雑賀光夫の徒然草

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惚れ直す

惚れ直す

 栗原省さんから、岩城正男さんの追悼文集のお話をいただきました。私は、パソコンのハードディスクのどこかにはいっているはずのファイルを探しました。見つからないのです。そのファイルと言うのは、奥様の岩城史さんがなくなったあと、和歌山市の自宅にお伺いして仏前で高教組の書記の中井さんに読みあげていただいただいたものです。
 思い出しながら復元してみます。
《 僕は、夜、ふとんの中で泣いた。その日お参りしてきた亡き岩城史さんと正男さんのことを思い出しながら泣いた。
 岩城先生のお宅には南村先生、坂口先生、中村先生などがあつまっておられた。そこに正男先生がはいってきて「一人足りないのよう」(いつも一緒のメンバーなのにそこに史さんがいない)と言って泣きだされたのであった。お二人の絆を感じたのだった。
 このとき、僕はある場面を思い起こしていた。野間選挙の最後の局面だっただろうか。僕らは、名城ビルの教職員のセンターに最後の結集をしていた。正男先生が渾身の訴えをした。その訴えは、自分自身が身をもってがんばってきたものでなくてはできない訴えだと僕は思った。史先生と僕は、和室の壁際でならんで正男先生の訴えを聞いていた。僕は、史先生にささやいた。「今日はダンナに惚れ直したのとちがう?」と。
 史先生が亡くなったあと、正男先生から挨拶状をいただいた。そこには
「史と私が歩んだのは、一筋の道です」と書かれていた。》
 20年も前に書いた文章を、記憶を頼りに復元してみました。表題はたしか「惚れ直す」という言葉をつかっていました。文章の構成はすこし違っていたかもしれません。
正男先生の追悼文に史先生への追悼に書いた文をひっぱりだして代えるなどナマクラだと叱られるかもしれません。でも、私にはこれが正男・史両先生に一番よろこんでいただけるもののように思われるのです。
 正男・史先生、やすらかに。
           2014年7月
雑賀 光夫(日本共産党和歌山県議会議員)

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by saikamituo | 2014-08-20 15:30

 「朝来町調査報告書」「八鹿高校事件調査報告書」のことなど

 暴行翌日の「八鹿病院激励」
   「朝来町調査報告書」「八鹿高校事件調査報告書」のことなど
        


         雑賀 光夫 日本共産党和歌山県議会議員
                 当時・和教組海草支部書記長

(一) はじめに
 八鹿高校事件から40年になるのですね。
 和歌山県部落解放連合会の元書記長・竹田正信君から「なにか思い出を書けるか」と電話をいただきました。
 早速、若き日に事実上私の責任編集でつくったガリ刷りの「橋」(海南海草部落問題研究会機関誌)第8号を引っ張り出しています。
 そこには「朝来町調査報告書」(1974年11月4日)と「兵庫県八鹿高校事件調査報告書」(1974年11月23日)が収録されています。どちらも、私が参加して、まとめ、自分でガリきりしたものです。二つの「報告書」をベースに書いてみたいと思います。
         
