雑賀光夫の徒然草

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憧れの山・生石

あこがれの山・生石山


 4月29日は、生石山の山開きでした。

「大型風力発電で生石山の自然をこわすな」というプラカードを持っている方がおられます。ならんで記念写真をとらせていただきました。

挨拶の順番でしたのでこんなことを申し上げました。

 「生石山というのは、私にとってあこがれの山でした。小学生のころから友だちと何度も上りました。

 あるとき、上る途中で、薪のようなものを引きずって降りてくる少年たちに出会いました。私たちより少し年上だったでしょうか。

 『あの子ら鍛えてるからあんな仕事もへいきなんやなあ』

 尊敬と憧れの気持ちをもって、友だちと言い交したことを思い出します。

 この生石山の自然をご一緒に守っていきたいと思います。     (さいか光夫)

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# by saikamituo | 2018-05-13 18:10

「日本経済の時限爆弾」を読む

「季論」春号「日本経済の時限爆弾」(小西一雄)を読む


(1)昨年、和歌山大学名誉教授・森川博先生の「卒寿記念文集」に寄稿を求められた文章を私は次の言葉で締めくくった。

ところで、いま、アベノミクス(黒田金融政策)についての本質的な批判が求められていると思います。その批判は、「アベノミクスで庶民の暮らしはよくならない」という批判(それも必要ですが)ばかりではなくて、「アベノミクスは、日本経済と庶民の暮らしを地獄に突き落とす」という批判です。いまでも地獄という苦労している方もいらっしゃるが、全国民が地獄になる経済破綻に行き着くと思うのです。

同時に、「地獄に突き落とされる前に安倍内閣をやめさせよう」という運動が必要です。

 かつては、「恐慌のあとに革命がくる」という「恐慌待望論」がありましたが、それではだめだということになりました。私たちも「黒田金融政策破たんの必然性」を見抜きながら「待望論」になってはいけないと思います。

 「介護大改悪」などを見ると、地獄への道は、がけから落ちるような破たんの前に、坂道をずり落ちるような道なのかも知れません。

 森川経済学による分析をお聞きしたいところです。(2017年1月) 

(2)きょう、「季論」という雑誌の目次をくって表題の短い論考をみつけた。昨年、私が期待したまさにそのものである。小西一雄さんという方は、1948年生まれの立教大学名誉教授。新日本出版社などからは本を出されていないが、以前、雑誌「経済」にかかれた論文が、ものすごくわかりやすかったという印象を私は持っている。 

 目次から紹介しよう

はじめに 黒田日銀総裁の5年間

1 中央銀行信用の限界についての過去の教訓と未知の経験

2 日銀のバランスシートが傷んでいる

 日銀保有国債利回りの低下

 日銀の債務超過への転落の可能性

 バランスシートが悪化した中央銀行信用はどのような形で失墜するか

3 印刷機で富を生み出すことはできない

    …インフレーションの問題

4 おわりに…異次元金融緩和政策の後遺症

(3) 終わりの方で次のように書かれている。

 「アベノミクスには、さまざまな害悪がある。だがわけてもアベノミクスの最大の害悪は、本稿が見たように、異次元金融緩和政策によって財政金融政策の崩壊の可能性、金融資本市場の崩壊の可能性という時限爆弾を日本経済にビルトインしてしまったということである。一刻も早くこの時限爆弾を取り外して、アベノミクス全体を終わらせることが必要があるが、この政策転換の過程もまた日本経済にとって厳しい試練にならざるをえないであろう。…安倍政権と黒田日銀がはじめてしまった歴史的愚行の取り返しのつかない後遺症に、我が国は今後悩まされることになる。」

この論文の最後には(2018年2月 黒田日銀総裁続投のニュースを聞きながら)と書かれている。私の問題意識と全く同じだとうれしくなる。だが、「うれしい」と言っていられない恐ろしい真実だ。

ただ、金融政策の専門家だけあって、私の知らないこともいっぱいあって、たった12ページの論文だが、何回も読み返さなくてはと、拡大コピーして寝床に持ち込んでいる。

               2018年4月  雑賀 光夫


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# by saikamituo | 2018-04-26 22:49

森川経済学の神髄

森川経済学の神髄

☆ 森川先生が卒寿になられたのですね。

 私が議員になってから、海南の商店街に「赤旗」集金にいく衣料品店があります。ふとしたことでご主人が、森川ゼミ生だと知りました。「あの頃は、資本論ばかり読みましたよ」といわれます。かなり前の国政選挙の時、「森川先生から手紙をいただいた」と言われました。そのお店に立ち寄るたびに、森川先生のことを思い出していました。

☆ 森川先生にかかわって思い出すのは、学習協30周年の座談会のことです。私が司会をしました。「森川先生どうぞ」と発言をお願いした後のやりとり。

「★森川(前会長・和歌山大名誉教授)

学習協とのおつきあいは古いんですが、北又安二先生(元和教組委員長・故人)がなくなって、そのあとを受けついだんです。20周年のころ会長をしていたんですが、そのとき学習協のあり方について雑賀さんからの批判がありまして………。学習協無用論みたいな………。他の人からの意見ならともかく、雑賀さんが言い出したというから………。

★雑賀

いや、ずいぶん乱暴な提案でおはずかしい。私は、「草の根の学習運動の軽視」という自分なりの自己批判をしています。あれから、松野くんは私の提案には、警戒心をもちましてね。このごろやっと信用してくれるようになったかな。」

 その後も、なんどか紹介したエピソードですが、ご心配をおかけしたことを、改めてお詫びしたいと思います。

今日は、一度もお話ししたことのない、森川先生の講義でうけた衝撃を紹介したいと思います。

高度経済成長の極限でおこった、田中角栄の時代の狂乱物価のときです。1974年だから、今から40数年前のことです。

 スーパーから、インスタントラーメンも、トイレットペーパーもなくなった、いわゆる「物不足」で日本経済は大混乱になったのでした。そのとき、海南市の市民会館で行われた(地区労主催だったとおもう)で、森川先生が話をしてくれたのです。

 「物不足というけれど過剰生産(物余り)です。いろいろな分野で値崩れがはじまっていますよ」

 「ええっ」という感じで聞きました。その時の経済の本質は過剰生産だったのです。

 のちに林直道先生の「今日の日本経済」をつかって、私もあちこちで話しました。

「物不足の本質は、過剰生産だ」「過剰生産のために、資本は設備投資できなくなった」「そのお金は、土地に、株式に、そして最後には、トイレットぺーパーの買い占めにまでいたった。」

「過剰生産が、その逆の物不足として現れる」「マルクスは本質がそのまま現象するなら経済学(科学)はいらないと言っている」という話を労働学校でしましたが、その根本は、森川先生の話を聞いて「ええっ」と思ったことだったのです。森川経済学の神髄です。

 「数10年前のことをよく覚えているのは、おまえは老人になったからだ」とからかってはいけません。物事の本質にかかわる認識の問題だったからいつまでも思い出すのです。これは、72歳になった年寄りの独り言。

*森川先生が退官より前に何か本を出されて「これが森川経済学の神髄です」といわれたような記憶があって「神髄」と書いたのですが、思い違いかもしれません。

ところで、いま、アベノミクス(黒田金融政策)についての本質的な批判が求められていると思います。その批判は、「アベノミクスで庶民の暮らしはよくならない」という批判(それも必要ですが)ばかりではなくて、「アベノミクスは、日本経済と庶民の暮らしを地獄に突き落とす」という批判です。いまでも地獄という苦労している方もいらっしゃるが、全国民が地獄になる経済破綻に行き着くと思うのです。

