雑賀光夫の徒然草

saikamituo.exblog.jp
ブログトップ

和歌山県勤評闘争少史

本稿は長く私のパソコン・ハードディスクに眠っていたものである。執筆者は私が尊敬する田辺在住だったI先生だと思う。

ある日、I先生は「まあ読んでくれ」といった調子で私に原稿を手渡された。面白かったので、私は和教組のアルバイト書記の方に「ワープロの練習のつもりで打ってよ」とお願いした。それがこの論考であろうかと思われる。


和歌山県勤務評定反対闘争小史

序章  勤評への布石

1、強まる国家統制

一九五三年一〇月二日、MSA協定をめぐる池田=ロバートソン会談議定書は「日本国民の防衛に対する責任感を増大させるために・・・・日本政府は教育および広報によって、日本に愛国心と自衛のための自発的精神が成長するような空気を助長することに第一の責任を負こととし、そのための議事録には、「アメリカの急速な再軍備のための要求にこたえるためには、日本は、以下四つの制約を克服しなければならない。即ち、①平和憲法をもっているという法律的制約 ②貧乏という経済的制約 ③日本人は、いかなることがあっても武器をとってはならぬと教育してきた社会的・政治的制約 ④共産主義が相当浸透し徴兵制は不可能と言う実際的制約」を銘記していた。

以後・わが国の政治は、この4つの制約を克服することに力を注いで来た。経済的制約には「所得倍増論」で幻想をふりまき、社会的政治的制約については、偏向教育というどう喝や日教組攻撃によって教育の反動化を推進してきた。もっとも日教組攻撃は、とりわけ国政選挙において日教組出身や推薦の議員を数多く当選させてきたことから保守派議員に日教組憎しの感を持たせ、政治活動禁止の攻撃を執ように受けてきたが、MSA協定以後は教育内容に関わる偏向教育攻撃がきびしくなっていた。

再軍備について代表的なものを六つばかりあげてみます。学級の問題としてどれが正しいのか考えましょう。

「① 日本にしっかりした軍隊がなければ、いつソ連や中国がせめて来るかもしれない。

② 強い軍隊があれば外国からせめてこない。③今の世界のありさまからみて、ソ連や中共は日本にせめて来るはずがない。だから、軍隊をつくる必要がない。

④今軍隊を作ればアメリカに利用される。アメリカについて戦争すれば、日本はまためちゃくちゃにされてしまう。だから軍隊はない方がよい。

⑤軍隊を作るには多つの費用がいる。軍隊を作る金があれば、貧乏で困っている国民の生活をよくするのにまわした方がよい。

⑥国と国との問題は戦争で解決しようとせずに、どこまでも話し合い(外交)で解決することができるはずだ。

などですが、あなたはどれに賛成しますか。」

この文が山口県教委・岩国市教委が偏向教育として取り上げた「山口日記帳事件」(五三年六月)であった。山口県教祖編集の日記帳にあったこの文章を「ややもすれば特栄政党の政治的主張を移して、児童・生徒の脳裏に印しようとするごとき事例」として槍玉にあげ「教育の中立」を喧伝した。これだけではない。山口日記帳の二カ月後、「いまのおとなは、ばかだ/せんそうするからだ云々」という詩をのせた「青森日記帳事件」(五三年八月)あるいは、「少年朝日年鑑」にのった作文を収録した滋賀県の「冬休みの友事件」(五四年一月)などがそれである。そして、「教育の政治的中立」という耳ざわりのいい言葉を並べ立てながら「義務教育諸学校における政治的中立の確保に関する法律」という、いわゆる教育二法を国会に提出しようとしていた。(53年秋)

そして、それを正当化するために兵庫県などで警官を使って教員の思想調査を行なったり、「偏向教育二四の事例」を文部省が発表した。この事例は、一方では実在しない学校があるかと思えば、和歌山県西牟婁郡和深村和深第一小学校吉川薫雄教諭の社会科「働く」の実践もふくまれていた。和深村では、同校PTAが、吉川支持を決め、教育二法反対決議を上げた。県教委も「偏向教育でない」と県議会で答弁、和教組が正式見解を求めたのに対しても同様の態度を言明した。(五四年三月一三日)

「二十四の事例」のみならず教育二法案は人々の反感を買っただけだった。

「われわれは(五四年)二月一四日一堂に会し、今日の悪法それ自体悪法であるばかりでなく、憲法改正・再軍備への道をたどり、ますます植民地化を強行するものであることを確認し、民族の独立と離れることますます遠きであると信じ、絶対これに反対し、全村こぞって反対運動を展開することを決定しました。

日教組本部に和歌山県西牟婁郡朝来村長榎本操六以下、村会議長・教育委員長・PTA会長・婦人会長らの連盟の書簡も届いていた。

 二法案の審議が始まると、和歌山第二区選出の衆議院世耕弘一は「日教組は解散させられないか」という愚問をはっして、元内務官僚で、戦時中は昭南(シンガポール)市長をつとめた大達文相を喜ばせたりした。もっとも世耕は日教組にたいし、深い恨みをいだいていた。

五二年八月「抜き打ち解散」で狼狽した左派社会党は、全く準備もないまま、日教組中執辻原弘一を立候補させ、若干二八才、全国最年少で金的を射止めたが、世耕は、そのために苦杯をなめた。その差は僅少だったために、名前が弘市と弘一でもあったから、恥じをしのんで「弘一」裁判を行なうなど、日教組は不倶戴天の仇敵とも思っていたのである。

ともあれ、教育二法反対闘争で、全組合員が、給食抜きの抗議行動と、院内闘争に動員交渉を重ね合わせ、一定の修正をおこなわせていた。

しかし、法律は成立すると、それは活動を始める。まず、京都で旭ヶ丘中学校問題がおきた。五五年八月には民主党の「うれうべき教科書の問題」が世の注目をひき、五六年には「検定機関の官僚統制の強化、採択は、教委任命の採択委員による地域ごとの統一採択」を骨子とする「教科書法案」が国会に上程された。各界の反対も激しかった。和歌山県教委も、東京など一八都県と共に法案が通過すれば総辞職を決意していた。政府・自民党は、会期末が近ずくと一切の法案を犠牲にしても新教委法の成立を決め、六月二日、制服警官五〇〇名を参議院本会議場に導入、一四時間という混乱の中で成立させるという暴挙をやってのけた。

そうした中で教師たちは、再軍備への不吉な足音を震える思いできいていた。朝鮮戦争と共に発足した警察予備隊は、自衛隊に変貌していた。内灘をはじめ、和歌山県内でも大島軍事基地反対闘争が発展していた。五四年三月一日には、ビキニ環礁で第五福龍丸が被爆し、ほどなく久保山愛吉さんがなくなったりして、全国民に大きな衝撃を与えた。

二、和歌山県下での諸闘争の発展

こうした時期における和教組を中心とした動きをみておこう。

五二年の西川事件、五三年の七・一八水害闘争を通じて和教組は結成当初の校長組合的性格や民同系の影響を徐々に脱却していた。

といってもそれは至難の道程であった。死者・行方不明者をあわせて一〇〇〇名、物的被害が当時の価格で優に一〇〇億円をこえた七・一八水害に県下の民主団体は、民主団体水害対策委員会(民水対)を結成(七.二二)、救援と復興闘争にとりくんでいた。和教組も夏休みになるのを待ちかねて、有田・日高両川流域を始め各地で、和教組の旗をひるがえし、献身的な救援活動をすすめた。ところが、八月の県委員会の席上、日高支部が民水対に共産党が加わっていることを口実に、脱退を求めた。「救援にアカもシロもない」という反論に席を立つなどして、ついに民水対を脱退した。前年の西川事件でも共闘会議に参加せず、組合員の間にも疑議や不満の念を醸成していた。

総会に次ぐ決議機関。重要な闘争時には、拡大闘争委員会としてその任に当たることになっている。 けれども、教育反動化のうごきには厳しく対決しよう と努力してきた。

政府が日教組いじめを文教政策の基本としているかの様相を見せはじめると、和歌山県でも保守系議員がこれに追随した。五三年三月一二日、教員の政治活動を禁止するために教員を国家公務員とすることを意図した義務教育学校職員法案反対闘争の日、県議会では、丸山弘が「三、一二についての和教組の措置」を質問して嫌がらせをした、と思ったら三月一六日、下西岩吉が「学校教員21名が学校に席をおいたままで、組合の仕事や選挙運動を行なっている。こうしたヤミ専従者に賃金を払うのは違法」と県教委を追求した。

教育は「ヤミ専従者は一三名いるが三月異動で解決する」と見解を示した。が下西や丸山は「一三名のベースアップ分四五万円は支出が不当」として、51年度決算を承認しないという暴挙にでた。

この問題で、結成間もない和高教が教育長に「責任をとって辞職せよ」とせまり、教育長は「見解の相違」と突っぱねた。事実ヤミ専従者は前からの慣例であり、教委と和教組の紳士協定でもあった。

ところで和高教であるが、高校教師の間では、日教組結成以来全国的に賃金問題で不満がくすぶっていた。というのは、高校教師には旧制中学から引きつづき教壇に立つ人が多く、中等教員免許状を所持する者と、小中学校の小学校本科正教員免許状所持者では学歴が異なるから、小中教員と賃金格差を設けよという給与三本だてを主張し、保守政党と結んで日教組を離れ全高教を結成していたのである。

和歌山県下でも、教育長村上五郎が初代校長をつとめた田辺高校や南部高校から脱退者がで、五一年七月三日、和教組高校部会で全員が和教組脱退、和高教結成(初代委員長松野三郎桐陰高校長)へと進んだもので、ヤミ専従問題の頃は和教組の第二組合的存在でもあったから教育長への抗議となったのであろう。これだけではなく反共連盟を名乗る団体は県教委・教育長・和教組を背任・業務上横領で告訴していた、が県教委は、和教組との間で解決をはかるとし、最終的には四九五万円を和教組ヶ返済することで決着をみた。(五三年一一月)公選制教委の主体性と教育長村上五郎の良識がこうした解決をはかったのであろう。

このような攻撃のなかで和教組組合員の間にはMSA協定以後の再軍備の気配をひしひしと感じてい足。大島基地反対闘争(五三年)や原水禁運動、教育二法反対闘争と息つく暇もなかった。和教組はこうしたたたかいを通じて父母と共にたたかうことを執ように追求して来たが第一一回定期大会(五五・二・五~六白浜)は、「職場の要求、職場闘争を基礎にして国民との統一行動(町ぐるみ・村ぐるみ)をすすめることがたたかいの基礎であり、国民教育運動の展開の基本」だとした。これは前年七月、第五回総評大会で高野実が太田薫と争って事務局長に就任したことも背景にあったが、和教組は、その前年の大会では居住地における父母労働者との居住地会議も提唱していたが、それなりの理由はあったのであろう。

 即ち四九・五〇両年にわたるシャウプ使節団による税制勧告は地方財政を極度に圧迫しはじめていた。加えて和歌山県では五三年七月一八日の有田・日高両河川を軸に全県にわたる豪雨が戦中戦後を通じて荒廃させていた山林の深い傷後が大水害となって、死者・行方不明者をあわせて一〇〇〇名を越え、物的損害も当時の金額で100億円を越える大災害となり、その復旧のため県財政は窮乏のどん底に落ち込んでいた。

五四年度特別交付税について八億を予想していたところ、四分の一の二億そこそこで、五四年度決算は二億の赤字、五五年五億、五六年一六億と雪だるま式にふくれ上がり、財政再建団体転落一歩手前となっていた。

 小野県政はその責任を労働者に転嫁した。彼は最初の知事選で官選知事との決戦投票で事実上和教組に支持を受けて初の民選知事になっていたが三選をはたした頃になると、初めて知事になった頃のことは忘れていた。もっとも和教組の側でも、それだけ階級的に成長していたことも事実であった。

 特別交付税が二億に決まった翌日、知事査定は教育費二割り削減という大なたをふるった。 さて、給与三本だてで分裂した和高教、分裂に力を貸した人々は別として、多くの組合員は、必ずしも和教組脱退を快しとしていなかった。あるいは、御用組合的存在となることを認めていなかった。和教組とは高校入試や賃金体系の問題ではしっくり行かなかったが、教育の反動化がすすめられていることや、賃上げ闘争などでは、両教組ともその要求は実現しにくくなっていた。そして和高教内部でも日高高校長問題をめぐって松野執行部退陣(五三年六月)や、新宮高校「わだつみかい」問題、高校総務任命制問題などの問題を通じて第二組合的性格を克服していった。

