雑賀光夫の徒然草

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スターリン秘史(「前衛」不破哲三)を読み始める

スターリン秘史(「前衛」不破哲三)を読み始める              
         雑賀 光夫

(一)
 不破さんが、[前衛]誌であらたな連載をはじめた。そこでは、スターリンの暗い政治の片棒をかついだディミトロフの役割が解明されると聞いて、僕はいやな気持ちになった。自分の青春の思い出が汚されるような気がしたのである。
 本箱から「反ファシズム統一戦線」(ディミトロフ著・国民文庫)を取り出してみる。あまり汚れていないから、学生時代に読んだものをなくして、買い換えたものにちがいない。「学生運動の統一」の問題など考える時も何度も読み返したから、最初に買った本は、ぼろぼろになっているはずである。
 僕が大学教養部にいたころ、京大同学会・教養部自治会とも主導権をとっていたのは、社学同(社会主義学生同盟)、いわゆるトロツキストといわれる一派だった。後に「赤軍派」で有名になった塩見孝也らがいた。僕は、自治会では反主流派の「統一派」に属していた。
 「原子力潜水艦寄港反対」などで主流派が組織するデモ・河原町でジグザグデモをくりかえし、機動隊と衝突するデモに参加するかどうかは大きな迷いだった。基本方針は、こうしたデモには参加しないということだが、クラスのまじめな学生が参加している。僕は、デモがある前の晩、「反ファシズム統一戦線」を読み返して、悩みぬいた末、翌日のデモに参加した記憶がある。活動家というほどでもない級友が、このデモに参加していて、多分参加しないだろうと思っていた僕の顔を見つけて嬉しそうにした表情まで、今でも思い出す。その行動が、よかったのかどうかは分からない。ただ、そこまで考えたことはなつかしい思い出である。だから、あのころ読んだものなら、赤線・青線で汚しまくっていたはずである。
 それでも、パラパラとめくると「幹部政策」のところに、赤い線をいれている。民青同盟の時代に、「幹部のありかた」を語るのに引用したのを思い出す。
 ぼくは、「一番美しい国の名前・ブルガリア。一番美しい町の名前・ソフィア。一番男らしい人の名前・ディミトロフ」と呟いてみたことがある。音声的に本当に美しいと思う。ディミトロフにそんなにほれ込むほど、「反ファシズム統一戦線」(コミンテルン第7回大会へのディミトロフ報告)には、感銘をうけた。
 そのディミトロフが、スターリンの粛清の片棒をかついたんだって。不破さん、たのむから、僕の青春の思い出を汚すような暴露はやめてほしい。こんな気持ちだったのである。
              (二)
 連載は、前衛2月号からはじまった。こわごわページを繰った。
 しかし、そこに紹介されているのは、ナチスに逮捕され、獄中闘争をたたかった輝かしいわがディミトロフであった。しかも、僕が知っていたのよりももっともっと輝ける英雄の姿がえがかれていた。
 前衛3月号は、「コミンテルン第7回大会」(上)である。社会民主主義者を、「社会ファシズム」と決めつけ、「主敵」とさえしていたコミンテルンの方針から、フランス人民戦線のような統一戦線方針にいかに転換がなしとげられたのかが解明されている。
 「社会ファシズム論」をとっていたスターリンが、ナチスドイツの台頭を前にして、本当のファシズムとたたかう必要を感じ始める。政治家・スターリンの直感であろう。そこで、反ファシズムの闘士・ディミトロフを、コミンテルンの中心に据える。ディミトロフは方針転換に苦労する。まわりの前からのコミンテルン幹部は、ディミトロフの方針転換を理解せず、孤立する。その孤独からディミトロフを救い、後押ししたのは、スターリンであった。
 ディミトロフは、フランス共産党のモリス・トレーズとも討論するが、トレーズは最初はその方針を理解しない。しかし、フランス国内でのナチズムの策動とそれを粉砕する労働者の統一行動が、フランスでの事態を大きく前進させる。

*フランス人民戦線にいたるドラマについては、不破さんが「労働組合運動の歴史」(「労働戦線に革新の旗を」新日本新書所収)で紹介したものである。「注」として書いておけばいいのにと思う。不破さんの「歴史」は、共産党が労働組合運動の画期的方針(「10大会6中総」)を出した直後に出された「労働組合読本」(荒堀広編)の一節である。
*不破さんの「労働組合運動の歴史」のフランス人民戦線の部分を、僕は何度も「政治闘争と経済闘争の結合」の教材として労働学校で紹介した。不破さんの叙述の出典を知りたくて、トレーズ「人民の子」をはじめ、フランス人民戦線の歴史を読み漁ったが見つからない。その出典を教えてくれたのは、和教組で一緒に仕事をした楠本一郎さん。「フランス労働運動史(CGT小史)」である。楠本さんから譲り受けて、いま僕の本箱にある。
 