 同時に、「地獄に突き落とされる前に安倍内閣をやめさせよう」という運動が必要です。

 かつては、「恐慌のあとに革命がくる」という「恐慌待望論」がありましたが、それではだめだということになりました。私たちも「黒田金融政策破たんの必然性」を見抜きながら「待望論」になってはいけないと思います。

 「介護大改悪」などを見ると、地獄への道は、がけから落ちるような破たんの前に、坂道をずり落ちるような道なのかも知れません。

 森川経済学による分析をお聞きしたいところです。

                  2017年1月  雑賀 光夫


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# by saikamituo | 2018-04-25 21:51

論争よ、おこれ

論争よ、おこれ・不破哲三氏の業績をめぐって

(一)

 不破哲三氏の「古典講座」というものが、日本共産党中央主催でおこなわれ、インターネットを通じて広く受講されている。私も、一応は「受講者」となって、インターネットを通じて、あるいはCDで、覗いてみる。

 あまりきっちりと受講するわけでなく、不破さんの「通説」を超えた解説について、「古典への招待」(全三巻)でもう一度、読み直してみることにしている。限られた時間での「講義」よりも、「古典への招待」の解説のほうが、正確に読み取れると考えるからである。

 不破さんの年齢の限界もあるから、「古典への招待」から3年間の間に不破さんのマルクス・エンゲルス理解の発展は、もうないだろうとタカをくくっているが、もしもあるなら、真面目に受講した方が教えてほしい。

              (二)

 不破さんは、「資本論」について深く研究され、資本論第二巻、第三巻を編集したエンゲルスよりも深くマルクスにそって、マルクスの研究を再現していると思う。

 また、レーニンの著作と活動をあとづけ、その偉大な業績とともにその限界を明らかにした。その真骨頂は、不磨の大典と思われていた「国家と革命」が、マルクスの国家論から外れていたことを明らかにしたことである。党綱領から「プロレタリア独裁」ということばをはずした30年数前からの研究が実ったものであろう。

*「プロレタリア・ディクタツーラ」については、私は20歳代に、私なりの理解で論文を書いたことがある。レーニンのプロレタリアディクタツーラというのは、革命の極限状況で、「革命的合目的性が形式民主主義に優先する」という思想であることを論じた。

 「ゴーター綱領批判」の新しい読み方が、新綱領の大事な点になっているが、私にはいまだによくわからず、寝床に「綱領の理論上の突破点」という不破さんの本を持ち込んで読んでいる。

               (三)

 不破さんは、最近の講義で、「空想から科学へ」をとりあげ、エンゲルスの「資本主義的生産様式の矛盾」の問題点にふれた。「赤旗」の紹介では、エンゲルスを乗り越えた不破さんはすばらしいという賞賛が紹介されていたように思う。

 「古典への招待」では、「補論」として、7ページほどでふれている。これまで「通説」としてきたものが、7ページのコメントで覆るということがあっいいのだろうかという違和感を僕は持つ。

 どっかにエンゲルスの定式を論じた論文があったと思って、本箱を探した。「現代世界とマルクス理論の再生」(中村清冶・大月書店・1992年第1刷)である。ソ連崩壊の直後の思想的苦闘の時代の著作である。

 「第1章 宇野経済学がとらえた『ソ連型社会主義』破綻の構図」に「3 エンゲルス定式の意味内容」という節がある。

 そこでは、

エンゲルスの規定「生産の社会化と資本主義的取得との間の矛盾」

レーニンの規定 「生産の社会化と領有の私的性格の矛盾」

スターリンの規定「生産の社会的性格と生産手段の私的所有との矛盾」

と紹介されている。

宇野経済学では「資本主義の基本矛盾」を「労働力の商品化の無理」とされるそうだが、宇野学派の柴垣教授が、ソ連崩壊の根拠を「生産の社会的性格と領有(所有)の私的(資本主義的)性格」にもとめていることなどについて、中村清冶氏は、エンゲルスの規定から離れたものを批判している。

僕は、エンゲルスの規定、レーニンの規定、スターリンの規定のちがいなど考えたこともなかった。僕は「生産の社会化と取得の私的・資本主義的形態」として、この問題を解説していたような気がする。これは、3つの規定のなかの、どれに当てはまるのだろうか?

私のいい加減さは、いつも告白していることだから、別に罪悪感もないが、中村清冶氏が、ソ連崩壊の時期の混迷のなかで、エンゲルスを擁護して奮闘していたという事実だけを記憶にとどめておこう。私の知らないところで、エンゲルスの規定をめぐるさまざまな論争があったにちがいない。

 こうした問題が、不破さんの「古典への招待」の7ページのコメントで決着がつくとしたら、これまでの学術論争は、一体なんだったのか。

             (四)

 不破さんの労作で気になるのは、先行研究が全く紹介されないことである。「私は前から気になっていた。今回研究してみて、こんな結論になった」という言い方をする。論争は、不破さんの頭の中でおこなわれている。

 マルクスの「資本論」であれば「資本主義社会の冨は、膨大な商品の…」という書き出しから(注)があり、自著の「経済学批判」が初出であったことを指摘する。学問世界では、これが誠実な態度だとされる。

 私は、綱領改定のときの「新しい帝国主義論」が、1960年経済評論1月号の上田耕一郎論文「日本帝国主義の評価について」の発展であると論じたことがある。当時の「経済」編集長とメールのやりとりをした。編集長は、私の感想を上田耕一郎さんにとどけてくださった。「上田さんは、こんなことを勉強している人がいるんだね」と驚いておられたということだった。私が送った「読者欄への投稿」は、編集長氏のアドバイスを得て多少修正したものを載せることになっていたのだが、編集部内で「情勢も違うから誤解を生む」という議論があるということだったので、「これまでのメールのやりとりはなかったことにしましょう」「ありがとうございます」というやりとりでけりにした。その代わり「選挙で忙しいときだから、落ち着いたとき上田さんの感想をお届けします」という編集長氏は約束された。その約束が果たされないまま、上田さんはなくなられた。約束違反だから、私は、「経済」読者欄に投稿する予定の文を、「和歌山学習新聞」に投稿しておいた。

 そのことで私の恨みをひきずるつもりはないが、不破さんの研究についての学会の討論・論争が全くないことについては、大変気になる。

 かつての「田口・不破論争」のあと、中野徹三氏の不破批判論文以後、マルクス主義に近いところでの不破さんの研究についての論争を私は目にしていない。「田口・不破論争」が、研究者に論争を躊躇させることになっていないのならいいがなと思う。そんな思いから不破氏の輝かしい研究に瞠目しつつも、ある種の危うさを感じないではいられないのである。

        

             2011年10月12日記


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# by saikamituo | 2017-12-31 13:58