2、責善教育の展開

二・一一ストを機に「教員組合運動の主軸として責善の大運動を展開」することとなった和教組は曲折の末、第五回大会(五〇年二月)に、国民運動として展開すべきだと県教委にその責任を移管した。更に第七回大会(五二年二月)では「封建的差別意識払拭への教育活動」(広義)から「部落民として差別する意識払拭への教育活動」(狭義)かの論議のすえ、小委員会での決定を覆して、本会議で執行部提案の広義説をわずか二票差で決定するなど、その方向を模索していた。

しかし、五一年五月「部落は実在する。」と力説した北原講演や、第七回解放委員会方針、そして直接的には西川事件闘争や七・一八水害復興闘争を通じて、その観念性を脱却して行った。それだけではなしに御坊や庄などの解放運動の進展が、責善教育の観念性を大きく突き崩していた。

他方朝鮮戦争前後から県下各地で民間教育運動の機運が強まり歴史教育協議会や生活綴り方運動が展開され始め、中でも、「日本綴り方の会和歌山県では第一号の会員」という藤田土与や真鍋清兵衛・佐藤昭三の四人で結成された『教師の友』紀南グループから発展させた紀南作文教育協議会(紀南作教)は、責善教育推進の上で大きな役割を果たしていた。 

一方西川事件や七・一八水害復興闘争を通じて多くの組合員も部落問題の本質をつかみはじめていた。和教組も朝来を始め切目・杭の瀬・打田などでフィールドワークを行ない部落問題を科学的にとらえようとしていた。部落の子供たちの置かれている差別の実体、長欠・不就学、教科書や学用品の不足、学力不振・劣悪な健康状態・衛生状況・暴力・野荒し等の非行、就職・進学時の機会不均等、結婚問題等の苦悩、どのひとつをとって見ても厳しい差別の現実であった。

ぼく学校へ行きとうてしょうない。そやけどとうちゃんが七年も病気で寝てるから「行きたい」ていうてもあかん。ぼく、にいちゃんとガンビひきに行く。そのガンビはお札になるんやて。ぼく、ガンビひくとき、いつも不思議になってくる。ぼくは学校やすんでまで、毎日毎日こんなに働いても、貧乏でどうにもならんのに、世間には、ええ家で暮らしている人もあるし、自動車でゴルフに行きはる人もある。そんな人等はみんな札もっている。ガンビひきせんでも、そのガンビで作ったお札を持っている。その反対にガンビ引きする僕と兄ちゃんは、そのお札がもてへん。

差別の現実を深く見つめさせ、そこから差別にも貧乏にもいじけず、ふまれても抵抗して行く強い人間を育てるという生活綴り方の実践は、他の民間教育運動の実践とあいまって五五年一月、和歌山市で開かれた全同教第四会大会において、同和教育の具体的実践の方向を切り開いた。全同教大会のみならず、その成果は第四次教研の頃からようやく職場に定着してきた教研活動や、県教委と共催で行なわれてきた責善教育研究集会(ワークショップ)等に反映して責善教育を実り豊かなものとしてきた。けれども、五五年一二月、湯浅町で開かれたワークショップが「父母・子供の願いに応える教育」をめざして緊張感や恐怖感を持たない責善教育をめざし、すべての教師がとりくめることを強調したあまり、実践報告は文字どうり緊張感から解放されたのか、部落問題の視点が欠落し、「民主教育一般への解消」が大きな問題となった。

他方では、警官を議場に導入した中で強行成立された新教委法にもとづく任命制教委発足間近かという情勢もあった。和教組は「だれでもとりくめる責善教育を作り上げよう」という方針を明らかにした。(五六年九月)

この方針はまず「考えかた、ちがいや立場をこえた一致した親の要求」とともに、部落の親や子は「差別と貧乏から解放されたいという人間としてのぎりぎりの要求をもっている」とし、責善教育は一〇年の歴史のなかでこの要求のうえにたってすすめられてきたのであったが「具体的なすすめ方のうえでは多くの混乱がある」ことを明らかにし、責善教育国民教育に基礎をおいた部落解放の教育」として展開されるべきことを示した。そして、まさしく「誰でもとりくめるもの」として

一人ひとりの子どもを喜んで学校へ来させるために

  子どもに真実を教えるために

教育内容と子どもの自発性を結びつけるために

子どもと子ども、子どもと教師のつながりを深めるため  に

教師と教師、教師と父母のつながりを深めるために

(未解放部落を含む地域で特に強化されるべき活動)

未解放部落の子どもの教育を高めよう

未解放部落と一般の地域の生活のちがいや共通した問題  を見出そう

未解放部落内部の民主化と統一を進めよう

  という八節五二項目の「責善教育の課題(研究テーマ例)」  を提起した。

共同闘争の前進

「誰でもとり組める責善教育」のもうひとつの背景は、全県的な解放運動と労働者農民の生活要求にもとずく運動の結合の前進があった。本宮における村民連、朝来の供米闘争、失業者同盟や仕事よこせ運動等々が解同支部を中軸に進んでいた。と同時に「二〇件にもあまる差別事件がヒンピンとして起こっていた」状況もあった。

日置小学校、串本町有田小学校、御坊市小竹八幡宮祭礼事象、湯浅町服部、横田事象、海草郡紀伊村議差別発言、時期的には少しずれるが有田郡五稜病院、湯浅小学校、日高農地事務所、日高土木事務所等々であり、それらの多くが共闘会議によって糾明され解決されていた。日高の場合は実に二二者共闘に達していた。

これらの差別事件闘争のなかで大きな闘となって発展したものに日置差別裁判闘争があった。

五〇年一一月九日、差別発言を抗議したところ再び差別を発言したことに激昂した日置町坂本部落の青年たちが差別者を殴打した。が暴力について反省をして駐在所に自首して出たところ起訴され、やがて田辺簡裁で略式による罰金刑に処せられた。青年たちはこれを不満として正式裁判を申し立てるとともに解同中央の指導のもとに「日置差別裁判事件糾弾闘争委員会」を発足させ、県下各地で部落総決起大会や民主団体による現地調査などを含む激しい抗議運動を展開していた。

田辺地裁支部でその正式裁判が始まる日、解同は民主団体と共に日置差別裁判部落総決起集会を開催、西牟婁地方教育局栃崎博孝責善教育担当主事が抗議文を読み上げた。

責善教育担当主事というのは前に和教組が県教委に責善教育を移管した際、責善教育部長松本新一郎を県教委学校教育課に入れ責善教育を担当させ、以下各地方教育局にも同様配置したもので各郡市の責善教育推進の中心的役割をはたしていた。

ところで栃崎の行動が県教育委員会で問題となった。任命制教委として最初の会議で、問題としたのは田辺市出身で県会議員もつとめた経験をもつ小山周次郎であった。教育長は「公務員としては行き過ぎ」と答弁した。かつてヤミ専を始め種々の局面で良識を示した村上五郎は任命制教委のもとではこう答えざるを得なかったのであろう。責担主事会はこれに反発した。松本が「差別をなくするための責担主事が差別をなくする会で抗議文を読んで何故悪い」と追及すると社教会長が「国体で旗をもつのはいゝが、解同が全県民の支持がないから悪い」と答え、問題は更に大きくなった。解同県連は和教組・和高教・教育庁職組・県職との五者で県教委交渉を行い、その差別性を追及、県教委は庁内民主化としてこれをうけとめ、一一日間にわたって相互批判、自己批判を重ねた。

杉山、しかしすごかったですね。たとえば給仕さんが主事に対して、「あんたはタバコを買いに行かすが、公用と私用をいっしょにしてるやないか」と批判する。そして最後は差別していたの、いなかったのかというところまで自己批判と相互批判をするわけです。「差別していました」というと、こっち側にすわれといって民衆の座にすわらしてくれる。そして今度は主任が係長にあんたはいついつああした、こうしたとまじめに平素いえなかった批判を行う。こうして係長が課長に、課長が次長と、そういうふうにしてしまいには村上教育長にとどくのに一一日かかったわけです。

村上、(それは)やっぱり教育庁全体の機構の中では、ある種の民主的な役割を果たしたわけです。それは責善教育を狭い意味だけで考えないで、それから来るいろんな問題の考え方を深める意味があったわけです。私自身の立場というものももちろん含んでいたと思います。しかしそれがあとに何を残したかということになると極めて問題は大きいと思うんですけどね。

文化大革命を思い起こすような話であるが当時の考え方を知るには面白い。ともかくこうした差別事件闘争を通じても共闘の形成が追求されていた。

和歌山における勤評闘争の特色のひとつは七者共闘にあったが、その基盤はこうした闘争で絶えず共同闘争の展開が行われていたことが大きな力となったことはいうまでもなかった。

圧迫される教育財政 

和教組が共同闘争の中核となるのは少なくとも五三年頃からではなかったろうか。というのは共同闘争へは参加しても民同系の反共ムードで西川事件にも、水害復興闘争にも参加しなかった。しかし地方財政の窮乏化に伴い定期昇給すら完全に実施されなくなると少なくとも県関係職員の共同闘争は不可避であった。もちろんそうした事情だけではなくて西川事件等の共同闘争不参加などが逆に組合員の階級意識を育てたいといえよう。 ともあれ賃金闘争で県関係の共闘を組んだのは『和教組二〇年史年表』によれば五二年六月一八日「和教組、和高教、教育庁職組、県職夏期手当を要求して共闘」と初めて出てくる。以後四者共闘は曲折がある。たとえば「ヤミ専」問題のときは高教組が共闘に参加しなかった。和教組は無署名の〓文書で、ヤミ専問題は、高教組脱退の主役だった某が、その力を失って来たので、勢力挽回のために一部の県会議員と結んでうち上げたものだという情報を職場に流していたりしたのでこの時期に共闘に参加することはお互いに許されなかった。

それにしても地方財政は全国的に窮迫してきた。和教組では例えば「一〇月一日付け昇給を闘いとろう」(昭三〇・九・一九、指示第六号)というような指示を出さねばならぬほど定期昇給すら見送られるほどの状況であり、名目的に昇給しても、三カ月とか六カ月間の昇給分を県に寄付という名目で支給されないこともあった。

あるいは五五年一二月、四者共闘の年末要求の機先を制して教職員の昇格昇給予算の査定を見送った。和教組・和高教に昇給予算を見送ったのは巧妙かつ悪質な手段であった。 この時期県当局は四者共闘に対し、県職と教育関係三者を切り離すことが再三あなって、四者共闘といえば不信の種となるようなことも少なくなかったがそれでも四者共闘が組織されていた。

五六年一月、県との団交で総務部長は一月以降の定期昇給は困難であり、人員整理も検討中だと答えた。新年度予算の財政課査定は県教委の要求教員定数を大幅に下回り、高教授業料引き上げも含まれていた。四者共闘は教育の危機として二月二八日県議会開会日に、「地方交付税率引き上げ、学級定数五三人確保、高校授業料値上げ反対、地方教育局を守れ」と地方自治と教育を守る総決起集会を開催、一五〇〇名が参加した。それでも県議会は「財政再建」のため「人件費圧縮、単独事業縮小、経常経費縮減」等を骨子に「前年度予算に比し一九億三〇〇〇万円減」で「人件費については……昇格延伸、互助会補助圧縮」等を知事が説明した。小学校一学級の定員は五五人で、四月の異動期に新規採用された和大卒業生は僅か二一人という有様であった。

それでも事態は好転しなかった。九月議会に先立つ全員協議会で当局は、予算をその侭執行すると一四億の赤字になると説明、諸経費三割削減を指示した。四者共闘は知事部局県教委と団交の結果、県教委は三割削減は反対だが予算権がないとし、総務部長は削減案撤回はしないと答えた。そして打ち出されたのが出張旅費削減であった。

そのころ朝来中学校は「誰でもとり組める責善教育方針」の具体化をはかるため県教委の責善教育研究指定校となり、その発表会(責善教育ワークショップ)を一一月三〇日~一二月一日の両日に予定していた。共闘側は旅費問題が解決しないのでその前々日に参加拒否を県下の各学校に指令した。指令は整然と守られた。       

研究会延期 一一月三〇日、本日及び明日の二日間開催予定の県教委委託責善教育研究発表会は教員の旅費削減反対闘争の出張拒否にあい延期となる。教育長村上五郎氏並びに教育委員西川、栗栖、萩野氏等と本校職員と懇談をなす。

 同校『沿革史』は淡々と述べているが打撃は大きかった。

和教組は引き続き年末手当二カ月要求を掲げて一二月五日午後二時授業打ち切り、県下四〇会場で総決起集会を開催し、県教委との団交を進めた。

そして三割削減解除と五七年度当初予算の教育費へのしわよせ排除の回答をひき出し、出張拒否闘争を解いた。

責善教育研究会(五七年)一月一八日一九日、県教委・町教委・和教組並びに本校共催の責善教育研究会開催、参会者一千名にのぼる多数のため第一日午後より会場を熊野高校にうつす。 第一日 研究授業と話し合い、講演上田一雄氏