 この時期、モリス・トレーズが統一戦線の方針に転じるのに、「やめておけ」と助言をしたコミンテルン幹部がいたらしい。なんとそれが、エルコリ(戦後のイタリア共産党の指導者・トリアッテイ)であったという。エルコリは、不破さんの論文にも紹介されるが、「コミンテルン第7回大会」の報告者の一人である。その報告は「コミンテルン史論」(青木文庫)におさめられているが、「平和のための闘争」という面で、ディミトロフ報告を補足するものであった。
 トレーズ、トリアッテイといった、ぼくらが人民戦線運動の指導者だと思っていた幹部の認識が、短い期間に大きく変わったのだということが分かる。

               (三)
 その、わくわくする中で「キーロフ暗殺事件」がおこる。スターリンの謀略の一つだそうである。
 話(歴史)はどう展開するのだろうか。推理小説よりも面白い連載が楽しみである。

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by saikamituo | 2013-02-13 21:28

体罰問題について 1

体罰による高校生の自殺をきっかけにして、「体罰問題」がマスコミをにぎわす。
「この国では、子どもが死を持って抗議するまでまともな教育論議がおきないのか」と暗澹とした気持になる。
 しかし、和歌山の教職員は、そんなことになるまえに「体罰は教育ではない」という論議をしたのだった。僕が和歌山県教職員組合書記長をしていた1980年代だった。d0067266_21411116.jpg
その議論をリードしてくれたのが、岩尾靖弘さん(和歌山県教育研究所事務局長)だった。
 畏友といっても一回り年上の楠本一郎さんと相談して、岩尾さんの遺稿集「ロマンを語る」に収録した「体罰問題について」を、ここにアップすることにした。楠本さんには、「読んでココ」で読みとった原稿の校正の労をとっていただいた。
 僕は、その前に、これをコピーしてパンフレットにしたものを配り歩いている。今日、岩尾さんの息子がやっているうどん屋「つるよし」に持っていったら、息子さんも喜んでくれていた。仏前にそなえるようにお願いしてきた。
 県教委がだす一篇の通達でなく、教育論としても法律論としても「体罰をやめよう」と訴えたこの連載は、いま、光を放っている。
                         雑賀 光夫




体罰問題について

(『和教時報』第1124号1984年8月25日号―第1139号1985年2月5日号掲載)
      和歌山県教育研究所事務局長   岩尾 靖弘



一 なぜ今、体罰論議なのか


毎日新聞が一九八四年七月十六日に発表した文部省の校内暴力実態調査の分析結果のことをとりあげ、一九八三年度の校内暴力は前年度より減少し、「校内暴力の発生状況が峠を越えた」という同省の分析に対していくつかの問題を投げかけている。
 校内暴力の発生件数が多かった首都圏や近畿圏は減っているが、地方では逆に増えてきている。発生率でみると増えた県と減った県は相半ばしている。総数の減少をもって「峠を越した」というわけにはいかない。 
 「校内暴力が減少した原因についても考えてみる必要がある」として、学校を中心とした対策が一定の効果を上げたことには間違いはないが、父母や地域住民との協力があまり進んでいない点、特に警察との協力がより密接になっていることを「日常化してはいけない」と警告を発している。とくに学校では「服装をはじめ、生徒のしつけを厳しくする傾向が強まっており、生徒の行動に目を光らせ、少しでも反抗的な態度は体罰で押さえこむ。そのため、若い体力のある教師が歓迎されるという空気が学校現場にみられる」という状況に対して、「力」で生徒の反抗を押さえつける方法は決して望ましいとはいえないし、子ども本位の教育という空気を現場にぜひとも再生してはしい、という鋭い注文を投げかけている。
 校内暴力が減る一方で「登校拒否や無気力症などの学校不適応は確実に増えている」という事実について校内暴力も不適応の現われとすれば、その総体は変わっていない。学校の権威主義的な態度、生徒の人格を無視するような管理主義的な傾向は、ぜひ、あらためてもらいたと指摘している。
 非行には、力で対処するのでなく、生徒の間に人間らしい結びつきを回復することこそ、非行克服の基本的な筋道であることは、苦しいとりくみをくぐり抜けてきた学校や先生たちの共通の教訓である。非行克服のとりくみについては一定の前進を勝ちとっているにもかかわらず、「体罰」問題についてのとらえかたの弱さが多くのこっていることに注目する必要がある。