月報100号によせて

月報一〇〇号記念によせて


 和教組書記局の私のポストに、「月報一〇〇」を入れてくれていた。例によって裏返して「一人一話」から。世古淳二さんが、考えさせてくれるエセーを書いてくれている。問題をとらえる目の確かさを感じながら表を引っ繰り返した。「月報一〇〇号記念」となって、山田昇先生が寄稿してくれている。読まずばなるまいと、山田、楠本、岩尾先生の苦労話を読んだ。
 山田先生が書いている「青表紙」(実際は黄緑表紙・国民教育運動特別分科会報告書)、若い先生は知っているだろうか、一九六〇年代のなかば、御坊小学校の「学年新聞大地」の実践(「青表紙」には、「この実践を『大地の実践ということに矮小化してうけとめてはいけない』という趣旨の総括をしている)、北条先生(県会議員だった北条先生の兄さん)などの上富田中学校の「モンチを高校に行かせる会」などの実践、そして私も参加した市立野上中学校の実践など分析されている。時の教文部長は、岡本デンスケ先生であったことも書き添えておいたほうがよかろう。暇のある人は、一九八七年の和教組定期大会議案が「たたかいの経過と総括」の「はじめに」の部分で、この時期の教育運動の評価にきわめて簡潔にではあるがふれているので見ておいてほしい。
 山田先生がふれている「青表紙」が「途中でしばらく休んでしまった」のち、やや性格を変えて「和歌山の教育運動・教育実践」として登場するのは、一九七八年である。実は、一九八七年度(八八年三月)の「特別分科会」で和教組書記次長であったわたしは、飛びいり発言をしていまる。(その発言原稿を、一九八四年の「月報・三七号」に載せていただいる。わたしは、教育研究活動の発展のためには「組織教研・自主的な教育サークル・底あげの教育基礎講座・もっとも幅広い学校での民主的な現職教育」の「四つの研究組織論」を唱えたのだが、あわせてその「総路線」のまとめの場としての「国民教育運動特別分科会」の意義と「青表紙」復活を訴えたのだった。その時、山田先生が、研究集会の「まとめ」の中で、「青表紙復活」を「公約」してくれた。復活した「報告書」に「不満を感じていた人たちもいるにちがいない」と山田先生が書いておられる。実は、私は不満を感じ、「昔みたいな青表紙を」といいつづけてきた一人なのです。(ノスタルジアだろうか、しかし、碓井先生が中心になって、私の願いをかなえてくれそうだといううわさも聞く。)
 楠本先生が、「合宿の夜が『月報』誕生の場」と書いている。あまりお酒を飲まない楠本先生は、夜中まで飲みながら語り合うということはせず、賢く寝てしまったのだが、わたしは山田先生が好きなビールにつきあっていた。「原稿が集まらないのなら、私が書いて埋めます。」山田先生の、この一言が、「月報」発行に踏み切らしたカウンターパンチだった。
 楠本先生は、真面目な完全主義者である。いいかげんなやっつけ仕事は、できない性格である。購読者をつのってお金を集めているのに発行がおくれるので書記長のわたしは焦った。「中身など多少不十分でもいいから、毎月発行できるようにしてほしい。教研集会のレポートを順番にのせても格好はつくじゃないか」楠本先生は、ガンとして聞かない。研究者と運動家の違いだろうか。結局、一九八二年が空白になっているが、一年間発行がとまったのでなく、発行がおくれてズレこんできたものを調整し、一年間空白にし、購読料も損をさせないようにしたのである。
 教育研究所事務局長・楠本先生と岩尾先生とのつなぎの時期、わたしがやっつけ仕事で誤魔化した号がありる。「三四号」の湯浅教育調査特集、「三五号」の若い先生におくる教育の手がかり、「三六号」の風の子共同保育所のとりくみなど。わたしのやっつけ仕事にもかかわらず素材の立派さで救われている。「教育の手がかり」は、「和教時報」に白井春樹先生が集めた「三人の先生は語る」という特集を転載したもの。教育実践家の白井先生は、和教組常任になり情宣を担当すると、「和教時報」の紙面の半分を教育実践の紹介で埋めてしまった。書記長のわたしは、それにクレームをつけ「紙面のバランスを考えろ。組合の機関紙というのは、駅弁みたいにすこしづついろんな分野のことが書かれていなくてはならないんだ」といったのですが、白井先生が集めてくれた教育実践はすてきなものでした。その次の号も、白井先生夫妻が全国教研に参加するのに作ったレポートをそのまま載せさせてもらいました。
 「五五号」の「四つのテーブルのシンフォニー」も、わたしの請負作品です。「光協会」(森永ヒソミルク被害者救済組織)の二〇周年集会に参加して感激してしまったわたしは、そこで発言した人たちをつかまえて、「今日の発言を文章にしてくれ。」とたのんでまわったのです。そして岩尾先生におねがいして作らせてもらったのがこの特集です。
 教育研究所の「月報」に、和教組書記長がこんなに口出しすることは良くありません。「月報」が軌道にのる過渡期だったから許されるでしょうか。教師の仕事をまともにできないまま組合専従になってしまったわたしにとっては、こんなかたちで教育にかかわることができたのは幸せなことでした。
(月報一〇〇号を手にした日に書いたもの・後になってワープロのフロッピー   を整理していたら出てきたので多少手直し・和教組副委員長・雑賀光夫)



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# by saikamituo | 2017-03-21 18:34

「国民教育運動特別分科会への報告」

教育研究・実践の発展のために

一九七八年三月二〇日「国民教育運動特別分科会への報告」
     和教組書記次長(当時) 雑 賀 光 夫
 
【まえおき】
この一文は「特別分科会」で発言するために書いてみた原稿です。この年(1978年)の分科会の最後に、本文の内容の一部を発言させてもらいました。
 偶然の一致ですが、この年から和大の先生方の協力も得て十年間ほどとぎれていた特別分科会報告書が再び出されるようになりました。こんな発言をしたものとして、大変うれしく、つみかさねをお願いしたいと思っています。
 今年の「特別分科会」は、統一労組懇の総会とかさなってしまいました。感動的な報告が多かったというはなしを聞いています。ところで、その会が終ってから和大の西滋勝先生が「かつては和教組の役員がみんな、現場の実践から学ぶ場として『特別分科会』に出席したものだったのですが……」ともらされたそうです。六年前、自分が発言したことを逆に指摘されたようで、穴があったら入りたいようを気がしました。
 今から読み返してみますと、恥ずかしくなるような気負いや、当時わからないまま読みかじっていた見田石介先生の弁証法についての論文から「弁証法のヘーゲル主義化」などということばをひいているところなどあり、書きなおそうかと思ったのですが、文章というものはなおしはじめるときりがなく、勢いがなくなるものですから、恥ずかしい文章のままでご検討いただきたいと患います。
(一九八四年三月)
【まえおき 後記】
 ふとした事情で、1978年に書いて数年後に民研「月報」の原稿不足につけ込んで載せてもらった一文を引っ張り出した。赤面するばかりだ。「まえおき」で言いつくろっているがそれでもはずかしい。
 ただ「4つの教育研究組織」のそれぞれの役割と当時の「国民教育運動特別分科会」の果たした役割、それに付け加えて森畑教文部長が民研の役割を「コントロールタワー」と呼んだことがあるが、そうした問題意識で論議したことは、いまでも意味のあるように思うのです。    2014,7  雑賀 光夫