 第二日 実践報告、講演金子欣也氏

朝来中学校『沿革史』はこれも淡々と述べているが全職員は大きな仕事の成功に心がはずんでいた。彼らは二週間後の雪の金沢市で開かれた第六次教研集会に全職員が研究会の慰労を兼ねて参加した。なお、第一日目の講演のあと、すでに県教委が発表していた「責善教育指導方針案」について協議が行われた。これは同方針案の最初の大衆討議であった。

 ところで朝来中学の研究会の拒否闘争や、主催者も予測し得ない程の大量参加も和教組の力量を見せつけた集会であった。と同時に県教委移管や広義狭義の論争などを繰り返しながらも責善教育を教員組合運動の一環として位置づけ、自主的民主的な発展を積み上げて来た成果でもあった。それだけに朝来中学校の実践は「誰にでも……」方針案、更に県教委の「責善教育指導方針案」とならんでこの時期の到達点を示すものであった。 ところで、拒否闘争などは和教組の力の勝利だったと述べた。が、その背景には勤評闘争における七者共闘への伏線としての重要な動きがあった。

解同県連は一一月一九日県連役員・県委員に次の文書を送っている。

緊 急 招 請 状

「四者共闘委」同盟の申し入れを受諾/対県交渉の火ぶたを切る差別行政撤廃要求闘争はいよいよ積極的に展開されつつある。さきにわれわれは民主勢力に対し共闘を申し入れたが、この内四者(両教組、教育庁、県庁職組)は既に具体的なスケジュールをたて、共闘を受諾する旨、本日の共闘準備会席上(解放同盟代表も参加)でその回答が伝えられた。 (略)

そして、一一月一三日午前中同盟県連の県委員会(拡大)と午後五者共闘による「第一回団体交渉」を県教委と持ったのである。

ところで前掲の文書で、民主勢力に共闘を申し入れ、四者が妥諾したという点に説明を加えた方がよい、と思うのは、四者共闘が史料的に初めてみえるのは、五二年六月だと前述した。がそれは恒常的な組織でなくて、その都度組織されていたもので、この場合は、和歌山県地方労働組合評議会(以下地評)にも恐らく共闘申し入れを行い、四者の回答を得た時点で五者共闘として発足させたのである。

なお後述する二月一九日付の声明には地評の名も見えるので、県地評も後日共闘に参加して六者共闘(の名称が使われたかどうかは定かでない)となっていた。解同県連がなぜ中心となって教育予算三割削減の反対闘争の共闘を呼びかけたのか、という点であるが、ひとつには両教組や教育庁職組の活動家に解同県連の執行委員や県委員が多かった、という側面もあった。がそれよりも教育予算三割削減を認めることは「容易ならざる事態」と知事が議会で発言しながら提案した五七年予算を認めることになり、地方改善事業も圧縮されることにととらえ「財政再建」予算をつき崩して「部落解放行政」を樹立させる行政闘争でなければならなかったのである。

それだけではなくて、県教育委員小山周次郎が、自身の経営する新聞紙上に「なぜ出ない真の声/万人納得する対処策を/逆効果の反動恐る」という見出しで責善教育批判、解放運動批判を展開し、解同を刺激していた。(五五,二,一三)ところがこともあろうに田辺市人権擁護連盟が五者共闘結成の四日後に、田辺市人権擁護連盟は……従来しばしば行われて来た糾弾方式による不当な圧迫行為を排し、且つ殊更に部落問題を特殊化する弊害を叫び続けて来たのであります。たとえば左記の批判文も又田辺市人権擁護連盟が絶えず意図して来たところとき軌を一にするものであります。しかるに本年一一月一三日五者共闘委員会と称する解散同盟、教育庁職組、和教組、高教組、県職組は起草者である小山周次郎氏をその批判文を以って断定したのであります。かかる一方的判断を以って小山氏を差別者として断定したことは誠に遺憾という前文と、小山の批判文を全文収録したビラを県下各地に配布したのである。

解同県連はこの思わぬ伏兵に驚いて、直ちに反撃に出た。とりわけ朝来支部は、以前日置差別裁判事件部落総決起大会での小山に対する腹立ちもあったし、あるいは「朝来問題」で人民裁判的な大衆討議が行われたが「部落解放運動にプラスになっていない」と書かれたことにも憤っていた。

(県教育委員小山周次郎氏は)差別からの解放を叫ぶ私たち部落民かユスリか暴力団のように取り扱い、当然の要求にもとずく部落解放同盟の運動を何か社会より受け入れられない悪いことをしているとしか一般に受け取られないようなドギツイ悪宣伝をしています。これだけでも許すことが出来ないにもかかわらず、彼は、教育の中から、長年に亘る差別によって長欠や不就学や教科書、学用品が満足にもてない事から勉強も十分出来ないことに悩んでいる私達の子供達の幸福や権利を守り、差別を取り除く真の意味の責善教育を抹殺しようとしています。彼は″差別される側の者が責善教育の指導をする事がいけない″と言って、本当に私達の立場に立って責善教育をすすめていこうとする栃崎君を指導の立場から追い出そうと企みました。(中略)私達はこの事について一一月一三日、県教育委員会と団体交渉をもち抗議をしましたが、小山氏を除く他の4人の教育委員は皆小山氏がこれまでわれわれに対して取って来た憎むべき数々の行為が差別であることを大勢の人の前で認めています。(略)」という声明と共に「失業対策のための事業をすること」等一〇項目の要求を町と町教委に提出した。串本町和部下支部では、同様町当局に「部落問題をどの様に考えているか」「現実に差別があると思うか」等の質問状を送るなど県下各支部では抗議・要求行動がすすめられていた。

ところで一一月一三日の県委員会で、一二月県会にむけての対県闘争体制の確立を図り行政要求闘争を大胆に組織すること、教員組合が三割削減反対だけで闘うのではなく解同との相互の利害関係の上に共同闘争を発展させるべきだと結論ずけていた。 午後の団交では、差別事件の瀕発する原因とそれを除去する方策、小山委員の差別性をとりあげ、小山を除く他の委員は「小山氏の差別性を認め相互研修の中で反省を求める」と回答した。

二〇日に引き続き二度目の団交の席上、①(小山委員の差別性を認めるなら)一一月三〇日の朝来中学校の研究会に県教委は全員出席し、地元で話合え ②前日以後の経過報告をせよ ③小山氏の差別性と田辺市人権擁護連盟の挑戦的態度と責善教育方針について追及した。〓については小山・室谷両委員以外は県教委として出席する 〓に関連して西川教育委員長は前回「小山委員の差別性を認めたのは軽率」と前回答弁を否定し、小山委員も「私は田辺市人権擁護連盟に呼ばれ事情を説明した。連盟の文書は悪いと思わぬ。また前回の交渉で他の委員は自信のない認め方をしている」と結局前回の答弁を全く否定してしまって物別れとなったのである。事態は進展せず結局和教組は出張旅費問題で朝来中への出張拒否闘争を組んだのである。そしてその夜朝来妙道寺で県教委との団交となった。こうした背景があったから和教組も思い切って拒否闘争に突入出来たのである。そして朝来中学校も又その困難な局面を堪えることができたのである。そこには「誰でもできる」ことを目指した実践を通じて、とりわけ部落の親たちとのむすびつきも、深まっていたからできたことであった。

朝来での団交で一二月一日で県教委は不味研究会を流会させた責任を詫びた。そして「部落の低位性は観念的に理解していても、朝来で実態を見て責善教育もこの実態の上に立つべきだ」等とは答えながら、小山委員の問題は物別れに終わった。

県連は一二月県会を行政要求闘争で闘い抜くとし、〓最近頻発する差別事件は解放行政が正しく行われないからだ。〓差別によって奪われた市民的権利の保障と〓必要な行政施策を行え、と二七項目の当面の要求をかかげた請願を県議会に提出した。最終日、前日の厚生委員会で採択を決めていたのに本会議で内容が多岐にわたるから継続審査としてしまった。

二月県会が近ずくにつれて当初予算案の内和教組はかつてないきびしさとして春闘方針をうち出し、組織の団結と父母との統一のうえに全県的な統一行動を組織しようとした。最大会派新政クラブと交渉を持ちながら、まだ採択させられるかどうか定かでなかった。 二月一六日、和教組は第一三回定期大会を開催した。たまたま知事査定の日であった。教育三者は団交を重ねながら教育予算獲得の努力を続けたが、学級定数は五五名で落ち着き小学校一三一、中学校五六学級の減となった(和教組調べ)解同の要求していた子ども会関係予算も殆どが査定されなかった。

そんなとき、突如として同盟員でもあり、和教組、教育庁職組組合員でもある北条力や栃崎などを含めた教育三者が県庁前付近でハンストに突入した。大会中の和教組も困惑したが、解決のメドもつかないので一九日午後五時から地評を含む六者で抗議と決起の集会を開いて八四時間のハンストを解除した。この間知事は強気で、ハンスト中は絶対団交に応じないと拒否した。

われわれは事の重大性と余りにも知事の無理解な態応に対し徹底的な反撃を加えるべく組織の確立を図り、更に広汎な地域の中にこの闘の核をつくる事を決意し、県教育委員会の行動と良識を信じて云々

という事実上敗北の声明を出した。ハンストの後遺症は後述するが、解同は請願をどうにか採択させていた。

ハンストに突入したその日、佐賀県教組は、歯を食いしばって赤字財政を理由に教員の定員削減(三二年度、二五九名)や定期昇級昇格のカラ手形という危機的状況をはねかえすために、三三四割休暇闘争を打ち抜いていた。

池田・勤評〓

六 生活綴り方的、あまりにも生活綴り方的

 五七年六月五日から四日間、和歌山市民会館で第一五回日教組大会が開催された。いまほど右翼の妨害もなく、むしろ歓迎ムードであった。西牟婁支部は「全国から参集する五〇〇〇人の代議員、停職者(傍聴)をあたたかくむかえること」と「観光白浜にたくさんの方がおいでることと思われるので十分関心を払いたい」と組合員に訴えた。

ところがこの大会の二カ月前には愛媛県で勤評提出を拒否した校長三四名が減給処分をうけていたし、佐賀県でも児童生徒七〇〇名増に対し教師は二五九名減で三三四割休暇闘争を打ったために役員一一名が停職をうけていた。和歌山でもハンストを打ったが結局はは敗北し、和教組の職場では、県民へのアピールか県に対する力なのか不明確で撤収にしても 昧で職場への動揺を示した、と批判されている有様であった。

もっとも解同の側では、請願書を採択させねばならないのに、県下各支部の動きが鈍いために、同盟員を奮起させることを目的として北条(和教組)栃崎(教育庁)らがハンストに突っ込んだもので県連本部は、闘争指令第一号を出し、「北条、栃崎解放教育予算獲得のためハンスト突入」として「実力闘争を準備突入せよ」と通知したが、ここでは戦術の具体的なものはなっかた。

そうした状勢に対し、大会方針は賃金闘争に重点を置いて、勤評については唯一行「勤務評定の制定に反対する」とあるだけであった。そして大会論議も賃金闘争に力点が置かれていた。各県とも地方財政は窮乏しきっていたからそこに討論が集中するのも致し方なかった。その方針はしかし、教師は教育労働者、教育という特殊な職業をもつ労働者集団という。″教師的″発想が根幹にあった。

われわれは一九五七年の運動の重点を父母や大衆や、国民の願いにこたえて、教育の充実と、教育水準の向上、教職員の賃金向得と権利確保におく。このため総ての学校職場でよりよく教育活動を営むことができる定員の確保、学級規模の改善、校舎施設、設備の拡充整備を含む教育予算の大巾増額を、父母大衆と提携しつつ、市町村・県・政府に要求する運動を展開する。このこととともに教育を高めその自首性をささえるに足る教職員の賃金並びにその身分の保障と権利の確保をめざして闘う。

和教組はこの方針が気にいらなかった。″よむに堪えない方針″とし 西牟婁支部でも「思い切った日教組批判をしよう。運動方針書を一つひとつ検討すると言うことでなしに……プリントにして四〇枚に及ぶもので、これを読むには大変な苦労と思いますのでフト思いついた様なことでもと言う気持ちで率直な批判」を「広く父母の批判も出して行く」 えということを組合い員に流していた。乱暴な話である。方針を読まずとも思い切った批判をしろというのだから、される日教組の側は大変である。

