の回答を得た時点で五者共闘として発足させたのである。

なお後述する二月一九日付の声明には地評の名も見えるので、県地評も後日共闘に参加して六者共闘(の名称が使われたかどうかは定かでない)となっていた。解同県連がなぜ中心となって教育予算三割削減の反対闘争の共闘を呼びかけたのか、という点であるが、ひとつには両教組や教育庁職組の活動家に解同県連の執行委員や県委員が多かった、という側面もあった。がそれよりも教育予算三割削減を認めることは「容易ならざる事態」と知事が議会で発言しながら提案した五七年予算を認めることになり、地方改善事業も圧縮されることにととらえ「財政再建」予算をつき崩して「部落解放行政」を樹立させる行政闘争でなければならなかったのである。

それだけではなくて、県教育委員小山周次郎が、自身の経営する新聞紙上に「なぜ出ない真の声/万人納得する対処策を/逆効果の反動恐る」という見出しで責善教育批判、解放運動批判を展開し、解同を刺激していた。(五五,二,一三)ところがこともあろうに田辺市人権擁護連盟が五者共闘結成の四日後に、田辺市人権擁護連盟は……従来しばしば行われて来た糾弾方式による不当な圧迫行為を排し、且つ殊更に部落問題を特殊化する弊害を叫び続けて来たのであります。たとえば左記の批判文も又田辺市人権擁護連盟が絶えず意図して来たところとき軌を一にするものであります。しかるに本年一一月一三日五者共闘委員会と称する解散同盟、教育庁職組、和教組、高教組、県職組は起草者である小山周次郎氏をその批判文を以って断定したのであります。かかる一方的判断を以って小山氏を差別者として断定したことは誠に遺憾という前文と、小山の批判文を全文収録したビラを県下各地に配布したのである。

解同県連はこの思わぬ伏兵に驚いて、直ちに反撃に出た。とりわけ朝来支部は、以前日置差別裁判事件部落総決起大会での小山に対する腹立ちもあったし、あるいは「朝来問題」で人民裁判的な大衆討議が行われたが「部落解放運動にプラスになっていない」と書かれたことにも憤っていた。

(県教育委員小山周次郎氏は)差別からの解放を叫ぶ私たち部落民かユスリか暴力団のように取り扱い、当然の要求にもとずく部落解放同盟の運動を何か社会より受け入れられない悪いことをしているとしか一般に受け取られないようなドギツイ悪宣伝をしています。これだけでも許すことが出来ないにもかかわらず、彼は、教育の中から、長年に亘る差別によって長欠や不就学や教科書、学用品が満足にもてない事から勉強も十分出来ないことに悩んでいる私達の子供達の幸福や権利を守り、差別を取り除く真の意味の責善教育を抹殺しようとしています。彼は″差別される側の者が責善教育の指導をする事がいけない″と言って、本当に私達の立場に立って責善教育をすすめていこうとする栃崎君を指導の立場から追い出そうと企みました。(中略)私達はこの事について一一月一三日、県教育委員会と団体交渉をもち抗議をしましたが、小山氏を除く他の4人の教育委員は皆小山氏がこれまでわれわれに対して取って来た憎むべき数々の行為が差別であることを大勢の人の前で認めています。(略)」という声明と共に「失業対策のための事業をすること」等一〇項目の要求を町と町教委に提出した。串本町和部下支部では、同様町当局に「部落問題をどの様に考えているか」「現実に差別があると思うか」等の質問状を送るなど県下各支部では抗議・要求行動がすすめられていた。

ところで一一月一三日の県委員会で、一二月県会にむけての対県闘争体制の確立を図り行政要求闘争を大胆に組織すること、教員組合が三割削減反対だけで闘うのではなく解同との相互の利害関係の上に共同闘争を発展させるべきだと結論ずけていた。 午後の団交では、差別事件の瀕発する原因とそれを除去する方策、小山委員の差別性をとりあげ、小山を除く他の委員は「小山氏の差別性を認め相互研修の中で反省を求める」と回答した。