一、国民教育運動特別分科会の位置づけ

 国民教育運動特別分科会は和歌山県の教育研究・実践・要求運動(以下教育運動)の総路線を総括し、発展させる場である。教育運動とはどういう内容を含むのか、箇条的にあげてみよう。
(1)教師による教科教育実践
(2)教師による教科外教育実践(問題別ともいう)
(3)それらのための教育研究運動(サークル・種々の教研集会、官制・半官制研究会、現職教育など)
(4)民主的な学校づくりと教職員集団
(5)父母とともに進める教育運動(教育そのもの、教育条件、教育環境)
(6)研修権
 まだ、ぬけおちているかもしれない。これら多岐に上る内容は、それぞれの研究集会、また分科会で深められなくてはならない。そこで深められたものをもちより、今日の教育をめぐる情勢、こどもの現状との関係で、民主的教育運動の発展をあとづけ、発展方向を
さし示すために太い線をひく岳このことこそが「国民教育運動特別分科会」でなくてはならない。
 そうだとすれば、「特別分科会」はいかなる方法で開催され、運営されなくてはならないのか。
(1)県下の民主的教育運動にとりくむ、もっとも精力的な人たちをすべて結集しなくてはならない。そこには、教育実践家・教育運動家とともに、教育研究者が含まれる。この分科会を軽視して教研集会の助言者をつとめるなど、おこがましいというほどに、この分科会の権威をたかめなくてはならない。
(2)参加者は、開会のあいさつから、最後の総括にいたるまで参加し、討論を深めなくてはならない。
(3)とりわけ、教育をめぐる情勢とこどもの現状、一年間の教育動の総括を含んだ基調報告の討論が重視されなくてはならない。
(4)教研集会の分科会での報告と、この特別分科会の報告が、同じものであってはなら
ないと思う。教研集会の討論を経てねりあげてき、理論化されてきたものが、基調報告を中心にして、それをどういう面から深めるか、なにをつけ加えるか、どう批判するかという観点を明らかにしつつ、報告されなくてはならない。一個人がそれを十分整理できないときは、集団的に整理し、理論化すべきである。
そのため、基調報告は、事前に会報告者のもとにとどけられる必要がある。たとえ「草案」にとどまるとしても……。
(4)「特別分科会」の「まとめ」は、三カ月以内に完成し、夏休み前に配布する必要がある。「まとめ」 にあたっては、ことなかれ主義の「まとめ」でなく、大胆に問題を提起し、討論をよびかけなくてはならないと思う。仮説は、その後の研究と実践の中で訂正されることがありうる。訂正されることをおそれて、仮説を提起しないところに、理論の発展はありえない。仮説を提起する大胆さと、集団的な討論、実践による検証から学ぷ謙虚さをもとうではないか。
   また、三カ月でまとめる問題についていえば、より完全なものを一年後につくるより、不完全なものでも、すぐにつくりあげることが大切である。われわれは、教育運動の歴史をきりひらいているのであって、歴史をまとめているのではない。もちろん、歴史をまとめ、正確な総括をすることは必要である。そのためには、それにふさわしい委員会をおくべきだ。

二、教育研究運動の発展のために… 立体構造をもって研究はすすむ …

1.教育研究運動の質と量
 質と量というのは、だれもが口にする。ただ「量がふえることによって質も高まり、質が高まれば畳もふえる(注1)」かのように考える俗論には注意しなければならない。「量がふえたからといって質は高まらない。質が高まったからといって量はふえない。そして、量と質それぞれを高める努力をしないとあるところまでいけば、量も質も頭うちになる。したがって、質と量をそれぞれ独自の課題として追求しなくてはならない」というのが正しい。   
教育運動の発展のために、後者の立場「質と量をそれぞれ独自の課題として追求する」ということが求められる。それを研究運動論として展開しようとするのが、小論の課題である。
 (注1) 見田石介著作集第一巻参照
 見田氏の弁証法研究は、このように、わたしたちの実践上の課題の解決に重要な示唆を与えている。

 2.教育研究をすすめるさまざまな組織
  ① サークル
 サークルを特徴づけるものは質の高きである。サークルの中には若い教師があつまってつくったものもある。いかに未熟でも、そこには質の高さがある。
それは、なぜか
 サークルは、いかなる強制にもよらず、教育研究をしたいものがその内容にひかれてあつまってくる研究集団である。出張命令が出されたからあつまるのではない。(このことは、出張になって悪いということではない。出張をかちとることは大切だが、出張扱いされなくてもサークル員は寄ってくるということ、-念のため)組合から動員割当があるわけではない。サークルからのよびかけと、サークル員の自主的・自発的な参加に支えられた研究活動―そこから、きわめて質の高い実践と理論が生まれた。若い未熟な教師たちのあつまりであっても、サークルがつくられているということは潜荏的な質の高さである。
 そこから生まれた理論や実践は、水道方式、生活綴方、生活指導、新英研の実践など数多くある。ただし、わたしは、サークルが生みだした一つの教育方法をとりだして、それをその分野での唯一の民主的・科学的なものであるかのように主張することはさけた方が良いと考えている。それぞれのサークルが、その中でつくりあげた教育の内容や方法を、おたがいにぶつけあい、論争することは良いことである。しかし、学校の中で全教職員が一致してとりくむ場合、どんな小さいことからでも一教点をみつけて統一したとりくみをすすめることが大切な場合が多い。
 サークルの会合や教研集会でよく聞く発言。「学年でなかなかそろわないので、わたしだけ教科書をはなれて『わかるさんすう』でとりくんでいますが、まわりの先生に気をつかいます」
 「学級通信を出していますが、まわりの人からいやがられるみたいです」
 「学級通信を出すのに、年上の先生に相談したら『若い者はやりたいようにやったらいい、しっかりやれ』と言ってくれました。それで出しはじめたのですが、五学級中、出しているのは二学級だけです。……」
 このように、孤立しながらでもサークルで学んだことを学校に持ち帰り実践している若いサークル員たちに、心から拍手を送りたい。孤立していいというのではない。孤立しないようにする仕事は、若い人たちにまかせるのでなく、みんなでやろう、さしあたり孤立しながらでもとりくんでいることに拍手を送ろうということである。
 「一致したとりくみ」 については、あとでのペる。
  ② 教育講座
 サークルなどがつくりだした教育研究・実践の到達点を学ぶ場である。日教組も「力量をたかめる講座」を開いてきたし、和教組・民研が中心になって 「算」「国」の「教育講座」を開いたことがある。今次沖縄教研の翌日、那覇支部が全国からあつまった一流の実践家をあつめて教育講座を開き注目をあつめた。また、各支部の総学習の中で最近、この種のものがとりあげられることが多くなっている。
 ただ、ここで、①の補足もかねて、一言つけ加えておきたい。学ぶべき実践がどこにあるかという問題である。
 研究組織、研究運動を論じているので、どうしても「サークルが生み出した実践」という言い方をしてきたが「サークル」という形をとらなくても、個人で、あるいは同好の士のよりあいとしてすぐれた研究をしたり、すぐれた教育技術を身につけている人たちが、
いたるところにいるということである。四〇代・五〇代の先生の中には、サークルの会合に顔を出すかどうか、組合活動に熱心かどうかには無関係に、すぐれた教育の専門家が多くいる。とくに、若い人たちの場合、「民主的」という形容詞なしでもよいから、「教育の基礎」を学ぶべきだといえないこともない。学校の中で、先輩の授業をどんどん見せてもらい、良いものはどんどんぬすみとりながら、さらに、その上に、今日の教育課捏や教科書をのりこえて民主教育を発展させる理論や実践について「教育講座」で大いに学ぶ必要があろう。
  ③ 教育研究集会
 「教育講座」は、「教える→学ぶ」場であるのに対し、教研集会は「実践をもちよる」場である。それがサークルと違うのは、きまざまな考え方の人が実践をもちより討論する場だということである。(注2)
 これには、組合数研の他に和同教、同推協、教科別研究会、きらに行政当局も参加して開かれる研究会がふくまれる。
 (注2) サークルと教研を「立場の一致」「ちがい」という面から区別したが、この区別は相対的である。