大会では北条力が和教組修正案をもって登壇した。北条は勤評闘争時には和教組書記長として登場するので少し紹介をしておこう。

 彼は敗戦も間近いころ母校の朝来小学校の代用教員になり、戦後もずっとそこに勤務、村の青年団活動等にも従事していた。若いけれども政治的な力量もあり、独特の人なつこい人柄もあって村内では早くからその存在を認められていた。四八~四九年ごろには共産党に入党したようである。そうしたこともあって教員組合活動にも関心を示し支部役員に立候補するがまだ校長組合的な和教組であったから、その役職はすべて落選していた。例えば五〇年度役員選挙で書記長に立候補、決戦投票で落選、続いて書記次長で一位となるが法定得票に達せず決戦投票では大差で落選、更に執行委員に出てこれまた次点落選という体たらくであった。五一年は執行委員に出たがここでも落選、五二年、漸やくこのことで書記次長の席を手に入れたのである。後年、県議選に打って出てここでも三度目の正直で栄冠をえにしたのと似ていたのは余談だが、その一週間後に御坊町で開かれた西川事件確認会で議長をつとめその弁舌と議事の処理が一役彼を全権的な舞台に引き上げることとなった。翌五三年から五七年んまで西牟婁支部書記長、五八年四月には勤評闘争で波乱が予想されるなかを書記長に就任した。さて大会で修正案を提案した彼は「方針の職場討論が深まらないのは、学校を忘れた中執によって原案がつくられているからだ。父母は『敵』はという言葉をつかえるほど意識の高い先生をのぞむだろうか。子どもの頭をなぜるやさしい先生、このことを忘れては日教組への支持はなくなる」と弁じた。彼がこうした趣旨の発言をしたのは初めてではない。

 第一三回大会(昭五五・五、松江市)でも、「メーデーの行進でも労働歌では組合員はついてこない。″どんぐりころころ″をやったら元気になった。私は地域の野球連盟会長だ。これが青年を中心に地域の人との結びつきを強めている」と発言している。「ぐるみ闘争」を提起した高野実の総評の運動の方向も感じられるし、六全協前後の共産党の大衆路線でもあったかも知れぬ。だがそうした政治論議ではなくて、当時の和教組のもっていた生活綴方的発想、北条もメンバーの一員であった紀南作教的発想が強かったといってよかろう。別のいい方をすれば第四回全同教大会で同和教育の方向をきりひらいたとされる民間教育運動の成果は、和教組の運動にも大きく影響していた。そうした点はたとえば和教組第一二回大会(五六・二・一八~一九)方針にも感じられるが、それを示すもっとも典型的な例を、北条の″作文″にみよう。余談だが方針を読まなくとも徹底的に批判をと述べたのは、北条が書記長をつとめている西牟婁支部であり読むに堪えない方針も彼の主張が底にあったに違いない。

少々長い引用になるが、この一文を何に発表したかを考えながら読んでいただきたい。尚無署名だが北条の文であることは絶対間違いない

=入学式と父母=

秋の運動会でお土産競争をして以来は「もう半年したら」「もう三カ月したら」という気持ちで自分の子供の入学を迎え、入学の前になるとランドセル、服、クツ、筆入れ……などと入学に必要な学用品を指折り数えてたしかめているのが入学一週間前の父母の家庭だと思います。

さて入学式ともなれば一人として親のつきそっていない子はありません。そしてぼそぼそと話し合われていることは受け持ちの先生のことです。学校につれてくるまで、たべること、便所へ行くこと、服を起ることだけで家内中かかって送り出してくるような始末であるので、どの親も思うことは、いたいけないこの子を預かってくれる先生は「やさしい先生か」と言うことだけです。

 このときの気持ちには進歩的とか前進的とか言う気持ちは毛頭ありません。

=初めての参観日=

一年から六年までのうちの半分以上が一年生の教室にあつまっているし、期待に満ちた輝きのまなこで先生の授業をみている。そのまなこの中には人知れぬ期待がそれぞれにもたれていることです。

△どの親も身うごき一つしないで先生と子供の様子を見守っていることです。

△私は子供を入学させて初めて授業を参観しました。

 私たちは[夫婦]二人とも教師で他の父兄から「先生とこの子供さんは」とおせじを言われて内心よろこんでおったのですが、子供は一時間中一回も手を上げなかったのです。私は私なりに子どもの力を知っておって先生が出された問題はかんたんにできると思っていましたし、他の子供のほとんどが手を上げているのに自分の子供が手を上げない様子をみて全くわきの下に汗を感じました。この気持ちがすべての父母の気持ちではないでしょうか。私はもし自分の子供がほんとに実力がなくなって手をよう上げないとしたら、次の参観日には出席をしたくない気持ちになると思います。

=せいくらべの歌と父母=

(端午の)節句のすぎた六日の夜、子供と風呂で話をしていると「今日は学校で歌おもしろかってん。『いびつたべたべ』て歌てん。『兄さんが』ばっかしせんと女の人は『母さんが』て歌うし、ぼくら『父さんが』て歌うてん」という話で、親子三人風呂の中で″いびつたべたべ″を歌い、あくる朝もその歌が家中のだれ歌うともなしに歌いました。その歌で感じたことは、

〇子供の体についてのはなしでした。朝ごはんのとき去年の一一月の二八日に兄弟二人が台所の柱に刻んだせいの高さを歌の中から思い出して鉛筆をとり出してせいくらべをして哲生が cm真琴が cmのびたと、はかってから哲生がやせているとか、真琴が肥えているとかの話に発展したこと。

〇このことで担任の先生の暖かい心がしみじみ味わえたこと、家庭訪問に来てくれなくともこれだけの歌で先生の配慮と、その教室の子供たちの様子が手にとる様にわかる気持ちがしたのです。

書き写すのさえバカらしいようなホームドラマであり親馬鹿物語である。が、まだまだ続く。このような状況が全国の家庭に生まれたらその力は大きいし、こうした教育の営みについて職場で話し合い学び合うことが教育研究であり、平和憲法を守ることにつながる。 それなのにこうした一年生の親の気持ちが中学三年まで持続されないのは、子供のことを父母に理解したもらう努力が足りないからだ。高校に合格しなかった子の親が教師に対し憤っているとすれば、この子のことで教師と親との不足を欠いていることを自己批判すべきだ。まして日教組の統一行動で授業を半日打ち切ったことを台風の時、子供を学校まで連れてくる親に「今日一日の早退が台風以上に重要」な事を十分親と話し合うべきだと続けたうえで、

私たちは……「人の子供を教育する」という仕事である限り語ること以外の感化力、教育的影響力をもっているということ、すなわち我々教師の世界に文学を解し芸術を解する素養を持っておるとおらないで子供達に対する敵化力は大きな違いが生ずるでありましょう。これからの期待されるべき教師としての素養を身につけることの必要さをこそ自覚すればこそ、夕べ静かに音楽を鑑賞し春の浜辺で絵筆を握り、書斎で文学全集の一葉をひもとくゆとりがあることをこそ希望しての給与の要求であるなら一体このことの不合理を誰がとなえるでしょうか。子供たちの教育を一歩でもよくしたいというこの教師の願いを援助し、推し進めるためにこそ教員組合の存在意識のあることをあきらかにしてとりくみたいと思います。

この文は何処でなぜ書いたのだろう。たしかに彼の長男哲生が小学校へ入学した喜びはわかるし、教師を職とする親の気持ちもわかる。だが、この文章は、なんと五七年度和来ょ嘘西牟婁支部の運動方針の殆ど全文である。どこの労働組合の運動方針で親子三人が風呂に入って歌を歌った話を書いたのがあろう。あまりにも生活綴方的発想の運動方針であった。

しかし、この作文は生活作文でもあり得なかった。だいいち「ガンビひきをしなくともお札をもてる人がいるのに、ガンビ引きをしてもお札をもてない僕や兄さん」の悲しみを訴えている彼の故郷の子供たちにこたえられる方針でもなかった。

反日教組団体すらここまで書かないと思われるような非階級的、無抵抗の論理であった。落ちても落ちても執念をもやして書記長となった意気込み、教育予算三割り削減反対闘争では、いささか前後を見通さないままハンストに突入した力は方時もみられなかった。

第一五回大会で演壇に立った北条は「現場を知らない中執が書いた読むにたえないダラダラとした方針がある。日常の教室での細かい実践が日教組の闘争力の基礎であり、父母との提携のかなめであって、そうした地道な実践をする『よい教師』が生活と権利を守る運動でも強力な要求を組織できるのだ」主張した。その提案は一定の″聴かせる″ものを持っていたし代議員に感銘を与えた。が修正案は提案県以外賛成は皆無であった。『国民教育運動と共闘の展開』は次のような批判を加えている。 第一に大衆路線に立とうとする善意はあっても、理性より感情に訴え、大衆は難しいものは読まないという大衆軽視につながった。第二に教師・子ども・父母温いつながりを強調しながら中執や代議員をボロクソに言ってそのつながりを大切にしなかった。これは日教組の統一と団結を守り民主集中性の原則を貫く観点が欠落しており、更に重要なことは、すぐれた教育実践を真に民主的で科学的な質の高い闘争に発展させるためにも教師の生活と権利を守るたたかいを主要な側面として組織し発展させて行く方針が大切で、これを逆転させた論理であってはならなかったし、更に他の労働者階級との連帯を強め国民的な統一戦線を拡大強化しなければならないのを、それを子どもを通じての父母、一般との提携にすり替えってしまったからだ、というのである。

だが、和教組がこうした方向に陥って行ったのも無理からぬ点があった。特に55年度以降の財政窮迫化の時期に、学級定数、定員問題、高校入試、学区制問題など、まさに国民教育を発展させるための前提条件ともい


[PR]
# by saikamituo | 2018-08-28 17:00

憧れの山・生石

あこがれの山・生石山


 4月29日は、生石山の山開きでした。

「大型風力発電で生石山の自然をこわすな」というプラカードを持っている方がおられます。ならんで記念写真をとらせていただきました。

挨拶の順番でしたのでこんなことを申し上げました。

 「生石山というのは、私にとってあこがれの山でした。小学生のころから友だちと何度も上りました。

 あるとき、上る途中で、薪のようなものを引きずって降りてくる少年たちに出会いました。私たちより少し年上だったでしょうか。

 『あの子ら鍛えてるからあんな仕事もへいきなんやなあ』

 尊敬と憧れの気持ちをもって、友だちと言い交したことを思い出します。

 この生石山の自然をご一緒に守っていきたいと思います。     (さいか光夫)

d0067266_18094386.jpg


[PR]
# by saikamituo | 2018-05-13 18:10

「日本経済の時限爆弾」を読む

「季論」春号「日本経済の時限爆弾」(小西一雄)を読む


(1)昨年、和歌山大学名誉教授・森川博先生の「卒寿記念文集」に寄稿を求められた文章を私は次の言葉で締めくくった。

ところで、いま、アベノミクス(黒田金融政策)についての本質的な批判が求められていると思います。その批判は、「アベノミクスで庶民の暮らしはよくならない」という批判(それも必要ですが)ばかりではなくて、「アベノミクスは、日本経済と庶民の暮らしを地獄に突き落とす」という批判です。いまでも地獄という苦労している方もいらっしゃるが、全国民が地獄になる経済破綻に行き着くと思うのです。

同時に、「地獄に突き落とされる前に安倍内閣をやめさせよう」という運動が必要です。

 かつては、「恐慌のあとに革命がくる」という「恐慌待望論」がありましたが、それではだめだということになりました。私たちも「黒田金融政策破たんの必然性」を見抜きながら「待望論」になってはいけないと思います。

 「介護大改悪」などを見ると、地獄への道は、がけから落ちるような破たんの前に、坂道をずり落ちるような道なのかも知れません。

 森川経済学による分析をお聞きしたいところです。(2017年1月) 

(2)きょう、「季論」という雑誌の目次をくって表題の短い論考をみつけた。昨年、私が期待したまさにそのものである。小西一雄さんという方は、1948年生まれの立教大学名誉教授。新日本出版社などからは本を出されていないが、以前、雑誌「経済」にかかれた論文が、ものすごくわかりやすかったという印象を私は持っている。 

 目次から紹介しよう

はじめに 黒田日銀総裁の5年間

1 中央銀行信用の限界についての過去の教訓と未知の経験

2 日銀のバランスシートが傷んでいる

 日銀保有国債利回りの低下

 日銀の債務超過への転落の可能性

 バランスシートが悪化した中央銀行信用はどのような形で失墜するか

3 印刷機で富を生み出すことはできない

    …インフレーションの問題

4 おわりに…異次元金融緩和政策の後遺症

(3) 終わりの方で次のように書かれている。

 「アベノミクスには、さまざまな害悪がある。だがわけてもアベノミクスの最大の害悪は、本稿が見たように、異次元金融緩和政策によって財政金融政策の崩壊の可能性、金融資本市場の崩壊の可能性という時限爆弾を日本経済にビルトインしてしまったということである。一刻も早くこの時限爆弾を取り外して、アベノミクス全体を終わらせることが必要があるが、この政策転換の過程もまた日本経済にとって厳しい試練にならざるをえないであろう。…安倍政権と黒田日銀がはじめてしまった歴史的愚行の取り返しのつかない後遺症に、我が国は今後悩まされることになる。」