(二) 朝来町への自主調査
 「朝来町調査報告書」には、冒頭、次のように書いています。
 「朝来町で大変なことが起こっているという。『点検・確認・糾弾』という名のもとに、『解同青年行動隊』と名乗る人々によって、教育への不当な介入が行われているばかりでなく、教組朝来支部長・橋本先生宅がとりかこまれ、監禁され、流血の事態さえ生まれているという。
 解同中央本部との関係でこのようなことが行われているとしたら、和歌山県がかかえている問題でもあって、(注 当時、和歌山県の民主的部落解放運動は、部落解放同盟内にとどまっていた)私たちは決して無関心ではいられない。しかし、今の世の中でこんな事が行われているのに、一般の新聞が報道しないなどということがありうるだろうか。
 こんな疑問を持って私たちは朝来町に行ってみようと決心した。」
「とりくみにあたって、和教組海草支部は、教組の近くの支部、海南海草同推協、海南市同和室、海南市教育委員会教育課、市職労、市職部落研に呼びかけた。急なことでもあったので結果的には、教組の雑賀、同推協の藤田の二人で行くことになった。」
「私たちは、この事件の被害者である橋本先生や佐藤町議のほかに、町当局の話も聞きたいと思っていた。しかし、今日の朝来町では、それは大変な危険を伴うと聞き、前記2カ所のほかには、高教組和田山商分会の先生に会うにとどまった。」
30才の青年教師・海草支部専従書記長であった私は友人である海南海草同和教育推進協議会会長の藤田勉くん(27才)と二人で「現地調査」に出かけたのでした。
………………………………………
「報告書」から少しぬき出してみましょう。
① 橋本先生支援の人たちのマイクロバスに便乗して午前6時、竹田駅前へ。佐藤理髪店は、駅のすぐ近くにある。入り口の大きなガラスがわれたところにはベニヤ板をはりつけ……。
 佐藤理髪店で佐藤・西岡両町議から話を聞きました。
「但馬では解放運動は遅れていました。解同県連というのはなく、『解放県連』というのがあって、解同と同和会の両方に首をつっこんでいました。(その後解同県連になる)昭和48年の『西宮事件(窓口一本化要求)』を通じて『青年行動隊(隊長・丸尾)』が組織されました。(いろいろな事件を通じて、解同が発言権を増していきます。)
 和田山中学校に赴任したO教諭が「解放研」をつくり、「解放研ニュース」を壁に貼り回します。それへの反発から「解放研をつぶせ」というポスターを貼ったものがいました。これが「差別落書き事件」です。それをきっかけに「学習会を開くから出てくれ」と校長に申し入れ、校長は受け入れます。教組朝来支部は、その実態を見抜いていましたから、「この会にはでない」と決めました。それを切り崩し、「学習会」に出席させました。
 その場で、ある先生が「義務教育の中学校に解放研はおかしい」と発言したことを、教育長は「この発言は差別の生きた証言だ」といい、出席者に差別であるかどうかを確認させていきました。
 こうして、解同や「解放研」を批判する教組朝来支部の橋本支部長宅をとりかこみ、糾弾するという事態にまでなったというのです。
 こうした事態を批判するビラをまこうとしたら、取り囲まれ、糾弾され流血の事態も生まれたと佐藤・西岡両町議はいわれます。
 「ある人は私の家に来てビラを持って出ようとしたところを殴られ、引きづり回され、柱に顔をこすりつけられました。幸い失明をまぬがれましたが…」
② このあと、私たちは橋本哲朗先生のお宅にタクシーで伺い、お話をお聞きしました。佐藤さんは「アブナイナー」といわれたのですが、若かったのです。
③ 私たちはその「報告書」の「9 おわりに」として次のように書いています。
「私たちが話し合ったのは次の人たちです。
○ 佐藤町議 西岡町議
○ 佐藤さんの家の近所の本屋のおばさん
○ 弁護団の人々(少ししかはなせていません)
○ 橋本先生とその家族
○ 和田山高校の原田先生、西口先生
○ タクシーの運転手
このなかで、タクシーの運転手だけは、橋本先生の側にたっていない人でした。しかし、タクシー運転手から聞いた事実は、他の人々から聞いた事実と食い違ってはいませんでした。同じ事実をどうみるかという事だけは違っていました。
 (注)私たちがタクシー運転手と交わした会話を「報告書」から紹介しておきましょう。これは普通の住民の意識を示す「証言」として、そのまま「調査報告書」に収録したものです。
【調査団「この間から大変だったでしょう」
 運転手「佐藤さんにとっては不利でしょうな。今までみたいにやれないのとちがいますか。」「田舎のことですから佐藤さんの家に入っていくと、あの人もかと見られます。」
 調査団「このことについて批判はないのですか?」
 運転手「橋本先生のことで盛り上がりました。佐藤さんは、橋本先生の家に行って出てきたところを皆に取り囲まれたのを皆がみています」
 調査団「部落のことについてなにも言えませんね」
 運転手「なにも話できないというのは甘いですね。ビラなんか出しても効果ないですよ。町役場から指示が出ているので、私なんか読まないで左から右ですよ」(意味がとりにくい点もあるが原文のまま)】
……(調査ききとりをして)私たちが考えたことは「これはファシズムと一緒だ!」ということでした。
今の社会に不満を持っている人々を誤った方向にあおりたて、その力で労働組合をきりくずし、反共の方向に人々をあおりたて、反対する人々は暴力でたたきつぶしながら地域世論を操作する。これが、ファシズムのやりかたではないでしょうか」(「朝来町調査報告」より)