  ④ 現職教育を軸にした学校ぐるみの教育研究と実践
 以上、さまぎまな研究会について述べてきたが、そのもっとも広い土台は、なんといっても学校現場である。そこには、さまざまな考え方、教育方法でとりくんでいる教師がいる。ここでのとりくみで、もっとも大切にされなくてはならないことは、「一人ひとりの
持ち味を生かしながら一致点で統一する」ということであろう。
 学力・非行問題が大きな問題になっている中で「算・国の基礎学力をたかめるとりくみ」「地域ぐるみで非行をなくすとりくみ」「生徒の基本的生活をたて直すとりくみ」などが学校ぐるみでとりくまれていることは、きわめて貴重である。

 以上、四つの研究組織は、それぞれ独自の役割を果たし、一つのものが他のものにとってかわることはできない。たとえば、サークルの性格を教研集会の分科会におしつけたらどうなるか。たとえば、音楽の分科会の場合について考えてみよう。現場には「うたわせること」を中心にして指導している先生もおれば、器楽に重点をおいている先生もいる。サークルでは、どちらかといえば「うたわせること」が主流であろう。しかし、それがそのまま教研集会の分科会になってしまって、器楽の実捗が教研集会に出されなくなってきたら、それは教研集会の自殺行為であろう。
 あるとき「サークル連協の分科会は生き生きしているのに、教研集会の分科会は、それほど生き生きしていない」ということが話題になったことがある。たしかに、これまでの県教研は多くの分科会をかかえ、昨年の総括をふまえて分科会の内容をどう発展させるかという系統的なつみあげ、準備が十分でないことも事実である。しかし、同時にサークルのあつまりと教研集会を同列にして「討論がふかまりにくい」と単純にいうこともどうだろうか。
 先にもふれたように、いくつかの地城・学校では、算・国などの基礎学力をひきあげる学校ぐるみのとりくみが行なわれている。そこでは、ベテランの先生も、新任の若い先生もー致したとりくみをしている。しかし、同時に、算数・国語・社会・理科……それぞれの分野で自らの力で研究や実践を切り開き、典型をつくりあげていく開拓者がいて、その成果の一部が、みんなの一致したとりくみになっていくということがなかったら、教育の発展はないであろう。

3 再び「国民教育運動特別分科会」について
 質と量の問題、研究活動の立体的構造、四つの研究組織についてふれたことで「特別分科会」 の役割は、いっそう明らかになったと思われる。この分科会は教育運動の総路線を発展させる要なのである。


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# by saikamituo | 2017-03-21 18:25

自殺予告の電話をうけて

自殺予告の電話をうけて


1、自殺予告電話

「先生、こんな生活しんどいよう、死にたい、タスケテ」
こんな電話が、M中学校でありました。早速、職員会議が開かれ、対策を協議しました。校長はもちろん教育委員会に報告して指導をうけてきました。

2、生徒指導部から提案された方針は、次のようなものでした。

① すべての家庭に電話して、子どもの様子を聞く。
② 明日、全校集会をひらいて、いのちの大切さを訴える。そのあと、HRで話し合い感想文をかかせる。
③ 学級担任による個人面談をする。
④ PTA役員会を開き、保護者集会を開いて訴える。
などです。生徒指導の先生は、緊張した面もちで訴えました。「子どものいのちがかかっているのです。先生方、よろしくお願いします。いたずら電話かもしれないけれども、今はそんなことは考えずに、電話の主をに死ぬことを思いとどまらせることだけを考えてください。」

3、この提案を受けた職員会議で、議論がでました。

A そういう対症療法でなく、根本的な問題を議論すべきじゃないですか。
S 根本問題は大事だけど、いま、子どものいのちがかかってるんですよ。悠長なこと 言うってられないでしょう。
A 私は、緊急に電話したり、訴えたりすることに反対してるんじゃないですよ
S では、どういうことですか?
A 電話するにしても、学級での話し合いをするにしても、感想文を書かせるにしても、 根本問題の捉え方によって、まったくちがってくるんですよ。

こういうやりとりの後で、次のようなことで意思統一ができました。

① 電話では「こんな生活、しんどいよう」と訴えてきた。どの子でも、いま、追われるような、息のつまるような生活をしてる。電話してきた子が特別なわけではない。そのしんどさを受容することが大事だ。

② 電話してきた子が特殊だという見方で学級会をしたり感想文を書かせると、「特殊な間違った考えをした子どもの考えをなおしてあげよう」「特殊な子を見つけだして、説得して自殺を思いとどまらせよう」という取り組みになる。これでは、かえってその子どもを追い込んでいくようになるし、周りの子どもは、「変な電話をするやつがあったので、話し合いをさせられる」という受け止めをすることになる。

③ 他方、「みんなしんどいんだ」という立場に立てば、この子は、「死にたい」などと言っていることは間違っているけれども、みんなの気持ちを代弁してくれているということになる。教師が、そういう捉え方をして、学級指導すれば、子どもは感想文を書くのでも、「電話した子の考えが間違っている」ということが中心でなく、「僕もしんどい。逃げ出したくなったり、死にたくなったこともある」ということも含めて本当のことを書くのではないだろうか。

④ 「みんなしんどい」ということをいったん受容した上で、「しんどくても力づよく生きていこう」という指導は必要だ。それには、よく取り組まれる「励ましの手紙」に取り組んだらどうだろうか。「死にたい」と電話してきた子に「励ましの手紙」をかく。

* あるクラスで、日記につらい思いを書いてきたF子さんに「励ましの手紙」を書こ うと先生が提案しました。一人の子が言いました。「先生、F子さんは、誰かわから ないけどクラスの中にいるんでしょう。F子さんは、誰を励ますの?」先生はとっさ に応えました。「今日のF子さんが、昨日のF子さんをはげますのよ」
「しんどい、死にたい」と思っていた子が、「しんどいのは自分だけじゃない」「私 のしんどさを先生もわかってくれた」と感じたとき、しんどさを乗り越える力が、内 から生まれるのでは、ないでしょうか。その力を確認するのが「励ましの手紙」なの です。

⑤ 以上は「緊急対応」である。学校、教職員集団としては、「しんどいけどがんばれ」ではなく、子どもたちのしんどさをとりのぞく「笑顔あふれる学校づくり」をめざしてとりくまなくてはならない。


解説

1990年代のことです。私は、和教組副委員長だったでしょうか。
ある支部の、組合員が少ない職場で、「子どもの自殺予告電話があった。しかし、取り組みの正しい方向が出されていないので心配だ」という電話があり、私は現地に向かいました。でも職場に直接援助に入れるわけではありません。そんなことをしたら、「組合の介入」と言われかねません。
そこで私が、一計を案じて、「ある職場での【自殺予告電話】をうけての職場討議の記録」というものを作文しました。支部書記長が、この文書を「少し前のものだけどこんなものがあるんだ」といって、職場にとどけてくれました。
どれだけ役に立ったのかは、よくわかりませんが、「よくできている」と自画自賛しています。当時の岡本佳雄さんを中心にした「教育相談センター」の到達点をふまえたものだったと思います。
古いハードディスクから出てきたので、アップしました。(2016年3月)
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# by saikamituo | 2016-03-06 16:06