この論文の最後には(2018年2月 黒田日銀総裁続投のニュースを聞きながら)と書かれている。私の問題意識と全く同じだとうれしくなる。だが、「うれしい」と言っていられない恐ろしい真実だ。

ただ、金融政策の専門家だけあって、私の知らないこともいっぱいあって、たった12ページの論文だが、何回も読み返さなくてはと、拡大コピーして寝床に持ち込んでいる。

               2018年4月  雑賀 光夫


[PR]
# by saikamituo | 2018-04-26 22:49

森川経済学の神髄

森川経済学の神髄

☆ 森川先生が卒寿になられたのですね。

 私が議員になってから、海南の商店街に「赤旗」集金にいく衣料品店があります。ふとしたことでご主人が、森川ゼミ生だと知りました。「あの頃は、資本論ばかり読みましたよ」といわれます。かなり前の国政選挙の時、「森川先生から手紙をいただいた」と言われました。そのお店に立ち寄るたびに、森川先生のことを思い出していました。

☆ 森川先生にかかわって思い出すのは、学習協30周年の座談会のことです。私が司会をしました。「森川先生どうぞ」と発言をお願いした後のやりとり。

「★森川(前会長・和歌山大名誉教授)

学習協とのおつきあいは古いんですが、北又安二先生(元和教組委員長・故人)がなくなって、そのあとを受けついだんです。20周年のころ会長をしていたんですが、そのとき学習協のあり方について雑賀さんからの批判がありまして………。学習協無用論みたいな………。他の人からの意見ならともかく、雑賀さんが言い出したというから………。

★雑賀

いや、ずいぶん乱暴な提案でおはずかしい。私は、「草の根の学習運動の軽視」という自分なりの自己批判をしています。あれから、松野くんは私の提案には、警戒心をもちましてね。このごろやっと信用してくれるようになったかな。」

 その後も、なんどか紹介したエピソードですが、ご心配をおかけしたことを、改めてお詫びしたいと思います。

今日は、一度もお話ししたことのない、森川先生の講義でうけた衝撃を紹介したいと思います。

高度経済成長の極限でおこった、田中角栄の時代の狂乱物価のときです。1974年だから、今から40数年前のことです。

 スーパーから、インスタントラーメンも、トイレットペーパーもなくなった、いわゆる「物不足」で日本経済は大混乱になったのでした。そのとき、海南市の市民会館で行われた(地区労主催だったとおもう)で、森川先生が話をしてくれたのです。

 「物不足というけれど過剰生産(物余り)です。いろいろな分野で値崩れがはじまっていますよ」

 「ええっ」という感じで聞きました。その時の経済の本質は過剰生産だったのです。

 のちに林直道先生の「今日の日本経済」をつかって、私もあちこちで話しました。

「物不足の本質は、過剰生産だ」「過剰生産のために、資本は設備投資できなくなった」「そのお金は、土地に、株式に、そして最後には、トイレットぺーパーの買い占めにまでいたった。」

「過剰生産が、その逆の物不足として現れる」「マルクスは本質がそのまま現象するなら経済学(科学)はいらないと言っている」という話を労働学校でしましたが、その根本は、森川先生の話を聞いて「ええっ」と思ったことだったのです。森川経済学の神髄です。

 「数10年前のことをよく覚えているのは、おまえは老人になったからだ」とからかってはいけません。物事の本質にかかわる認識の問題だったからいつまでも思い出すのです。これは、72歳になった年寄りの独り言。

*森川先生が退官より前に何か本を出されて「これが森川経済学の神髄です」といわれたような記憶があって「神髄」と書いたのですが、思い違いかもしれません。

ところで、いま、アベノミクス(黒田金融政策)についての本質的な批判が求められていると思います。その批判は、「アベノミクスで庶民の暮らしはよくならない」という批判(それも必要ですが)ばかりではなくて、「アベノミクスは、日本経済と庶民の暮らしを地獄に突き落とす」という批判です。いまでも地獄という苦労している方もいらっしゃるが、全国民が地獄になる経済破綻に行き着くと思うのです。

 同時に、「地獄に突き落とされる前に安倍内閣をやめさせよう」という運動が必要です。

 かつては、「恐慌のあとに革命がくる」という「恐慌待望論」がありましたが、それではだめだということになりました。私たちも「黒田金融政策破たんの必然性」を見抜きながら「待望論」になってはいけないと思います。

 「介護大改悪」などを見ると、地獄への道は、がけから落ちるような破たんの前に、坂道をずり落ちるような道なのかも知れません。

 森川経済学による分析をお聞きしたいところです。

                  2017年1月  雑賀 光夫


[PR]
# by saikamituo | 2018-04-25 21:51

論争よ、おこれ

論争よ、おこれ・不破哲三氏の業績をめぐって

(一)

 不破哲三氏の「古典講座」というものが、日本共産党中央主催でおこなわれ、インターネットを通じて広く受講されている。私も、一応は「受講者」となって、インターネットを通じて、あるいはCDで、覗いてみる。

 あまりきっちりと受講するわけでなく、不破さんの「通説」を超えた解説について、「古典への招待」(全三巻)でもう一度、読み直してみることにしている。限られた時間での「講義」よりも、「古典への招待」の解説のほうが、正確に読み取れると考えるからである。

 不破さんの年齢の限界もあるから、「古典への招待」から3年間の間に不破さんのマルクス・エンゲルス理解の発展は、もうないだろうとタカをくくっているが、もしもあるなら、真面目に受講した方が教えてほしい。

              (二)

 不破さんは、「資本論」について深く研究され、資本論第二巻、第三巻を編集したエンゲルスよりも深くマルクスにそって、マルクスの研究を再現していると思う。

 また、レーニンの著作と活動をあとづけ、その偉大な業績とともにその限界を明らかにした。その真骨頂は、不磨の大典と思われていた「国家と革命」が、マルクスの国家論から外れていたことを明らかにしたことである。党綱領から「プロレタリア独裁」ということばをはずした30年数前からの研究が実ったものであろう。

*「プロレタリア・ディクタツーラ」については、私は20歳代に、私なりの理解で論文を書いたことがある。レーニンのプロレタリアディクタツーラというのは、革命の極限状況で、「革命的合目的性が形式民主主義に優先する」という思想であることを論じた。

 「ゴーター綱領批判」の新しい読み方が、新綱領の大事な点になっているが、私にはいまだによくわからず、寝床に「綱領の理論上の突破点」という不破さんの本を持ち込んで読んでいる。

               (三)

 不破さんは、最近の講義で、「空想から科学へ」をとりあげ、エンゲルスの「資本主義的生産様式の矛盾」の問題点にふれた。「赤旗」の紹介では、エンゲルスを乗り越えた不破さんはすばらしいという賞賛が紹介されていたように思う。

 「古典への招待」では、「補論」として、7ページほどでふれている。これまで「通説」としてきたものが、7ページのコメントで覆るということがあっいいのだろうかという違和感を僕は持つ。

 どっかにエンゲルスの定式を論じた論文があったと思って、本箱を探した。「現代世界とマルクス理論の再生」(中村清冶・大月書店・1992年第1刷)である。ソ連崩壊の直後の思想的苦闘の時代の著作である。

 「第1章 宇野経済学がとらえた『ソ連型社会主義』破綻の構図」に「3 エンゲルス定式の意味内容」という節がある。

 そこでは、

エンゲルスの規定「生産の社会化と資本主義的取得との間の矛盾」

レーニンの規定 「生産の社会化と領有の私的性格の矛盾」

スターリンの規定「生産の社会的性格と生産手段の私的所有との矛盾」

と紹介されている。

宇野経済学では「資本主義の基本矛盾」を「労働力の商品化の無理」とされるそうだが、宇野学派の柴垣教授が、ソ連崩壊の根拠を「生産の社会的性格と領有(所有)の私的(資本主義的)性格」にもとめていることなどについて、中村清冶氏は、エンゲルスの規定から離れたものを批判している。

僕は、エンゲルスの規定、レーニンの規定、スターリンの規定のちがいなど考えたこともなかった。僕は「生産の社会化と取得の私的・資本主義的形態」として、この問題を解説していたような気がする。これは、3つの規定のなかの、どれに当てはまるのだろうか?

私のいい加減さは、いつも告白していることだから、別に罪悪感もないが、中村清冶氏が、ソ連崩壊の時期の混迷のなかで、エンゲルスを擁護して奮闘していたという事実だけを記憶にとどめておこう。私の知らないところで、エンゲルスの規定をめぐるさまざまな論争があったにちがいない。

 こうした問題が、不破さんの「古典への招待」の7ページのコメントで決着がつくとしたら、これまでの学術論争は、一体なんだったのか。

             (四)

 不破さんの労作で気になるのは、先行研究が全く紹介されないことである。「私は前から気になっていた。今回研究してみて、こんな結論になった」という言い方をする。論争は、不破さんの頭の中でおこなわれている。

 マルクスの「資本論」であれば「資本主義社会の冨は、膨大な商品の…」という書き出しから(注)があり、自著の「経済学批判」が初出であったことを指摘する。学問世界では、これが誠実な態度だとされる。

 私は、綱領改定のときの「新しい帝国主義論」が、1960年経済評論1月号の上田耕一郎論文「日本帝国主義の評価について」の発展であると論じたことがある。当時の「経済」編集長とメールのやりとりをした。編集長は、私の感想を上田耕一郎さんにとどけてくださった。「上田さんは、こんなことを勉強している人がいるんだね」と驚いておられたということだった。私が送った「読者欄への投稿」は、編集長氏のアドバイスを得て多少修正したものを載せることになっていたのだが、編集部内で「情勢も違うから誤解を生む」という議論があるということだったので、「これまでのメールのやりとりはなかったことにしましょう」「ありがとうございます」というやりとりでけりにした。その代わり「選挙で忙しいときだから、落ち着いたとき上田さんの感想をお届けします」という編集長氏は約束された。その約束が果たされないまま、上田さんはなくなられた。約束違反だから、私は、「経済」読者欄に投稿する予定の文を、「和歌山学習新聞」に投稿しておいた。

 そのことで私の恨みをひきずるつもりはないが、不破さんの研究についての学会の討論・論争が全くないことについては、大変気になる。

 かつての「田口・不破論争」のあと、中野徹三氏の不破批判論文以後、マルクス主義に近いところでの不破さんの研究についての論争を私は目にしていない。「田口・不破論争」が、研究者に論争を躊躇させることになっていないのならいいがなと思う。そんな思いから不破氏の輝かしい研究に瞠目しつつも、ある種の危うさを感じないではいられないのである。

        