二〇日に引き続き二度目の団交の席上、①(小山委員の差別性を認めるなら)一一月三〇日の朝来中学校の研究会に県教委は全員出席し、地元で話合え ②前日以後の経過報告をせよ ③小山氏の差別性と田辺市人権擁護連盟の挑戦的態度と責善教育方針について追及した。〓については小山・室谷両委員以外は県教委として出席する 〓に関連して西川教育委員長は前回「小山委員の差別性を認めたのは軽率」と前回答弁を否定し、小山委員も「私は田辺市人権擁護連盟に呼ばれ事情を説明した。連盟の文書は悪いと思わぬ。また前回の交渉で他の委員は自信のない認め方をしている」と結局前回の答弁を全く否定してしまって物別れとなったのである。事態は進展せず結局和教組は出張旅費問題で朝来中への出張拒否闘争を組んだのである。そしてその夜朝来妙道寺で県教委との団交となった。こうした背景があったから和教組も思い切って拒否闘争に突入出来たのである。そして朝来中学校も又その困難な局面を堪えることができたのである。そこには「誰でもできる」ことを目指した実践を通じて、とりわけ部落の親たちとのむすびつきも、深まっていたからできたことであった。

朝来での団交で一二月一日で県教委は不味研究会を流会させた責任を詫びた。そして「部落の低位性は観念的に理解していても、朝来で実態を見て責善教育もこの実態の上に立つべきだ」等とは答えながら、小山委員の問題は物別れに終わった。

県連は一二月県会を行政要求闘争で闘い抜くとし、〓最近頻発する差別事件は解放行政が正しく行われないからだ。〓差別によって奪われた市民的権利の保障と〓必要な行政施策を行え、と二七項目の当面の要求をかかげた請願を県議会に提出した。最終日、前日の厚生委員会で採択を決めていたのに本会議で内容が多岐にわたるから継続審査としてしまった。

二月県会が近ずくにつれて当初予算案の内和教組はかつてないきびしさとして春闘方針をうち出し、組織の団結と父母との統一のうえに全県的な統一行動を組織しようとした。最大会派新政クラブと交渉を持ちながら、まだ採択させられるかどうか定かでなかった。 二月一六日、和教組は第一三回定期大会を開催した。たまたま知事査定の日であった。教育三者は団交を重ねながら教育予算獲得の努力を続けたが、学級定数は五五名で落ち着き小学校一三一、中学校五六学級の減となった(和教組調べ)解同の要求していた子ども会関係予算も殆どが査定されなかった。

そんなとき、突如として同盟員でもあり、和教組、教育庁職組組合員でもある北条力や栃崎などを含めた教育三者が県庁前付近でハンストに突入した。大会中の和教組も困惑したが、解決のメドもつかないので一九日午後五時から地評を含む六者で抗議と決起の集会を開いて八四時間のハンストを解除した。この間知事は強気で、ハンスト中は絶対団交に応じないと拒否した。

われわれは事の重大性と余りにも知事の無理解な態応に対し徹底的な反撃を加えるべく組織の確立を図り、更に広汎な地域の中にこの闘の核をつくる事を決意し、県教育委員会の行動と良識を信じて云々

という事実上敗北の声明を出した。ハンストの後遺症は後述するが、解同は請願をどうにか採択させていた。

ハンストに突入したその日、佐賀県教組は、歯を食いしばって赤字財政を理由に教員の定員削減(三二年度、二五九名)や定期昇級昇格のカラ手形という危機的状況をはねかえすために、三三四割休暇闘争を打ち抜いていた。

池田・勤評〓

六 生活綴り方的、あまりにも生活綴り方的

 五七年六月五日から四日間、和歌山市民会館で第一五回日教組大会が開催された。いまほど右翼の妨害もなく、むしろ歓迎ムードであった。西牟婁支部は「全国から参集する五〇〇〇人の代議員、停職者(傍聴)をあたたかくむかえること」と「観光白浜にたくさんの方がおいでることと思われるので十分関心を払いたい」と組合員に訴えた。

