雑賀光夫の徒然草

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長恨歌への旅

長恨歌への旅
     続「酒飲みで反戦の中国の詩人たち」

 

(一)

今年(二〇一一年)の和歌山県連・日中友好の旅は、北京と西安(長安)を訪問した。
北京は、交通渋滞と破壊された文化財でみなさんの評価は散々だった。考えてみれば、東京に来て江戸時代の文化を求めても無理かもしれない。
他方、漢・随・唐時代の都だった西安(長安)は、古い文化財が見事にのこされていた。
玄宗皇帝と楊貴妃のロマンスの場、華清池を訪れた。ここには、玄宗皇帝・楊貴妃それぞれ専用の温泉あとがある。d0067266_16114245.jpg
旅に先立って、「長恨歌」を読んでみた。僕は、盛唐の詩人、杜甫・李白のものや、もっと前の晋代の陶淵明の詩が好きでよく読むが、中唐の白楽天(白居易)のものは、読んでいなかった。
「春寒くした浴を賜う 華清の池
温泉水滑らかにして 凝脂を洗う」
とある。
 「温泉水滑らかにして…」は、どっかで見た。そうだ、漱石の「草枕」で、温泉にはいるところで、「温泉と言うとこの一句が浮かぶ」というようなことを主人公の画工がつぶやく。その那古井の宿の温泉というのも「石が不自由せぬ国と見えて、御影石を敷き詰めている」となっているが、玄宗皇帝と楊貴妃の温泉も、石の四角い温泉である。ただ考えてみると、温泉跡地だから当時はそこに板を張って湯船にしたのかどうか、説明はない。
 草枕を読んだときは、「凝脂を洗う」の意味が分からなかった。御影石の浴槽から湯があふれているのかと思っていた。「凝脂」とは、楊貴妃の柔肌のことだったのか。長恨歌では、この温泉で倒れこんでしまった楊貴妃が侍女に助け起こされて、その夜、初めて皇帝のお情けをいただいたことになっている。
 「長恨歌」は「天にあっては、比翼の鳥、地にあっては、連理の枝」という有名な句が、最後のところに出てくる。僕が知っていたのはこれだけ。一番最後は「この恨みは綿々として尽くる期(とき)なからん」で結ばれる。「恨」というのは、「非恋の恨み」かと思っていたら、「恨=恋」、長い恋の歌ということらしい。
(「中国名詩選・下」岩波文庫)

      (二)

 「名詩選」で、その少しあとに「重題」という白楽天の詩がある。
  「遺愛寺の鐘は、枕をそばだてて聞き
   香炉峰の雪は、簾をかかげて看る」
 これは誰でも知っている。高校時代に習った「枕の草紙」の有名な話。
 中宮が「少納言よ、香炉峰の雪は、いかに」と問いかけると、清少納言は、立って、御簾を巻き上げた、つまり、白楽天の詩を知っていたということで教養を示し、周りにいたひとたちは感嘆したという、清少納言らしい自慢話である。ところが、不学な私は、その出典を今ごろ知ったような、はずかしい話である。
 その詩は「日高く眠り足りるも猶お起くるにものうし」で始まる。この句だけは、僕でも知っていた。「春眠暁を覚えず」によく似ている。前に「酒飲みで反戦の中国の詩人たち」という文にも一海知義先生の受け売りで書いたが、当時の中国で朝寝坊できるのは、出世街道からはなれた窓際族なのだ。
 「司馬はなお老を送るの官たり…故郷 何ぞ長安にのみあらんや」と結ばれる。「司馬」というのは、閑職であったそうな。左遷され首都・長安に離れての朝寝坊の歌なのである。

      (三)

「長恨歌」と「重題」の間にある「新豊の腕を折りし翁」に衝撃をうけた。
  腕を折った八十八歳の翁にわけをたずねた。
 「生まれて聖代に逢って征戦なし」(良い政治で戦争がなかった)
 ところが程なく、政治が変わって、雲南にまで兵を送るようになり、三戸に一戸は徴兵されるようになった。「千万人行きて一の回るもの無し」
 そこで翁は、二十四歳のとき、大石で腕を折って、徴兵を逃れたのである。
 「老人の言、君、聴取せよ……又聞かずや、天宝の宰相 楊国忠」
 「楊国忠」というのは、無頼の徒であったが楊貴妃の従兄であっただけで宰相になったという。     (「中国名詩選・下」岩波文庫P107)
 まあ、時代がかわったからここまでいいきれたのだろうが、悪政をここまで告発するとは!白楽天が、左遷されて、長安からはなれて、朝寝坊をしたことは、こうしたことと関係があるのだろうか?
(2012年10月修正)

     (四)

ところで、「酒飲みで反戦の中国の詩人たち」という文を書いたと述べた。その中で「宮廷詩人であった唐代の詩人たちが、どうして反戦の詩を書けたのか」という意味のことを書いた。「宮廷詩人だった」というのは、杜甫の「飲中八仙歌」中で、李白などが酒を飲んで宮廷に召されても酔っ払っていたということだけで、そう思い込んでいたのであった。まことに恥ずかしい。
杜甫・李白・白楽天など、科挙試験に合格した秀才であったかも知れないが、一時は宮廷に仕えても、それに収まりきらない。失脚もし、放浪もする。酒を飲み、反戦の詩が生まれたのであろう。(どちらが先かは知らない)
もう一つ恥ずかしい間違いを告白しておくと、李白の「長干行」
「門前の遅行の跡、
 一一 緑苔を生ず。
 苔深くして掃うこと能わず、」
について
「夫は若妻をのこして兵役に行くのがつらくて、門前で行ったりきたりする。」と書いたが、この夫は、遠方へいったが兵役というわけではなさそうだ。  
一知半解で、書き散らしたのを恥ずかしく思っていたが、楊貴妃のおかげで、ここにお詫びすることができた。

     (五)

ところで、今回の「友好の旅」でもお酒を飲んだ。まずビールを頼むが、そのあとはたいてい紹興酒。50度のリキュールがサービスでついていることもある。
しかし、「李白一斗詩百編」「斗酒比隣を集む」の酒。陶淵明が、家族は別のものをつくってくれというが、粟をつくって酒にし、「いざ帰りなん」と故郷の我が家に帰って、壷に満ちた酒を頭巾で絞って飲んだという酒は、度数が低い醸造酒であった。私は、老酒の色から、茶色い酒だと想像していた。ところが白楽天の「間劉十九」という詩は「緑蟻 新賠の酒」で始まる。緑色で蟻のように泡だっている。
日中友好協会で、「唐代の酒と詩を味わう旅」を企画したら大当たりすると思う。そのためには、海南で藤白墨を復活したり、各地で古代の赤米を栽培しているように、緑色の唐代の酒を復活しなくてはなるまい。

  二〇一一年十一月 

雑賀 光夫
(日中友好協会和歌山県連合会副会長)

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by saikamituo | 2011-11-13 20:45