(三)和教組本部からの「八鹿調査要請」
その調査から半月もたたないうちに、私はまたもこの地に向かうことになったのです。「八鹿高校事件調査報告書」の冒頭に、私は次のように書いています。
 「11月22日の夕方、和教組本部から電話がありました。「兵庫県八鹿高校の組合員が『解同』丸尾一派に体育館に引きずりこまれ暴行を受けている。兵高教から一時間も早く来てほしいという要請があった。和教組として調査団を出したい。今夜からいってくれんか」
 電話してきたのは、和教組責善(同和)部長の岡本佳雄さんです。私は、即刻「行きます」と答えました。その半月前に、朝来町への調査に出かけ、『解同』に自宅を囲まれて脅迫されてがんばった橋本先生のお宅にも伺い、町の人たちからも「丸尾一派」の蛮行を聴いてきていたばかりですから、和教組本部からの電話の意味はすぐわかりました。そして、重大な問題の証人として派遣されるということが……。
その数時間後に和教組本部で堀井雅文さん・瀬村佳正さんと「調査団」をくみました。私は一番若かったのですが、支部の専従書記長、和教組では執行委員でしたので「団長」ということになり、夜九時、チャーターしてもらったタクシーで和歌山を出発しました。
 
(四)事件翌日の八鹿病院激励

 豊岡高校に着いたのは、翌朝、午前二時のことです。かんたんな状況説明を受けたあと、支援のみなさんと一緒に、大きな和室で寝ることになります。
 寝ようとすると、どこかに電話をかけている声が耳にはいります。
 「○○先生が行方不明……。水をかけられた。いっぱい? …杯?」
 暗い中でメモをしたのでしょうか。「報告書」にそう書いています。
 「翌朝5時50分起床。単独で行動できないため、支援に来ている高教組の人たちと行動することにした。私たちは京都から来た人たちと一緒に第7班にはいった。」と「報告書」には書かれています。
 はじめは、「ビラまきにいってもらう」という話だったのですが、現地の段取りの都合でしばらく待機していると、「八鹿病院に激励に行ってください」ということになったのです。
 「午前8時半に病院につき、9時から病室にはいりました。私たち3人がはいった病室では、被害者が眠っていて話を聞けませんでした。
 『隔離病棟にも入っている』ということでそちらに回ります。二つの病室に8人がはいっています。
 『何かみんなに伝えたいことはありませんか』と聞くと『僕たちあの暴力の中で確認書を書かされてしまった。それは認めずにがんばるつもりだが、がんばりきれるかどうか心配だ』寝たきりで体を動かすのもままならない方がおっしゃいます。
 隣の部屋の方は、体中きずだらけだが、まだ元気です。女の方がいらっしゃる。顔中、とくにまぶたが腫れ上がっていて、気の毒で目をそらせました。
 一人の先生がおっしゃいます。『生徒たちが先生を帰せとがんばってくれたそうです。そのことが一番大きな支えになりました。』
 「今日、バスケットボールの試合があるが、こんな状態なので相手の学校に連絡してくれませんか」といわれる先生もいます。
 付き添いの方が『警察は見ているだけでなにもしてくれなかった』と言います。
 9時40分に病院をでました。町を『解放車』が、『八鹿高校で集会を開きます。町民一人残らず集まってください』と叫んで走っています。ゼッケンやはちまきをしめて会場に向かう人もいます。」(ほぼ「報告書」のまま)
 あとからお伺いすると、私たちが病院に激励に行ったあと、警察にシャットアウトされ、入れなくなってしまったということでした。