             2011年10月12日記


[PR]
# by saikamituo | 2017-12-31 13:58

月報100号によせて

月報一〇〇号記念によせて


 和教組書記局の私のポストに、「月報一〇〇」を入れてくれていた。例によって裏返して「一人一話」から。世古淳二さんが、考えさせてくれるエセーを書いてくれている。問題をとらえる目の確かさを感じながら表を引っ繰り返した。「月報一〇〇号記念」となって、山田昇先生が寄稿してくれている。読まずばなるまいと、山田、楠本、岩尾先生の苦労話を読んだ。
 山田先生が書いている「青表紙」(実際は黄緑表紙・国民教育運動特別分科会報告書)、若い先生は知っているだろうか、一九六〇年代のなかば、御坊小学校の「学年新聞大地」の実践(「青表紙」には、「この実践を『大地の実践ということに矮小化してうけとめてはいけない』という趣旨の総括をしている)、北条先生(県会議員だった北条先生の兄さん)などの上富田中学校の「モンチを高校に行かせる会」などの実践、そして私も参加した市立野上中学校の実践など分析されている。時の教文部長は、岡本デンスケ先生であったことも書き添えておいたほうがよかろう。暇のある人は、一九八七年の和教組定期大会議案が「たたかいの経過と総括」の「はじめに」の部分で、この時期の教育運動の評価にきわめて簡潔にではあるがふれているので見ておいてほしい。
 山田先生がふれている「青表紙」が「途中でしばらく休んでしまった」のち、やや性格を変えて「和歌山の教育運動・教育実践」として登場するのは、一九七八年である。実は、一九八七年度(八八年三月)の「特別分科会」で和教組書記次長であったわたしは、飛びいり発言をしていまる。(その発言原稿を、一九八四年の「月報・三七号」に載せていただいる。わたしは、教育研究活動の発展のためには「組織教研・自主的な教育サークル・底あげの教育基礎講座・もっとも幅広い学校での民主的な現職教育」の「四つの研究組織論」を唱えたのだが、あわせてその「総路線」のまとめの場としての「国民教育運動特別分科会」の意義と「青表紙」復活を訴えたのだった。その時、山田先生が、研究集会の「まとめ」の中で、「青表紙復活」を「公約」してくれた。復活した「報告書」に「不満を感じていた人たちもいるにちがいない」と山田先生が書いておられる。実は、私は不満を感じ、「昔みたいな青表紙を」といいつづけてきた一人なのです。(ノスタルジアだろうか、しかし、碓井先生が中心になって、私の願いをかなえてくれそうだといううわさも聞く。)
 楠本先生が、「合宿の夜が『月報』誕生の場」と書いている。あまりお酒を飲まない楠本先生は、夜中まで飲みながら語り合うということはせず、賢く寝てしまったのだが、わたしは山田先生が好きなビールにつきあっていた。「原稿が集まらないのなら、私が書いて埋めます。」山田先生の、この一言が、「月報」発行に踏み切らしたカウンターパンチだった。
 楠本先生は、真面目な完全主義者である。いいかげんなやっつけ仕事は、できない性格である。購読者をつのってお金を集めているのに発行がおくれるので書記長のわたしは焦った。「中身など多少不十分でもいいから、毎月発行できるようにしてほしい。教研集会のレポートを順番にのせても格好はつくじゃないか」楠本先生は、ガンとして聞かない。研究者と運動家の違いだろうか。結局、一九八二年が空白になっているが、一年間発行がとまったのでなく、発行がおくれてズレこんできたものを調整し、一年間空白にし、購読料も損をさせないようにしたのである。
 教育研究所事務局長・楠本先生と岩尾先生とのつなぎの時期、わたしがやっつけ仕事で誤魔化した号がありる。「三四号」の湯浅教育調査特集、「三五号」の若い先生におくる教育の手がかり、「三六号」の風の子共同保育所のとりくみなど。わたしのやっつけ仕事にもかかわらず素材の立派さで救われている。「教育の手がかり」は、「和教時報」に白井春樹先生が集めた「三人の先生は語る」という特集を転載したもの。教育実践家の白井先生は、和教組常任になり情宣を担当すると、「和教時報」の紙面の半分を教育実践の紹介で埋めてしまった。書記長のわたしは、それにクレームをつけ「紙面のバランスを考えろ。組合の機関紙というのは、駅弁みたいにすこしづついろんな分野のことが書かれていなくてはならないんだ」といったのですが、白井先生が集めてくれた教育実践はすてきなものでした。その次の号も、白井先生夫妻が全国教研に参加するのに作ったレポートをそのまま載せさせてもらいました。
 「五五号」の「四つのテーブルのシンフォニー」も、わたしの請負作品です。「光協会」(森永ヒソミルク被害者救済組織)の二〇周年集会に参加して感激してしまったわたしは、そこで発言した人たちをつかまえて、「今日の発言を文章にしてくれ。」とたのんでまわったのです。そして岩尾先生におねがいして作らせてもらったのがこの特集です。
 教育研究所の「月報」に、和教組書記長がこんなに口出しすることは良くありません。「月報」が軌道にのる過渡期だったから許されるでしょうか。教師の仕事をまともにできないまま組合専従になってしまったわたしにとっては、こんなかたちで教育にかかわることができたのは幸せなことでした。
(月報一〇〇号を手にした日に書いたもの・後になってワープロのフロッピー   を整理していたら出てきたので多少手直し・和教組副委員長・雑賀光夫)



[PR]
# by saikamituo | 2017-03-21 18:34

「国民教育運動特別分科会への報告」

教育研究・実践の発展のために

一九七八年三月二〇日「国民教育運動特別分科会への報告」
     和教組書記次長(当時) 雑 賀 光 夫
 
【まえおき】
この一文は「特別分科会」で発言するために書いてみた原稿です。この年(1978年)の分科会の最後に、本文の内容の一部を発言させてもらいました。
 偶然の一致ですが、この年から和大の先生方の協力も得て十年間ほどとぎれていた特別分科会報告書が再び出されるようになりました。こんな発言をしたものとして、大変うれしく、つみかさねをお願いしたいと思っています。
 今年の「特別分科会」は、統一労組懇の総会とかさなってしまいました。感動的な報告が多かったというはなしを聞いています。ところで、その会が終ってから和大の西滋勝先生が「かつては和教組の役員がみんな、現場の実践から学ぶ場として『特別分科会』に出席したものだったのですが……」ともらされたそうです。六年前、自分が発言したことを逆に指摘されたようで、穴があったら入りたいようを気がしました。
 今から読み返してみますと、恥ずかしくなるような気負いや、当時わからないまま読みかじっていた見田石介先生の弁証法についての論文から「弁証法のヘーゲル主義化」などということばをひいているところなどあり、書きなおそうかと思ったのですが、文章というものはなおしはじめるときりがなく、勢いがなくなるものですから、恥ずかしい文章のままでご検討いただきたいと患います。
(一九八四年三月)
【まえおき 後記】
 ふとした事情で、1978年に書いて数年後に民研「月報」の原稿不足につけ込んで載せてもらった一文を引っ張り出した。赤面するばかりだ。「まえおき」で言いつくろっているがそれでもはずかしい。
 ただ「4つの教育研究組織」のそれぞれの役割と当時の「国民教育運動特別分科会」の果たした役割、それに付け加えて森畑教文部長が民研の役割を「コントロールタワー」と呼んだことがあるが、そうした問題意識で論議したことは、いまでも意味のあるように思うのです。    2014,7  雑賀 光夫

一、国民教育運動特別分科会の位置づけ

 国民教育運動特別分科会は和歌山県の教育研究・実践・要求運動(以下教育運動)の総路線を総括し、発展させる場である。教育運動とはどういう内容を含むのか、箇条的にあげてみよう。
(1)教師による教科教育実践
(2)教師による教科外教育実践(問題別ともいう)
(3)それらのための教育研究運動(サークル・種々の教研集会、官制・半官制研究会、現職教育など)
(4)民主的な学校づくりと教職員集団
(5)父母とともに進める教育運動(教育そのもの、教育条件、教育環境)
(6)研修権
 まだ、ぬけおちているかもしれない。これら多岐に上る内容は、それぞれの研究集会、また分科会で深められなくてはならない。そこで深められたものをもちより、今日の教育をめぐる情勢、こどもの現状との関係で、民主的教育運動の発展をあとづけ、発展方向を
さし示すために太い線をひく岳このことこそが「国民教育運動特別分科会」でなくてはならない。
 そうだとすれば、「特別分科会」はいかなる方法で開催され、運営されなくてはならないのか。
(1)県下の民主的教育運動にとりくむ、もっとも精力的な人たちをすべて結集しなくてはならない。そこには、教育実践家・教育運動家とともに、教育研究者が含まれる。この分科会を軽視して教研集会の助言者をつとめるなど、おこがましいというほどに、この分科会の権威をたかめなくてはならない。
(2)参加者は、開会のあいさつから、最後の総括にいたるまで参加し、討論を深めなくてはならない。
(3)とりわけ、教育をめぐる情勢とこどもの現状、一年間の教育動の総括を含んだ基調報告の討論が重視されなくてはならない。
(4)教研集会の分科会での報告と、この特別分科会の報告が、同じものであってはなら
ないと思う。教研集会の討論を経てねりあげてき、理論化されてきたものが、基調報告を中心にして、それをどういう面から深めるか、なにをつけ加えるか、どう批判するかという観点を明らかにしつつ、報告されなくてはならない。一個人がそれを十分整理できないときは、集団的に整理し、理論化すべきである。
そのため、基調報告は、事前に会報告者のもとにとどけられる必要がある。たとえ「草案」にとどまるとしても……。
(4)「特別分科会」の「まとめ」は、三カ月以内に完成し、夏休み前に配布する必要がある。「まとめ」 にあたっては、ことなかれ主義の「まとめ」でなく、大胆に問題を提起し、討論をよびかけなくてはならないと思う。仮説は、その後の研究と実践の中で訂正されることがありうる。訂正されることをおそれて、仮説を提起しないところに、理論の発展はありえない。仮説を提起する大胆さと、集団的な討論、実践による検証から学ぷ謙虚さをもとうではないか。
   また、三カ月でまとめる問題についていえば、より完全なものを一年後につくるより、不完全なものでも、すぐにつくりあげることが大切である。われわれは、教育運動の歴史をきりひらいているのであって、歴史をまとめているのではない。もちろん、歴史をまとめ、正確な総括をすることは必要である。そのためには、それにふさわしい委員会をおくべきだ。

二、教育研究運動の発展のために… 立体構造をもって研究はすすむ …

1.教育研究運動の質と量
 質と量というのは、だれもが口にする。ただ「量がふえることによって質も高まり、質が高まれば畳もふえる(注1)」かのように考える俗論には注意しなければならない。「量がふえたからといって質は高まらない。質が高まったからといって量はふえない。そして、量と質それぞれを高める努力をしないとあるところまでいけば、量も質も頭うちになる。したがって、質と量をそれぞれ独自の課題として追求しなくてはならない」というのが正しい。   
教育運動の発展のために、後者の立場「質と量をそれぞれ独自の課題として追求する」ということが求められる。それを研究運動論として展開しようとするのが、小論の課題である。
 (注1) 見田石介著作集第一巻参照
 見田氏の弁証法研究は、このように、わたしたちの実践上の課題の解決に重要な示唆を与えている。

 2.教育研究をすすめるさまざまな組織
  ① サークル
 サークルを特徴づけるものは質の高きである。サークルの中には若い教師があつまってつくったものもある。いかに未熟でも、そこには質の高さがある。
それは、なぜか
 サークルは、いかなる強制にもよらず、教育研究をしたいものがその内容にひかれてあつまってくる研究集団である。出張命令が出されたからあつまるのではない。(このことは、出張になって悪いということではない。出張をかちとることは大切だが、出張扱いされなくてもサークル員は寄ってくるということ、-念のため)組合から動員割当があるわけではない。サークルからのよびかけと、サークル員の自主的・自発的な参加に支えられた研究活動―そこから、きわめて質の高い実践と理論が生まれた。若い未熟な教師たちのあつまりであっても、サークルがつくられているということは潜荏的な質の高さである。
 そこから生まれた理論や実践は、水道方式、生活綴方、生活指導、新英研の実践など数多くある。ただし、わたしは、サークルが生みだした一つの教育方法をとりだして、それをその分野での唯一の民主的・科学的なものであるかのように主張することはさけた方が良いと考えている。それぞれのサークルが、その中でつくりあげた教育の内容や方法を、おたがいにぶつけあい、論争することは良いことである。しかし、学校の中で全教職員が一致してとりくむ場合、どんな小さいことからでも一教点をみつけて統一したとりくみをすすめることが大切な場合が多い。
 サークルの会合や教研集会でよく聞く発言。「学年でなかなかそろわないので、わたしだけ教科書をはなれて『わかるさんすう』でとりくんでいますが、まわりの先生に気をつかいます」
 「学級通信を出していますが、まわりの人からいやがられるみたいです」
 「学級通信を出すのに、年上の先生に相談したら『若い者はやりたいようにやったらいい、しっかりやれ』と言ってくれました。それで出しはじめたのですが、五学級中、出しているのは二学級だけです。……」
 このように、孤立しながらでもサークルで学んだことを学校に持ち帰り実践している若いサークル員たちに、心から拍手を送りたい。孤立していいというのではない。孤立しないようにする仕事は、若い人たちにまかせるのでなく、みんなでやろう、さしあたり孤立しながらでもとりくんでいることに拍手を送ろうということである。
 「一致したとりくみ」 については、あとでのペる。
  ② 教育講座
 サークルなどがつくりだした教育研究・実践の到達点を学ぶ場である。日教組も「力量をたかめる講座」を開いてきたし、和教組・民研が中心になって 「算」「国」の「教育講座」を開いたことがある。今次沖縄教研の翌日、那覇支部が全国からあつまった一流の実践家をあつめて教育講座を開き注目をあつめた。また、各支部の総学習の中で最近、この種のものがとりあげられることが多くなっている。
 ただ、ここで、①の補足もかねて、一言つけ加えておきたい。学ぶべき実践がどこにあるかという問題である。
 研究組織、研究運動を論じているので、どうしても「サークルが生み出した実践」という言い方をしてきたが「サークル」という形をとらなくても、個人で、あるいは同好の士のよりあいとしてすぐれた研究をしたり、すぐれた教育技術を身につけている人たちが、
いたるところにいるということである。四〇代・五〇代の先生の中には、サークルの会合に顔を出すかどうか、組合活動に熱心かどうかには無関係に、すぐれた教育の専門家が多くいる。とくに、若い人たちの場合、「民主的」という形容詞なしでもよいから、「教育の基礎」を学ぶべきだといえないこともない。学校の中で、先輩の授業をどんどん見せてもらい、良いものはどんどんぬすみとりながら、さらに、その上に、今日の教育課捏や教科書をのりこえて民主教育を発展させる理論や実践について「教育講座」で大いに学ぶ必要があろう。
  ③ 教育研究集会
 「教育講座」は、「教える→学ぶ」場であるのに対し、教研集会は「実践をもちよる」場である。それがサークルと違うのは、きまざまな考え方の人が実践をもちより討論する場だということである。(注2)
 これには、組合数研の他に和同教、同推協、教科別研究会、きらに行政当局も参加して開かれる研究会がふくまれる。
 (注2) サークルと教研を「立場の一致」「ちがい」という面から区別したが、この区別は相対的である。