惚れ直す

惚れ直す

 栗原省さんから、岩城正男さんの追悼文集のお話をいただきました。私は、パソコンのハードディスクのどこかにはいっているはずのファイルを探しました。見つからないのです。そのファイルと言うのは、奥様の岩城史さんがなくなったあと、和歌山市の自宅にお伺いして仏前で高教組の書記の中井さんに読みあげていただいただいたものです。
 思い出しながら復元してみます。
《 僕は、夜、ふとんの中で泣いた。その日お参りしてきた亡き岩城史さんと正男さんのことを思い出しながら泣いた。
 岩城先生のお宅には南村先生、坂口先生、中村先生などがあつまっておられた。そこに正男先生がはいってきて「一人足りないのよう」(いつも一緒のメンバーなのにそこに史さんがいない)と言って泣きだされたのであった。お二人の絆を感じたのだった。
 このとき、僕はある場面を思い起こしていた。野間選挙の最後の局面だっただろうか。僕らは、名城ビルの教職員のセンターに最後の結集をしていた。正男先生が渾身の訴えをした。その訴えは、自分自身が身をもってがんばってきたものでなくてはできない訴えだと僕は思った。史先生と僕は、和室の壁際でならんで正男先生の訴えを聞いていた。僕は、史先生にささやいた。「今日はダンナに惚れ直したのとちがう?」と。
 史先生が亡くなったあと、正男先生から挨拶状をいただいた。そこには
「史と私が歩んだのは、一筋の道です」と書かれていた。》
 20年も前に書いた文章を、記憶を頼りに復元してみました。表題はたしか「惚れ直す」という言葉をつかっていました。文章の構成はすこし違っていたかもしれません。
正男先生の追悼文に史先生への追悼に書いた文をひっぱりだして代えるなどナマクラだと叱られるかもしれません。でも、私にはこれが正男・史両先生に一番よろこんでいただけるもののように思われるのです。
 正男・史先生、やすらかに。
           2014年7月
雑賀 光夫(日本共産党和歌山県議会議員)

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# by saikamituo | 2014-08-20 15:30

 「朝来町調査報告書」「八鹿高校事件調査報告書」のことなど

暴行翌日の「八鹿病院激励」「八鹿高校事件調査報告書」
「朝来町調査報告書」のことなど
        

         雑賀 光夫 日本共産党和歌山県議会議員
                 当時・和教組海草支部書記長

(一) はじめに
 八鹿高校事件から40年になるのですね。
 和歌山県部落解放連合会の元書記長・竹田正信君から「なにか思い出を書けるか」と電話をいただきました。
 早速、若き日に事実上私の責任編集でつくったガリ刷りの「橋」(海南海草部落問題研究会機関誌)第8号を引っ張り出しています。
 そこには「朝来町調査報告」(1974年11月4日)と「兵庫県八鹿高校事件調査報告書」(1974年11月23日)が収録されています。どちらも、私が参加して、まとめ、自分でガリきりしたものです。二つの「報告書」をベースに書いてみたいと思います。
         
(二) 朝来町への自主調査
 「朝来町調査報告書」には、冒頭、次のように書いています。
 「朝来町で大変なことが起こっているという。『点検・確認・糾弾』という名のもとに、『解同青年行動隊』と名乗る人々によって、教育への不当な介入が行われているばかりでなく、教組朝来支部長・橋本先生宅がとりかこまれ、監禁され、流血の事態さえ生まれているという。
 解同中央本部との関係でこのようなことが行われているとしたら、和歌山県がかかえている問題でもあって、(注 当時、和歌山県の民主的部落解放運動は、部落解放同盟内にとどまっていた)私たちは決して無関心ではいられない。しかし、今の世の中でこんな事が行われているのに、一般の新聞が報道しないなどということがありうるだろうか。
 こんな疑問を持って私たちは朝来町に行ってみようと決心した。」
「とりくみにあたって、和教組海草支部は、教組の近くの支部、海南海草同推協、海南市同和室、海南市教育委員会教育課、市職労、市職部落研に呼びかけた。急なことでもあったので結果的には、教組の雑賀、同推協の藤田の二人で行くことになった。」
「私たちは、この事件の被害者である橋本先生や佐藤町議のほかに、町当局の話も聞きたいと思っていた。しかし、今日の朝来町では、それは大変な危険を伴うと聞き、前記2カ所のほかには、高教組和田山商分会の先生に会うにとどまった。」
30才の青年教師・海草支部専従書記長であった私は友人である海南海草同和教育推進協議会会長の藤田勉くん(27才)と二人で「現地調査」に出かけたのでした。
………………………………………
「報告書」から少しぬき出してみましょう。
① 橋本先生支援の人たちのマイクロバスに便乗して午前6時、竹田駅前へ。佐藤理髪店は、駅のすぐ近くにある。入り口の大きなガラスがわれたところにはベニヤ板をはりつけ……。
 佐藤理髪店で佐藤・西岡両町議から話を聞きました。
「但馬では解放運動は遅れていました。解同県連というのはなく、『解放県連』というのがあって、解同と同和会の両方に首をつっこんでいました。(その後解同県連になる)昭和48年の『西宮事件(窓口一本化要求)』を通じて『青年行動隊(隊長・丸尾)』が組織されました。(いろいろな事件を通じて、解同が発言権を増していきます。)
 和田山中学校に赴任したO教諭が「解放研」をつくり、「解放研ニュース」を壁に貼り回します。それへの反発から「解放研をつぶせ」というポスターを貼ったものがいました。これが「差別落書き事件」です。それをきっかけに「学習会を開くから出てくれ」と校長に申し入れ、校長は受け入れます。教組朝来支部は、その実態を見抜いていましたから、「この会にはでない」と決めました。それを切り崩し、「学習会」に出席させました。
 その場で、ある先生が「義務教育の中学校に解放研はおかしい」と発言したことを、教育長は「この発言は差別の生きた証言だ」といい、出席者に差別であるかどうかを確認させていきました。
 こうして、解同や「解放研」を批判する教組朝来支部の橋本支部長宅をとりかこみ、糾弾するという事態にまでなったというのです。
 こうした事態を批判するビラをまこうとしたら、取り囲まれ、糾弾され流血の事態も生まれたと佐藤・西岡両町議はいわれます。
 「ある人は私の家に来てビラを持って出ようとしたところを殴られ、引きづり回され、柱に顔をこすりつけられました。幸い失明をまぬがれましたが…」
② このあと、私たちは橋本哲朗先生のお宅にタクシーで伺い、お話をお聞きしました。佐藤さんは「アブナイナー」といわれたのですが、若かったのです。
③ 私たちはその「報告書」の「9 おわりに」として次のように書いています。
「私たちが話し合ったのは次の人たちです。
○ 佐藤町議 西岡町議
○ 佐藤さんの家の近所の本屋のおばさん
○ 弁護団の人々(少ししかはなせていません)
○ 橋本先生とその家族
○ 和田山高校の原田先生、西口先生
○ タクシーの運転手
このなかで、タクシーの運転手だけは、橋本先生の側にたっていない人でした。しかし、タクシー運転手から聞いた事実は、他の人々から聞いた事実と食い違ってはいませんでした。同じ事実をどうみるかという事だけは違っていました。
 (注)私たちがタクシー運転手と交わした会話を「報告書」から紹介しておきましょう。これは普通の住民の意識を示す「証言」として、そのまま「調査報告書」に収録したものです。
【調査団「この間から大変だったでしょう」
 運転手「佐藤さんにとっては不利でしょうな。今までみたいにやれないのとちがいますか。」「田舎のことですから佐藤さんの家に入っていくと、あの人もかと見られます。」
 調査団「このことについて批判はないのですか?」
 運転手「橋本先生のことで盛り上がりました。佐藤さんは、橋本先生の家に行って出てきたところを皆に取り囲まれたのを皆がみています」
 調査団「部落のことについてなにも言えませんね」
 運転手「なにも話できないというのは甘いですね。ビラなんか出しても効果ないですよ。町役場から指示が出ているので、私なんか読まないで左から右ですよ」(意味がとりにくい点もあるが原文のまま)】
……(調査ききとりをして)私たちが考えたことは「これはファシズムと一緒だ!」ということでした。
今の社会に不満を持っている人々を誤った方向にあおりたて、その力で労働組合をきりくずし、反共の方向に人々をあおりたて、反対する人々は暴力でたたきつぶしながら地域世論を操作する。これが、ファシズムのやりかたではないでしょうか」(「朝来町調査報告」より)