ところがこの大会の二カ月前には愛媛県で勤評提出を拒否した校長三四名が減給処分をうけていたし、佐賀県でも児童生徒七〇〇名増に対し教師は二五九名減で三三四割休暇闘争を打ったために役員一一名が停職をうけていた。和歌山でもハンストを打ったが結局はは敗北し、和教組の職場では、県民へのアピールか県に対する力なのか不明確で撤収にしても 昧で職場への動揺を示した、と批判されている有様であった。

もっとも解同の側では、請願書を採択させねばならないのに、県下各支部の動きが鈍いために、同盟員を奮起させることを目的として北条(和教組)栃崎(教育庁)らがハンストに突っ込んだもので県連本部は、闘争指令第一号を出し、「北条、栃崎解放教育予算獲得のためハンスト突入」として「実力闘争を準備突入せよ」と通知したが、ここでは戦術の具体的なものはなっかた。

そうした状勢に対し、大会方針は賃金闘争に重点を置いて、勤評については唯一行「勤務評定の制定に反対する」とあるだけであった。そして大会論議も賃金闘争に力点が置かれていた。各県とも地方財政は窮乏しきっていたからそこに討論が集中するのも致し方なかった。その方針はしかし、教師は教育労働者、教育という特殊な職業をもつ労働者集団という。″教師的″発想が根幹にあった。

われわれは一九五七年の運動の重点を父母や大衆や、国民の願いにこたえて、教育の充実と、教育水準の向上、教職員の賃金向得と権利確保におく。このため総ての学校職場でよりよく教育活動を営むことができる定員の確保、学級規模の改善、校舎施設、設備の拡充整備を含む教育予算の大巾増額を、父母大衆と提携しつつ、市町村・県・政府に要求する運動を展開する。このこととともに教育を高めその自首性をささえるに足る教職員の賃金並びにその身分の保障と権利の確保をめざして闘う。

和教組はこの方針が気にいらなかった。″よむに堪えない方針″とし 西牟婁支部でも「思い切った日教組批判をしよう。運動方針書を一つひとつ検討すると言うことでなしに……プリントにして四〇枚に及ぶもので、これを読むには大変な苦労と思いますのでフト思いついた様なことでもと言う気持ちで率直な批判」を「広く父母の批判も出して行く」 えということを組合い員に流していた。乱暴な話である。方針を読まずとも思い切った批判をしろというのだから、される日教組の側は大変である。

大会では北条力が和教組修正案をもって登壇した。北条は勤評闘争時には和教組書記長として登場するので少し紹介をしておこう。

 彼は敗戦も間近いころ母校の朝来小学校の代用教員になり、戦後もずっとそこに勤務、村の青年団活動等にも従事していた。若いけれども政治的な力量もあり、独特の人なつこい人柄もあって村内では早くからその存在を認められていた。四八~四九年ごろには共産党に入党したようである。そうしたこともあって教員組合活動にも関心を示し支部役員に立候補するがまだ校長組合的な和教組であったから、その役職はすべて落選していた。例えば五〇年度役員選挙で書記長に立候補、決戦投票で落選、続いて書記次長で一位となるが法定得票に達せず決戦投票では大差で落選、更に執行委員に出てこれまた次点落選という体たらくであった。五一年は執行委員に出たがここでも落選、五二年、漸やくこのことで書記次長の席を手に入れたのである。後年、県議選に打って出てここでも三度目の正直で栄冠をえにしたのと似ていたのは余談だが、その一週間後に御坊町で開かれた西川事件確認会で議長をつとめその弁舌と議事の処理が一役彼を全権的な舞台に引き上げることとなった。翌五三年から五七年んまで西牟婁支部書記長、五八年四月には勤評闘争で波乱が予想されるなかを書記長に就任した。さて大会で修正案を提案した彼は「方針の職場討論が深まらないのは、学校を忘れた中執によって原案がつくられているからだ。父母は『敵』はという言葉をつかえるほど意識の高い先生をのぞむだろうか。子どもの頭をなぜるやさしい先生、このことを忘れては日教組への支持はなくなる」と弁じた。彼がこうした趣旨の発言をしたのは初めてではない。