  ④ 現職教育を軸にした学校ぐるみの教育研究と実践
 以上、さまぎまな研究会について述べてきたが、そのもっとも広い土台は、なんといっても学校現場である。そこには、さまざまな考え方、教育方法でとりくんでいる教師がいる。ここでのとりくみで、もっとも大切にされなくてはならないことは、「一人ひとりの
持ち味を生かしながら一致点で統一する」ということであろう。
 学力・非行問題が大きな問題になっている中で「算・国の基礎学力をたかめるとりくみ」「地域ぐるみで非行をなくすとりくみ」「生徒の基本的生活をたて直すとりくみ」などが学校ぐるみでとりくまれていることは、きわめて貴重である。

 以上、四つの研究組織は、それぞれ独自の役割を果たし、一つのものが他のものにとってかわることはできない。たとえば、サークルの性格を教研集会の分科会におしつけたらどうなるか。たとえば、音楽の分科会の場合について考えてみよう。現場には「うたわせること」を中心にして指導している先生もおれば、器楽に重点をおいている先生もいる。サークルでは、どちらかといえば「うたわせること」が主流であろう。しかし、それがそのまま教研集会の分科会になってしまって、器楽の実捗が教研集会に出されなくなってきたら、それは教研集会の自殺行為であろう。
 あるとき「サークル連協の分科会は生き生きしているのに、教研集会の分科会は、それほど生き生きしていない」ということが話題になったことがある。たしかに、これまでの県教研は多くの分科会をかかえ、昨年の総括をふまえて分科会の内容をどう発展させるかという系統的なつみあげ、準備が十分でないことも事実である。しかし、同時にサークルのあつまりと教研集会を同列にして「討論がふかまりにくい」と単純にいうこともどうだろうか。
 先にもふれたように、いくつかの地城・学校では、算・国などの基礎学力をひきあげる学校ぐるみのとりくみが行なわれている。そこでは、ベテランの先生も、新任の若い先生もー致したとりくみをしている。しかし、同時に、算数・国語・社会・理科……それぞれの分野で自らの力で研究や実践を切り開き、典型をつくりあげていく開拓者がいて、その成果の一部が、みんなの一致したとりくみになっていくということがなかったら、教育の発展はないであろう。

3 再び「国民教育運動特別分科会」について
 質と量の問題、研究活動の立体的構造、四つの研究組織についてふれたことで「特別分科会」 の役割は、いっそう明らかになったと思われる。この分科会は教育運動の総路線を発展させる要なのである。


[PR]
# by saikamituo | 2017-03-21 18:25

自殺予告の電話をうけて

自殺予告の電話をうけて


1、自殺予告電話

「先生、こんな生活しんどいよう、死にたい、タスケテ」
こんな電話が、M中学校でありました。早速、職員会議が開かれ、対策を協議しました。校長はもちろん教育委員会に報告して指導をうけてきました。

2、生徒指導部から提案された方針は、次のようなものでした。

① すべての家庭に電話して、子どもの様子を聞く。
② 明日、全校集会をひらいて、いのちの大切さを訴える。そのあと、HRで話し合い感想文をかかせる。
③ 学級担任による個人面談をする。
④ PTA役員会を開き、保護者集会を開いて訴える。
などです。生徒指導の先生は、緊張した面もちで訴えました。「子どものいのちがかかっているのです。先生方、よろしくお願いします。いたずら電話かもしれないけれども、今はそんなことは考えずに、電話の主をに死ぬことを思いとどまらせることだけを考えてください。」

3、この提案を受けた職員会議で、議論がでました。

A そういう対症療法でなく、根本的な問題を議論すべきじゃないですか。
S 根本問題は大事だけど、いま、子どものいのちがかかってるんですよ。悠長なこと 言うってられないでしょう。
A 私は、緊急に電話したり、訴えたりすることに反対してるんじゃないですよ
S では、どういうことですか?
A 電話するにしても、学級での話し合いをするにしても、感想文を書かせるにしても、 根本問題の捉え方によって、まったくちがってくるんですよ。

こういうやりとりの後で、次のようなことで意思統一ができました。

① 電話では「こんな生活、しんどいよう」と訴えてきた。どの子でも、いま、追われるような、息のつまるような生活をしてる。電話してきた子が特別なわけではない。そのしんどさを受容することが大事だ。

② 電話してきた子が特殊だという見方で学級会をしたり感想文を書かせると、「特殊な間違った考えをした子どもの考えをなおしてあげよう」「特殊な子を見つけだして、説得して自殺を思いとどまらせよう」という取り組みになる。これでは、かえってその子どもを追い込んでいくようになるし、周りの子どもは、「変な電話をするやつがあったので、話し合いをさせられる」という受け止めをすることになる。

③ 他方、「みんなしんどいんだ」という立場に立てば、この子は、「死にたい」などと言っていることは間違っているけれども、みんなの気持ちを代弁してくれているということになる。教師が、そういう捉え方をして、学級指導すれば、子どもは感想文を書くのでも、「電話した子の考えが間違っている」ということが中心でなく、「僕もしんどい。逃げ出したくなったり、死にたくなったこともある」ということも含めて本当のことを書くのではないだろうか。

④ 「みんなしんどい」ということをいったん受容した上で、「しんどくても力づよく生きていこう」という指導は必要だ。それには、よく取り組まれる「励ましの手紙」に取り組んだらどうだろうか。「死にたい」と電話してきた子に「励ましの手紙」をかく。

* あるクラスで、日記につらい思いを書いてきたF子さんに「励ましの手紙」を書こ うと先生が提案しました。一人の子が言いました。「先生、F子さんは、誰かわから ないけどクラスの中にいるんでしょう。F子さんは、誰を励ますの?」先生はとっさ に応えました。「今日のF子さんが、昨日のF子さんをはげますのよ」
「しんどい、死にたい」と思っていた子が、「しんどいのは自分だけじゃない」「私 のしんどさを先生もわかってくれた」と感じたとき、しんどさを乗り越える力が、内 から生まれるのでは、ないでしょうか。その力を確認するのが「励ましの手紙」なの です。

⑤ 以上は「緊急対応」である。学校、教職員集団としては、「しんどいけどがんばれ」ではなく、子どもたちのしんどさをとりのぞく「笑顔あふれる学校づくり」をめざしてとりくまなくてはならない。


解説

1990年代のことです。私は、和教組副委員長だったでしょうか。
ある支部の、組合員が少ない職場で、「子どもの自殺予告電話があった。しかし、取り組みの正しい方向が出されていないので心配だ」という電話があり、私は現地に向かいました。でも職場に直接援助に入れるわけではありません。そんなことをしたら、「組合の介入」と言われかねません。
そこで私が、一計を案じて、「ある職場での【自殺予告電話】をうけての職場討議の記録」というものを作文しました。支部書記長が、この文書を「少し前のものだけどこんなものがあるんだ」といって、職場にとどけてくれました。
どれだけ役に立ったのかは、よくわかりませんが、「よくできている」と自画自賛しています。当時の岡本佳雄さんを中心にした「教育相談センター」の到達点をふまえたものだったと思います。
古いハードディスクから出てきたので、アップしました。(2016年3月)
[PR]
# by saikamituo | 2016-03-06 16:06

惚れ直す

惚れ直す

 栗原省さんから、岩城正男さんの追悼文集のお話をいただきました。私は、パソコンのハードディスクのどこかにはいっているはずのファイルを探しました。見つからないのです。そのファイルと言うのは、奥様の岩城史さんがなくなったあと、和歌山市の自宅にお伺いして仏前で高教組の書記の中井さんに読みあげていただいただいたものです。
 思い出しながら復元してみます。
《 僕は、夜、ふとんの中で泣いた。その日お参りしてきた亡き岩城史さんと正男さんのことを思い出しながら泣いた。
 岩城先生のお宅には南村先生、坂口先生、中村先生などがあつまっておられた。そこに正男先生がはいってきて「一人足りないのよう」(いつも一緒のメンバーなのにそこに史さんがいない)と言って泣きだされたのであった。お二人の絆を感じたのだった。
 このとき、僕はある場面を思い起こしていた。野間選挙の最後の局面だっただろうか。僕らは、名城ビルの教職員のセンターに最後の結集をしていた。正男先生が渾身の訴えをした。その訴えは、自分自身が身をもってがんばってきたものでなくてはできない訴えだと僕は思った。史先生と僕は、和室の壁際でならんで正男先生の訴えを聞いていた。僕は、史先生にささやいた。「今日はダンナに惚れ直したのとちがう?」と。
 史先生が亡くなったあと、正男先生から挨拶状をいただいた。そこには
「史と私が歩んだのは、一筋の道です」と書かれていた。》
 20年も前に書いた文章を、記憶を頼りに復元してみました。表題はたしか「惚れ直す」という言葉をつかっていました。文章の構成はすこし違っていたかもしれません。
正男先生の追悼文に史先生への追悼に書いた文をひっぱりだして代えるなどナマクラだと叱られるかもしれません。でも、私にはこれが正男・史両先生に一番よろこんでいただけるもののように思われるのです。
 正男・史先生、やすらかに。
           2014年7月
雑賀 光夫(日本共産党和歌山県議会議員)

[PR]
# by saikamituo | 2014-08-20 15:30

 「朝来町調査報告書」「八鹿高校事件調査報告書」のことなど

暴行翌日の「八鹿病院激励」「八鹿高校事件調査報告書」
「朝来町調査報告書」のことなど
        

         雑賀 光夫 日本共産党和歌山県議会議員
                 当時・和教組海草支部書記長

(一) はじめに
 八鹿高校事件から40年になるのですね。
 和歌山県部落解放連合会の元書記長・竹田正信君から「なにか思い出を書けるか」と電話をいただきました。
 早速、若き日に事実上私の責任編集でつくったガリ刷りの「橋」(海南海草部落問題研究会機関誌)第8号を引っ張り出しています。
 そこには「朝来町調査報告」(1974年11月4日)と「兵庫県八鹿高校事件調査報告書」(1974年11月23日)が収録されています。どちらも、私が参加して、まとめ、自分でガリきりしたものです。二つの「報告書」をベースに書いてみたいと思います。
         