(三)和教組本部からの「八鹿調査要請」
その調査から半月もたたないうちに、私はまたもこの地に向かうことになったのです。「八鹿高校事件調査報告書」の冒頭に、私は次のように書いています。
 「11月22日の夕方、和教組本部から電話がありました。「兵庫県八鹿高校の組合員が『解同』丸尾一派に体育館に引きずりこまれ暴行を受けている。兵高教から一時間も早く来てほしいという要請があった。和教組として調査団を出したい。今夜からいってくれんか」
 電話してきたのは、和教組責善(同和)部長の岡本佳雄さんです。私は、即刻「行きます」と答えました。その半月前に、朝来町への調査に出かけ、『解同』に自宅を囲まれて脅迫されてがんばった橋本先生のお宅にも伺い、町の人たちからも「丸尾一派」の蛮行を聴いてきていたばかりですから、和教組本部からの電話の意味はすぐわかりました。そして、重大な問題の証人として派遣されるということが……。
その数時間後に和教組本部で堀井雅文さん・瀬村佳正さんと「調査団」をくみました。私は一番若かったのですが、支部の専従書記長、和教組では執行委員でしたので「団長」ということになり、夜九時、チャーターしてもらったタクシーで和歌山を出発しました。
 
(四)事件翌日の八鹿病院激励

 豊岡高校に着いたのは、翌朝、午前二時のことです。かんたんな状況説明を受けたあと、支援のみなさんと一緒に、大きな和室で寝ることになります。
 寝ようとすると、どこかに電話をかけている声が耳にはいります。
 「○○先生が行方不明……。水をかけられた。いっぱい? …杯?」
 暗い中でメモをしたのでしょうか。「報告書」にそう書いています。
 「翌朝5時50分起床。単独で行動できないため、支援に来ている高教組の人たちと行動することにした。私たちは京都から来た人たちと一緒に第7班にはいった。」と「報告書」には書かれています。
 はじめは、「ビラまきにいってもらう」という話だったのですが、現地の段取りの都合でしばらく待機していると、「八鹿病院に激励に行ってください」ということになったのです。
 「午前8時半に病院につき、9時から病室にはいりました。私たち3人がはいった病室では、被害者が眠っていて話を聞けませんでした。
 『隔離病棟にも入っている』ということでそちらに回ります。二つの病室に8人がはいっています。
 『何かみんなに伝えたいことはありませんか』と聞くと『僕たちあの暴力の中で確認書を書かされてしまった。それは認めずにがんばるつもりだが、がんばりきれるかどうか心配だ』寝たきりで体を動かすのもままならない方がおっしゃいます。
 隣の部屋の方は、体中きずだらけだが、まだ元気です。女の方がいらっしゃる。顔中、とくにまぶたが腫れ上がっていて、気の毒で目をそらせました。
 一人の先生がおっしゃいます。『生徒たちが先生を帰せとがんばってくれたそうです。そのことが一番大きな支えになりました。』
 「今日、バスケットボールの試合があるが、こんな状態なので相手の学校に連絡してくれませんか」といわれる先生もいます。
 付き添いの方が『警察は見ているだけでなにもしてくれなかった』と言います。
 9時40分に病院をでました。町を『解放車』が、『八鹿高校で集会を開きます。町民一人残らず集まってください』と叫んで走っています。ゼッケンやはちまきをしめて会場に向かう人もいます。」(ほぼ「報告書」のまま)
 あとからお伺いすると、私たちが病院に激励に行ったあと、警察にシャットアウトされ、入れなくなってしまったということでした。

(五)組合分会からの報告
 その後、豊岡高校にもどって八鹿高校の入院していない先生から当日のすさまじい状況を聴かせていただいたのでした。組合執行部として報告されたのは、後に私が和教組県本部書記長として日教組の会議などに出たころおつきあいさせていただくことになる西岡委員長でした。そのころは書記長だったでしょうか?
 私は、和歌山に帰ってすぐ、見聞きしたことを「報告書」にまとめました。その「報告書」から、私が聞き取った暴行の実態をもうすこし拾い出してみましょう。
(1)事件がおこるまで
・昨年(1973年)秋、解同県連・青年行動隊がつくられ、丸尾が隊長になった。
・今年の5月から、八鹿高校にも「解放研」をつくられはじめた。
・但馬では、奨学生の一泊研修会を開き、校長・教頭・同和主任が参加した。教育事務所長が「教師は敵だ」という教育をして、モデル糾弾会をし、校長・教頭から確認書をとった。
・校長は、夏休み中に二階の一番立派な部屋を解放研部室にし、看板をかけてしまった。
・教師集団は、このようにしてつくられた解放研との話し合い(糾弾会)には応じないという態度をとっており、解放研は「応じよ」と要求してハンストにはいった。
(2)11月21日におこったこと
① 校内でやられたこと
・集団登校してみると、解同が乗り込んできて異様な雰囲気なので、SHR(ショートホームルーム)だけやって、生徒は帰らせようと言うことになった。校長は職務命令を出して、授業をつづけよと命じた。
・それでも10時ごろから集団下校をはじめた。解同がきても町内に出ればなんとかなると思ったので、スクラムを組んで200メートルほどすすんだが、解放車にはばまれ、すすめなくなった。
・「これが解同の正体だ」とさけんだが、一人一人ごぼう抜きにされた。
・あるものは、両足をつかまれ頭を下にしてひきづられ、あるものは4人で両手両足をもたれ、あるものは、車の荷台に放りあげられ、という具合にして、第二体育館に引きづり込まれた。
・体育館でマットと平行棒をおいたところに並ばされた。ある先生は、そのとき口から血を出してものをいえないくらいだった。Yという女の先生は、そこでいきなり髪をつかまれて、突き倒された。
・バラバラにして解放研と話し合うことを要求した。それに対して同じ事を繰り返すものには
 バケツで水をかける
 首筋をつかんで引き回す
 なぐる
 足首の上に革靴でのって、ぎりぎりやる。
・暴行は夜の10時までつづいた。解放研と話し合うことを認めたものは、会議室につれこまれた。そこで「自己批判書(確認書)を書くことを迫ってくる。
・再び体育館にあつまられ、糾弾を受けた。
・丸尾は、片山先生に「おまえは確認書を書いたが、自主的に・主体的に書いたんだな」という。片山先生が拒否すると、後ろのものが「殺してしまうぞ」と怒鳴る。こうして認めさせてしまった。
② 生徒たちは(略) (生徒たちが丸尾一派に抗議した感動的な話がここでも報告されました)
③ 校長と警察は(略)
④ その後おこっていること(略)