 第一三回大会(昭五五・五、松江市)でも、「メーデーの行進でも労働歌では組合員はついてこない。″どんぐりころころ″をやったら元気になった。私は地域の野球連盟会長だ。これが青年を中心に地域の人との結びつきを強めている」と発言している。「ぐるみ闘争」を提起した高野実の総評の運動の方向も感じられるし、六全協前後の共産党の大衆路線でもあったかも知れぬ。だがそうした政治論議ではなくて、当時の和教組のもっていた生活綴方的発想、北条もメンバーの一員であった紀南作教的発想が強かったといってよかろう。別のいい方をすれば第四回全同教大会で同和教育の方向をきりひらいたとされる民間教育運動の成果は、和教組の運動にも大きく影響していた。そうした点はたとえば和教組第一二回大会(五六・二・一八~一九)方針にも感じられるが、それを示すもっとも典型的な例を、北条の″作文″にみよう。余談だが方針を読まなくとも徹底的に批判をと述べたのは、北条が書記長をつとめている西牟婁支部であり読むに堪えない方針も彼の主張が底にあったに違いない。

少々長い引用になるが、この一文を何に発表したかを考えながら読んでいただきたい。尚無署名だが北条の文であることは絶対間違いない

=入学式と父母=

秋の運動会でお土産競争をして以来は「もう半年したら」「もう三カ月したら」という気持ちで自分の子供の入学を迎え、入学の前になるとランドセル、服、クツ、筆入れ……などと入学に必要な学用品を指折り数えてたしかめているのが入学一週間前の父母の家庭だと思います。

さて入学式ともなれば一人として親のつきそっていない子はありません。そしてぼそぼそと話し合われていることは受け持ちの先生のことです。学校につれてくるまで、たべること、便所へ行くこと、服を起ることだけで家内中かかって送り出してくるような始末であるので、どの親も思うことは、いたいけないこの子を預かってくれる先生は「やさしい先生か」と言うことだけです。

 このときの気持ちには進歩的とか前進的とか言う気持ちは毛頭ありません。

=初めての参観日=

一年から六年までのうちの半分以上が一年生の教室にあつまっているし、期待に満ちた輝きのまなこで先生の授業をみている。そのまなこの中には人知れぬ期待がそれぞれにもたれていることです。

△どの親も身うごき一つしないで先生と子供の様子を見守っていることです。

△私は子供を入学させて初めて授業を参観しました。

 私たちは[夫婦]二人とも教師で他の父兄から「先生とこの子供さんは」とおせじを言われて内心よろこんでおったのですが、子供は一時間中一回も手を上げなかったのです。私は私なりに子どもの力を知っておって先生が出された問題はかんたんにできると思っていましたし、他の子供のほとんどが手を上げているのに自分の子供が手を上げない様子をみて全くわきの下に汗を感じました。この気持ちがすべての父母の気持ちではないでしょうか。私はもし自分の子供がほんとに実力がなくなって手をよう上げないとしたら、次の参観日には出席をしたくない気持ちになると思います。

=せいくらべの歌と父母=

(端午の)節句のすぎた六日の夜、子供と風呂で話をしていると「今日は学校で歌おもしろかってん。『いびつたべたべ』て歌てん。『兄さんが』ばっかしせんと女の人は『母さんが』て歌うし、ぼくら『父さんが』て歌うてん」という話で、親子三人風呂の中で″いびつたべたべ″を歌い、あくる朝もその歌が家中のだれ歌うともなしに歌いました。その歌で感じたことは、

〇子供の体についてのはなしでした。朝ごはんのとき去年の一一月の二八日に兄弟二人が台所の柱に刻んだせいの高さを歌の中から思い出して鉛筆をとり出してせいくらべをして哲生が cm真琴が cmのびたと、はかってから哲生がやせているとか、真琴が肥えているとかの話に発展したこと。

〇このことで担任の先生の暖かい心がしみじみ味わえたこと、家庭訪問に来てくれなくともこれだけの歌で先生の配慮と、その教室の子供たちの様子が手にとる様にわかる気持ちがしたのです。