(二) 朝来町への自主調査
 「朝来町調査報告書」には、冒頭、次のように書いています。
 「朝来町で大変なことが起こっているという。『点検・確認・糾弾』という名のもとに、『解同青年行動隊』と名乗る人々によって、教育への不当な介入が行われているばかりでなく、教組朝来支部長・橋本先生宅がとりかこまれ、監禁され、流血の事態さえ生まれているという。
 解同中央本部との関係でこのようなことが行われているとしたら、和歌山県がかかえている問題でもあって、(注 当時、和歌山県の民主的部落解放運動は、部落解放同盟内にとどまっていた)私たちは決して無関心ではいられない。しかし、今の世の中でこんな事が行われているのに、一般の新聞が報道しないなどということがありうるだろうか。
 こんな疑問を持って私たちは朝来町に行ってみようと決心した。」
「とりくみにあたって、和教組海草支部は、教組の近くの支部、海南海草同推協、海南市同和室、海南市教育委員会教育課、市職労、市職部落研に呼びかけた。急なことでもあったので結果的には、教組の雑賀、同推協の藤田の二人で行くことになった。」
「私たちは、この事件の被害者である橋本先生や佐藤町議のほかに、町当局の話も聞きたいと思っていた。しかし、今日の朝来町では、それは大変な危険を伴うと聞き、前記2カ所のほかには、高教組和田山商分会の先生に会うにとどまった。」
30才の青年教師・海草支部専従書記長であった私は友人である海南海草同和教育推進協議会会長の藤田勉くん(27才)と二人で「現地調査」に出かけたのでした。
………………………………………
「報告書」から少しぬき出してみましょう。
① 橋本先生支援の人たちのマイクロバスに便乗して午前6時、竹田駅前へ。佐藤理髪店は、駅のすぐ近くにある。入り口の大きなガラスがわれたところにはベニヤ板をはりつけ……。
 佐藤理髪店で佐藤・西岡両町議から話を聞きました。
「但馬では解放運動は遅れていました。解同県連というのはなく、『解放県連』というのがあって、解同と同和会の両方に首をつっこんでいました。(その後解同県連になる)昭和48年の『西宮事件(窓口一本化要求)』を通じて『青年行動隊(隊長・丸尾)』が組織されました。(いろいろな事件を通じて、解同が発言権を増していきます。)
 和田山中学校に赴任したO教諭が「解放研」をつくり、「解放研ニュース」を壁に貼り回します。それへの反発から「解放研をつぶせ」というポスターを貼ったものがいました。これが「差別落書き事件」です。それをきっかけに「学習会を開くから出てくれ」と校長に申し入れ、校長は受け入れます。教組朝来支部は、その実態を見抜いていましたから、「この会にはでない」と決めました。それを切り崩し、「学習会」に出席させました。
 その場で、ある先生が「義務教育の中学校に解放研はおかしい」と発言したことを、教育長は「この発言は差別の生きた証言だ」といい、出席者に差別であるかどうかを確認させていきました。
 こうして、解同や「解放研」を批判する教組朝来支部の橋本支部長宅をとりかこみ、糾弾するという事態にまでなったというのです。
 こうした事態を批判するビラをまこうとしたら、取り囲まれ、糾弾され流血の事態も生まれたと佐藤・西岡両町議はいわれます。
 「ある人は私の家に来てビラを持って出ようとしたところを殴られ、引きづり回され、柱に顔をこすりつけられました。幸い失明をまぬがれましたが…」
② このあと、私たちは橋本哲朗先生のお宅にタクシーで伺い、お話をお聞きしました。佐藤さんは「アブナイナー」といわれたのですが、若かったのです。
③ 私たちはその「報告書」の「9 おわりに」として次のように書いています。
「私たちが話し合ったのは次の人たちです。
○ 佐藤町議 西岡町議
○ 佐藤さんの家の近所の本屋のおばさん
○ 弁護団の人々(少ししかはなせていません)
○ 橋本先生とその家族
○ 和田山高校の原田先生、西口先生
○ タクシーの運転手
このなかで、タクシーの運転手だけは、橋本先生の側にたっていない人でした。しかし、タクシー運転手から聞いた事実は、他の人々から聞いた事実と食い違ってはいませんでした。同じ事実をどうみるかという事だけは違っていました。
 (注)私たちがタクシー運転手と交わした会話を「報告書」から紹介しておきましょう。これは普通の住民の意識を示す「証言」として、そのまま「調査報告書」に収録したものです。
【調査団「この間から大変だったでしょう」
 運転手「佐藤さんにとっては不利でしょうな。今までみたいにやれないのとちがいますか。」「田舎のことですから佐藤さんの家に入っていくと、あの人もかと見られます。」
 調査団「このことについて批判はないのですか?」
 運転手「橋本先生のことで盛り上がりました。佐藤さんは、橋本先生の家に行って出てきたところを皆に取り囲まれたのを皆がみています」
 調査団「部落のことについてなにも言えませんね」
 運転手「なにも話できないというのは甘いですね。ビラなんか出しても効果ないですよ。町役場から指示が出ているので、私なんか読まないで左から右ですよ」(意味がとりにくい点もあるが原文のまま)】
……(調査ききとりをして)私たちが考えたことは「これはファシズムと一緒だ!」ということでした。
今の社会に不満を持っている人々を誤った方向にあおりたて、その力で労働組合をきりくずし、反共の方向に人々をあおりたて、反対する人々は暴力でたたきつぶしながら地域世論を操作する。これが、ファシズムのやりかたではないでしょうか」(「朝来町調査報告」より)

(三)和教組本部からの「八鹿調査要請」
その調査から半月もたたないうちに、私はまたもこの地に向かうことになったのです。「八鹿高校事件調査報告書」の冒頭に、私は次のように書いています。
 「11月22日の夕方、和教組本部から電話がありました。「兵庫県八鹿高校の組合員が『解同』丸尾一派に体育館に引きずりこまれ暴行を受けている。兵高教から一時間も早く来てほしいという要請があった。和教組として調査団を出したい。今夜からいってくれんか」
 電話してきたのは、和教組責善(同和)部長の岡本佳雄さんです。私は、即刻「行きます」と答えました。その半月前に、朝来町への調査に出かけ、『解同』に自宅を囲まれて脅迫されてがんばった橋本先生のお宅にも伺い、町の人たちからも「丸尾一派」の蛮行を聴いてきていたばかりですから、和教組本部からの電話の意味はすぐわかりました。そして、重大な問題の証人として派遣されるということが……。
その数時間後に和教組本部で堀井雅文さん・瀬村佳正さんと「調査団」をくみました。私は一番若かったのですが、支部の専従書記長、和教組では執行委員でしたので「団長」ということになり、夜九時、チャーターしてもらったタクシーで和歌山を出発しました。
 
(四)事件翌日の八鹿病院激励

 豊岡高校に着いたのは、翌朝、午前二時のことです。かんたんな状況説明を受けたあと、支援のみなさんと一緒に、大きな和室で寝ることになります。
 寝ようとすると、どこかに電話をかけている声が耳にはいります。
 「○○先生が行方不明……。水をかけられた。いっぱい? …杯?」
 暗い中でメモをしたのでしょうか。「報告書」にそう書いています。
 「翌朝5時50分起床。単独で行動できないため、支援に来ている高教組の人たちと行動することにした。私たちは京都から来た人たちと一緒に第7班にはいった。」と「報告書」には書かれています。
 はじめは、「ビラまきにいってもらう」という話だったのですが、現地の段取りの都合でしばらく待機していると、「八鹿病院に激励に行ってください」ということになったのです。
 「午前8時半に病院につき、9時から病室にはいりました。私たち3人がはいった病室では、被害者が眠っていて話を聞けませんでした。
 『隔離病棟にも入っている』ということでそちらに回ります。二つの病室に8人がはいっています。
 『何かみんなに伝えたいことはありませんか』と聞くと『僕たちあの暴力の中で確認書を書かされてしまった。それは認めずにがんばるつもりだが、がんばりきれるかどうか心配だ』寝たきりで体を動かすのもままならない方がおっしゃいます。
 隣の部屋の方は、体中きずだらけだが、まだ元気です。女の方がいらっしゃる。顔中、とくにまぶたが腫れ上がっていて、気の毒で目をそらせました。
 一人の先生がおっしゃいます。『生徒たちが先生を帰せとがんばってくれたそうです。そのことが一番大きな支えになりました。』
 「今日、バスケットボールの試合があるが、こんな状態なので相手の学校に連絡してくれませんか」といわれる先生もいます。
 付き添いの方が『警察は見ているだけでなにもしてくれなかった』と言います。
 9時40分に病院をでました。町を『解放車』が、『八鹿高校で集会を開きます。町民一人残らず集まってください』と叫んで走っています。ゼッケンやはちまきをしめて会場に向かう人もいます。」(ほぼ「報告書」のまま)
 あとからお伺いすると、私たちが病院に激励に行ったあと、警察にシャットアウトされ、入れなくなってしまったということでした。

(五)組合分会からの報告
 その後、豊岡高校にもどって八鹿高校の入院していない先生から当日のすさまじい状況を聴かせていただいたのでした。組合執行部として報告されたのは、後に私が和教組県本部書記長として日教組の会議などに出たころおつきあいさせていただくことになる西岡委員長でした。そのころは書記長だったでしょうか?
 私は、和歌山に帰ってすぐ、見聞きしたことを「報告書」にまとめました。その「報告書」から、私が聞き取った暴行の実態をもうすこし拾い出してみましょう。
(1)事件がおこるまで
・昨年(1973年)秋、解同県連・青年行動隊がつくられ、丸尾が隊長になった。
・今年の5月から、八鹿高校にも「解放研」をつくられはじめた。
・但馬では、奨学生の一泊研修会を開き、校長・教頭・同和主任が参加した。教育事務所長が「教師は敵だ」という教育をして、モデル糾弾会をし、校長・教頭から確認書をとった。
・校長は、夏休み中に二階の一番立派な部屋を解放研部室にし、看板をかけてしまった。
・教師集団は、このようにしてつくられた解放研との話し合い(糾弾会)には応じないという態度をとっており、解放研は「応じよ」と要求してハンストにはいった。
(2)11月21日におこったこと
① 校内でやられたこと
・集団登校してみると、解同が乗り込んできて異様な雰囲気なので、SHR(ショートホームルーム)だけやって、生徒は帰らせようと言うことになった。校長は職務命令を出して、授業をつづけよと命じた。
・それでも10時ごろから集団下校をはじめた。解同がきても町内に出ればなんとかなると思ったので、スクラムを組んで200メートルほどすすんだが、解放車にはばまれ、すすめなくなった。
・「これが解同の正体だ」とさけんだが、一人一人ごぼう抜きにされた。
・あるものは、両足をつかまれ頭を下にしてひきづられ、あるものは4人で両手両足をもたれ、あるものは、車の荷台に放りあげられ、という具合にして、第二体育館に引きづり込まれた。
・体育館でマットと平行棒をおいたところに並ばされた。ある先生は、そのとき口から血を出してものをいえないくらいだった。Yという女の先生は、そこでいきなり髪をつかまれて、突き倒された。
・バラバラにして解放研と話し合うことを要求した。それに対して同じ事を繰り返すものには
 バケツで水をかける
 首筋をつかんで引き回す
 なぐる
 足首の上に革靴でのって、ぎりぎりやる。
・暴行は夜の10時までつづいた。解放研と話し合うことを認めたものは、会議室につれこまれた。そこで「自己批判書(確認書)を書くことを迫ってくる。
・再び体育館にあつまられ、糾弾を受けた。
・丸尾は、片山先生に「おまえは確認書を書いたが、自主的に・主体的に書いたんだな」という。片山先生が拒否すると、後ろのものが「殺してしまうぞ」と怒鳴る。こうして認めさせてしまった。
② 生徒たちは(略) (生徒たちが丸尾一派に抗議した感動的な話がここでも報告されました)
③ 校長と警察は(略)
④ その後おこっていること(略)

(六)真実を伝える「調査報告」活動
 私は、ガリ刷りの「報告書」をつくって、和教組県委員会で報告しました。ところが、当時、社会党が「解同」丸尾一派を擁護する立場に立っていました。和教組の役員の中にはごく一部ですが「暴力がふるわれたという事実があるかどうかわからない」と主張する役員もいたのです。私が、見てきた事実を報告したときでも、「この報告は、一方の側の意見しか聞いていない。『解同』の意見を聞きに行っていない報告書は『欠陥報告書』だ」と主張するある支部の支部長までいたのです。
 その後、和教組は、異論を持つひとたちを含めて「調査団」を出すことになり、私は三度、この地にむかったのでした。解同を擁護する人たちは孤立していきました。さらに私は、その年に海南市で開かれた県責善教育研究集会全体会議で、西滋勝先生の「自主的民主的な同和教育の教訓」の講演のあとで、特別報告として「八鹿高校調査報告」をすることになります。和教組本部としては、八鹿高校での解同の暴行を批判する確固とした見解を表明することができました。
 その1974年12月19日の夕方、私は、たしか和教組本部にいたとおもいます。テレビで衆議院予算委員会の中継が流れました。日本共産党の村上議員が八鹿高校での解同の無法・暴力問題を追及したのです。
胸のすく思いが今でも忘れられません。 それをきっかけにして、「解同」の無法・暴力が広く知られることになります。校長先生たちが競って「赤旗日刊紙」を講読したいといってくれます。真実を伝える新聞は、ほかになかったのです。
その歴史的時期に自分の判断で朝来町に足を運び、また八鹿高校事件ではその直後に駆けつけて、真実を和歌山の皆さんに伝える役割を果たすことができたことは、私の誇りとなっています。
 私の友人の植西一義くんは、当時、日本福祉大学の学生として支援に入ったそうですが、「手を合わせて拝むようにしてくれたおばあちゃんの姿が忘れられない」とよく話してくれました。
 八鹿高校の先生方、朝来町の橋本先生などのたたかいは、多くの人たちに感動を与えてくれたのです。
                     (2014年6月10日 記)

[PR]
# by saikamituo | 2014-08-18 09:50