(六)真実を伝える「調査報告」活動
 私は、ガリ刷りの「報告書」をつくって、和教組県委員会で報告しました。ところが、当時、社会党が「解同」丸尾一派を擁護する立場に立っていました。和教組の役員の中にはごく一部ですが「暴力がふるわれたという事実があるかどうかわからない」と主張する役員もいたのです。私が、見てきた事実を報告したときでも、「この報告は、一方の側の意見しか聞いていない。『解同』の意見を聞きに行っていない報告書は『欠陥報告書』だ」と主張するある支部の支部長までいたのです。
 その後、和教組は、異論を持つひとたちを含めて「調査団」を出すことになり、私は三度、この地にむかったのでした。解同を擁護する人たちは孤立していきました。さらに私は、その年に海南市で開かれた県責善教育研究集会全体会議で、西滋勝先生の「自主的民主的な同和教育の教訓」の講演のあとで、特別報告として「八鹿高校調査報告」をすることになります。和教組本部としては、八鹿高校での解同の暴行を批判する確固とした見解を表明することができました。
 その1974年12月19日の夕方、私は、たしか和教組本部にいたとおもいます。テレビで衆議院予算委員会の中継が流れました。日本共産党の村上議員が八鹿高校での解同の無法・暴力問題を追及したのです。
胸のすく思いが今でも忘れられません。 それをきっかけにして、「解同」の無法・暴力が広く知られることになります。校長先生たちが競って「赤旗日刊紙」を講読したいといってくれます。真実を伝える新聞は、ほかになかったのです。
その歴史的時期に自分の判断で朝来町に足を運び、また八鹿高校事件ではその直後に駆けつけて、真実を和歌山の皆さんに伝える役割を果たすことができたことは、私の誇りとなっています。
 私の友人の植西一義くんは、当時、日本福祉大学の学生として支援に入ったそうですが、「手を合わせて拝むようにしてくれたおばあちゃんの姿が忘れられない」とよく話してくれました。
 八鹿高校の先生方、朝来町の橋本先生などのたたかいは、多くの人たちに感動を与えてくれたのです。
                     (2014年6月10日 記)

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# by saikamituo | 2014-08-18 09:50

">「マルエン全集」に挑んだころ

「マルエン全集」に挑んだころ

           (一)
真田寿雄(明野進)さん
あなたにお会いしたのは、白浜で開かれた「労働運動」誌主催の労働学校の時でした。「労働運動」誌編集長であったあなたは、その司会をつとめられていました。あれは、1970年ごろのことだったと思います。
その後、あなたは1977年に和歌山に帰ってこられたのですね。共産党の幹部として奮闘されました。あなたは、1991年、県知事選挙で現職候補と対決されました。私はそのとき、県地評の事務局長でした。

           (二)
私の手元に「寺小屋ニュース」(No.1)(1987.3.1)という手作りのニュースがあります。それによると、この年の学習協新年旗びらきのあと、真田さんと私ほか2名が「二次会」をやった。その場で「マルクス・エンゲルス全集を読む会をやろうではないか」ということになったのでした。第2回例会で、マルクスの学位論文『デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異』を取り上げたようで、真田さんのメモが残っています。翌年の1月のNo.8のニュースでは、第10会例会で「哲学の貧困」をやると予告しています。
この学習会のニュース紙上で、真田さんは、私なりの唯物弁証法理解やエンゲルス「自然弁証法」への疑問などに対して、辛辣な批判をされました。私もまけずに言い返した記録を「明野・雑賀の飲んだくれ論争」(私家版)として印刷して大事に保存しています。そのなかで、あなたは若き日のことをお書きです。

 「僕は、戸坂潤の「科学論」を焼け跡の倉敷のある書店に行列して買った青春の日の興奮を、40年たったいま、ふと思い出した。S(雑賀)さんの「兆民先生」のお陰である。僕が軍国少年の日々に心酔した皇道哲学=天皇主義イデオロギーを粉々に粉砕したのは、この日の「科学論」ではなくて、「日本イデオロギー論」と「認識論」とであった。その戸坂が死をもって守りぬいた「唯物論研究会」で、日本の思想(哲学)史研究を担当し、戦後日本共産党に入党し、四三才でなくなった哲学者が、永田広志であった。
僕の「興奮」は、永田の四部作(「日本唯物論史」「日本哲学史」「日本封建イデオロギー論」「日本哲学思想史」)を読んで、頂点に達した。この四部作は、僕をその上半身だけではなく、下半身まで唯物論哲学の陣営に移行させてくれた。……(中略)……
ところで、神田の古本屋で「中江兆民全集⑳」を買って、「-年有半・続一年有半」を読み「精神のとらえ方など、機械的唯物論でなく弁証法的唯物論に迫っている」と“感激”されたSさん。
(永田広志は「日本唯物論史」の中で)…中略…「兆民のこのような唯物論的見解は、弁証法には無縁なものであった。……」(同上、二九七)とさばいたうえで、「中江の形而上学的唯物論を、弁証法的唯物論を混同することは無論許されない。」(同上・三○三~四)との結論を出している。
もちろんSさんは、兆民を「弁証法的唯物論者」と断じられたわけでは決してない。「弁証法的唯物論に迫っている」ととらえられただけである。残念ながら狭い誌面の中では、その「迫りかた」の具体的内容にふれられていない。それがとりだされると、わが永田広志を乗り越えるあらしい発見がもたらされるかもしれない。それともこの「迫っている」というとらえ方の中にこそ、Sさんならではの明哲保身術の極意をくみとるべきなのか。
ふと、久々の興奮をよびさまされたSさんの一文であった。」

この一文は、私が中江兆民の「続・一年有半」を読んだ感想をニュースに書いたことへの批判的コメントです。こんなやりとりをしながら学習会は2年近くつづいたのでしょうか。真田さんの文面には、雑賀をやっつけることを楽しんでいることが読みとれます。やっつけられながら楽しい時間でした。
            (三)
学習会の後お酒を飲み、私が知っているたった一つのドイツ語の歌Heideröslein 野バラをいっしょに歌った。私が啄木の「果てしなき議論の後」を語れば、あなたは藤村の「初恋」を語った。
今日、お葬式に参列してみると「繊維労働者の会」という花がとどいていました。そうそう、あなたは、繊維関係業界紙の記者をしながら、繊維労働者の学習会を組織し、そのなかで奥様と結ばれたのでしたね。この話を聞きながら、奥さんに導かれてイギリスの労働者の状態を研究したF・エンゲルスを連想したものでした。
思い出はつきませんが、この辺で。安らかに。

雑賀 光夫(日本共産党県議会議員)

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# by saikamituo | 2013-12-18 22:10