(五)組合分会からの報告
 その後、豊岡高校にもどって八鹿高校の入院していない先生から当日のすさまじい状況を聴かせていただいたのでした。組合執行部として報告されたのは、後に私が和教組県本部書記長として日教組の会議などに出たころおつきあいさせていただくことになる西岡委員長でした。そのころは書記長だったでしょうか?
 私は、和歌山に帰ってすぐ、見聞きしたことを「報告書」にまとめました。その「報告書」から、私が聞き取った暴行の実態をもうすこし拾い出してみましょう。
(1)事件がおこるまで
・昨年(1973年)秋、解同県連・青年行動隊がつくられ、丸尾が隊長になった。
・今年の5月から、八鹿高校にも「解放研」をつくられはじめた。
・但馬では、奨学生の一泊研修会を開き、校長・教頭・同和主任が参加した。教育事務所長が「教師は敵だ」という教育をして、モデル糾弾会をし、校長・教頭から確認書をとった。
・校長は、夏休み中に二階の一番立派な部屋を解放研部室にし、看板をかけてしまった。
・教師集団は、このようにしてつくられた解放研との話し合い(糾弾会)には応じないという態度をとっており、解放研は「応じよ」と要求してハンストにはいった。
(2)11月21日におこったこと
① 校内でやられたこと
・集団登校してみると、解同が乗り込んできて異様な雰囲気なので、SHR(ショートホームルーム)だけやって、生徒は帰らせようと言うことになった。校長は職務命令を出して、授業をつづけよと命じた。
・それでも10時ごろから集団下校をはじめた。解同がきても町内に出ればなんとかなると思ったので、スクラムを組んで200メートルほどすすんだが、解放車にはばまれ、すすめなくなった。
・「これが解同の正体だ」とさけんだが、一人一人ごぼう抜きにされた。
・あるものは、両足をつかまれ頭を下にしてひきづられ、あるものは4人で両手両足をもたれ、あるものは、車の荷台に放りあげられ、という具合にして、第二体育館に引きづり込まれた。
・体育館でマットと平行棒をおいたところに並ばされた。ある先生は、そのとき口から血を出してものをいえないくらいだった。Yという女の先生は、そこでいきなり髪をつかまれて、突き倒された。
・バラバラにして解放研と話し合うことを要求した。それに対して同じ事を繰り返すものには
 バケツで水をかける
 首筋をつかんで引き回す
 なぐる
 足首の上に革靴でのって、ぎりぎりやる。
・暴行は夜の10時までつづいた。解放研と話し合うことを認めたものは、会議室につれこまれた。そこで「自己批判書(確認書)を書くことを迫ってくる。
・再び体育館にあつまられ、糾弾を受けた。
・丸尾は、片山先生に「おまえは確認書を書いたが、自主的に・主体的に書いたんだな」という。片山先生が拒否すると、後ろのものが「殺してしまうぞ」と怒鳴る。こうして認めさせてしまった。
② 生徒たちは(略) (生徒たちが丸尾一派に抗議した感動的な話がここでも報告されました)
③ 校長と警察は(略)
④ その後おこっていること(略)

(六)真実を伝える「調査報告」活動
 私は、ガリ刷りの「報告書」をつくって、和教組県委員会で報告しました。ところが、当時、社会党が「解同」丸尾一派を擁護する立場に立っていました。和教組の役員の中にはごく一部ですが「暴力がふるわれたという事実があるかどうかわからない」と主張する役員もいたのです。私が、見てきた事実を報告したときでも、「この報告は、一方の側の意見しか聞いていない。『解同』の意見を聞きに行っていない報告書は『欠陥報告書』だ」と主張するある支部の支部長までいたのです。
 その後、和教組は、異論を持つひとたちを含めて「調査団」を出すことになり、私は三度、この地にむかったのでした。解同を擁護する人たちは孤立していきました。さらに私は、その年に海南市で開かれた県責善教育研究集会全体会議で、西滋勝先生の「自主的民主的な同和教育の教訓」の講演のあとで、特別報告として「八鹿高校調査報告」をすることになります。和教組本部としては、八鹿高校での解同の暴行を批判する確固とした見解を表明することができました。
 その1974年12月19日の夕方、私は、たしか和教組本部にいたとおもいます。テレビで衆議院予算委員会の中継が流れました。日本共産党の村上議員が八鹿高校での解同の無法・暴力問題を追及したのです。
胸のすく思いが今でも忘れられません。 それをきっかけにして、「解同」の無法・暴力が広く知られることになります。校長先生たちが競って「赤旗日刊紙」を講読したいといってくれます。真実を伝える新聞は、ほかになかったのです。
その歴史的時期に自分の判断で朝来町に足を運び、また八鹿高校事件ではその直後に駆けつけて、真実を和歌山の皆さんに伝える役割を果たすことができたことは、私の誇りとなっています。
 私の友人の植西一義くんは、当時、日本福祉大学の学生として支援に入ったそうですが、「手を合わせて拝むようにしてくれたおばあちゃんの姿が忘れられない」とよく話してくれました。
 八鹿高校の先生方、朝来町の橋本先生などのたたかいは、多くの人たちに感動を与えてくれたのです。
                     (2014年6月10日 記)

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by saikamituo | 2014-08-18 09:50