書き写すのさえバカらしいようなホームドラマであり親馬鹿物語である。が、まだまだ続く。このような状況が全国の家庭に生まれたらその力は大きいし、こうした教育の営みについて職場で話し合い学び合うことが教育研究であり、平和憲法を守ることにつながる。 それなのにこうした一年生の親の気持ちが中学三年まで持続されないのは、子供のことを父母に理解したもらう努力が足りないからだ。高校に合格しなかった子の親が教師に対し憤っているとすれば、この子のことで教師と親との不足を欠いていることを自己批判すべきだ。まして日教組の統一行動で授業を半日打ち切ったことを台風の時、子供を学校まで連れてくる親に「今日一日の早退が台風以上に重要」な事を十分親と話し合うべきだと続けたうえで、

私たちは……「人の子供を教育する」という仕事である限り語ること以外の感化力、教育的影響力をもっているということ、すなわち我々教師の世界に文学を解し芸術を解する素養を持っておるとおらないで子供達に対する敵化力は大きな違いが生ずるでありましょう。これからの期待されるべき教師としての素養を身につけることの必要さをこそ自覚すればこそ、夕べ静かに音楽を鑑賞し春の浜辺で絵筆を握り、書斎で文学全集の一葉をひもとくゆとりがあることをこそ希望しての給与の要求であるなら一体このことの不合理を誰がとなえるでしょうか。子供たちの教育を一歩でもよくしたいというこの教師の願いを援助し、推し進めるためにこそ教員組合の存在意識のあることをあきらかにしてとりくみたいと思います。

この文は何処でなぜ書いたのだろう。たしかに彼の長男哲生が小学校へ入学した喜びはわかるし、教師を職とする親の気持ちもわかる。だが、この文章は、なんと五七年度和来ょ嘘西牟婁支部の運動方針の殆ど全文である。どこの労働組合の運動方針で親子三人が風呂に入って歌を歌った話を書いたのがあろう。あまりにも生活綴方的発想の運動方針であった。

しかし、この作文は生活作文でもあり得なかった。だいいち「ガンビひきをしなくともお札をもてる人がいるのに、ガンビ引きをしてもお札をもてない僕や兄さん」の悲しみを訴えている彼の故郷の子供たちにこたえられる方針でもなかった。

反日教組団体すらここまで書かないと思われるような非階級的、無抵抗の論理であった。落ちても落ちても執念をもやして書記長となった意気込み、教育予算三割り削減反対闘争では、いささか前後を見通さないままハンストに突入した力は方時もみられなかった。

第一五回大会で演壇に立った北条は「現場を知らない中執が書いた読むにたえないダラダラとした方針がある。日常の教室での細かい実践が日教組の闘争力の基礎であり、父母との提携のかなめであって、そうした地道な実践をする『よい教師』が生活と権利を守る運動でも強力な要求を組織できるのだ」主張した。その提案は一定の″聴かせる″ものを持っていたし代議員に感銘を与えた。が修正案は提案県以外賛成は皆無であった。『国民教育運動と共闘の展開』は次のような批判を加えている。 第一に大衆路線に立とうとする善意はあっても、理性より感情に訴え、大衆は難しいものは読まないという大衆軽視につながった。第二に教師・子ども・父母温いつながりを強調しながら中執や代議員をボロクソに言ってそのつながりを大切にしなかった。これは日教組の統一と団結を守り民主集中性の原則を貫く観点が欠落しており、更に重要なことは、すぐれた教育実践を真に民主的で科学的な質の高い闘争に発展させるためにも教師の生活と権利を守るたたかいを主要な側面として組織し発展させて行く方針が大切で、これを逆転させた論理であってはならなかったし、更に他の労働者階級との連帯を強め国民的な統一戦線を拡大強化しなければならないのを、それを子どもを通じての父母、一般との提携にすり替えってしまったからだ、というのである。

だが、和教組がこうした方向に陥って行ったのも無理からぬ点があった。特に55年度以降の財政窮迫化の時期に、学級定数、定員問題、高校入試、学区制問題など、まさに国民教育を発展させるための前提条件ともい


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by saikamituo | 2018-08-28 17:00