二、発達の筋道にてらしたとりくみ

①我々の教育対象は人間である。そしてさまざまな未熟な要素をかかえた子どもであるという極めて当たり前のことを改めて深く考えてみる必要があるのではないか。
 私たちの前にある子どもの姿のなかに、とても子どもと思えない「荒れた」姿であらわれてくることが多い。どうしようもない子ども、まともなことが通用しないような頑固な部分にぶつかると、どうしてよいかわからなくなる。
 そこに現在の「体罰問題」の深刻さが事実として存在する。
 しかし、一時的な力による指導には限界があることもはっきりしている。一時的な鎮静剤にはなりえても、そのことで子どもの内面を内からゆさぶることになってはいないことを、当の教師が一番よく知っているのである。どんな荒れた子どもであっても、まったくどうしようもない子であっても、人間としての値打ちを認め、発達の崩れを十分考慮にいれ、発達の筋道に照らしたとりくみをすすめる以外に解決の糸口が見いだせないのではないかと思う。
 いくらむつかしくても、人間を殴る(暴力を加える)という行為についての誤りと「殴る」という暴力のなかでえられる一時的な効果(…とみえる)に対する錯覚を早く断ち切るところから、とりくみを出発させたい。
② 今の子どもは、どうしようもない子ども、人間らしさを失ったものとして私たちに見える。その「あらわれ」に目を奪われて、そのように思ってしまったのでは子どもを一面でしかとらえたことにならない。
 子どもたちの多くは常に苛立ち、逆にシラケているように見える。けれども、それは「ちゃんとしたい」と思っているのだが、そのようにできないから、自分に苛立っているのである。そして、まともな人間として育ちたいのだが、どうにもならない自分にシラケているのである。
 まともな願いが非常に薄いものであっても人間として生きているかぎり、どんな子であってもそれは失ってしまっていない。そうした人間としての確信を教師自身持てるかどうかが問われているのではなかろうか。
 同時に、子どもの非行の裏には必ずといってよいほど生きていくうえでの〝まよい““悩み〟〝苛立ち″が重くのしかかってているものである。教師は、こうした視点を見失わず「体罰」を今一度問いなおしてみる必要があると思う。

三、「わかる力」の芽をつみとる体罰

体罰を考えるうえで二つ目の問題は、「体罰」は教育の筋道から外れているということである。教育というものは、教師生徒との間の信頼関係によって成立するものであり、言うことを聞かないから
といって体罰を加えるということは、指導を放棄したものである。言うことを聞かない子、まともなことを茶化したり嘲笑したりという子どもが増加しているだけにどうしたらよいか、さしあたってその場をどう切り抜けるか、ほとほと因ってしまう状況が多くなってきていることは事実である。その場その場を切り抜ける方法として、体罰や暴力を背景にした教師の威嚇は、一定の効果があることは否定できない。しかしその効果の内容はけっして子どもの発達への意欲を育て子どもの自覚に役立つものでないこともはっきりしている。
 たとえば、口で言っても聞きわけのない子に、殴ってでも言うことを聞かせるわからせ方はありうる。しかし、その時のわかり方は程度の低いわかり方であり、子どもの成長の糧になりえるものではない。逆に暴力肯定を無意識のうちに会得してしまうという発達上の〝マイナス〟になる。

四、教育の神髄は子どもの自発性
 「怒られる(または、殴られる)からしない」という考えは「怒られなかったらする」ことであり、自分を律する基準が人間として正しいかどうか(または良いかどうか)というふうにとらえられないで「怒られるかどうか」を考える子どもに育てることになる。親に多く殴られて育った子は友達が悪いことをすると「先生あんな悪い子殴ってやれ」というようになる。「体罰」というものは明らかに暴力である。
 本質は暴力でありながら教育活動のなかで、指導という形であらわれ行使され、時として一時的に子どもの行動を停止させ思考を中断させる力を持つために、暴力そのものの性格が隠されてとらえられている。あるいは、暴力としての性格が指導ということで昇華されたという錯覚が、非常に根強く私たち教師の間にまかり通っている。教育はあくまでも子どもの自発性を育てることが基本であり、体罰=暴力というものは、いかなる形であれ教育とは異質なものであるところから体罰論議をすすめていく必要があると思う。

五、法的にも許されない体罰

 体罰問題をとらえる三つ目の点は、体罰は法律上の禁止行為であるということである。学校教育法第十一条で「校長および教員は、教育上必要があると認めるときは、監督庁の定めるところにより、学生、生徒および児童に懲戒を加えることができる。ただし体罰を加えることはできない」。教育上必要な懲戒は加えることができるが「身体に対する侵害、被罰者に肉体的苦痛を与えるような懲戒は体罰に該当する」と懲戒の程度について法務省の通達でその行きすぎを戒めている。このように体罰については学校教育法第十一条によってはっきりされている。憲法・教育基本法による教育の中心は、平和及び人間の尊厳性と基本的人権の尊重であり、すべての子どもの全面発達をめざした民主的人格形成にあたることはだれもが認めることであり、体罰とは相容れないものである。長年の習慣的な馴れによって実際面における指導の困難に目を奪われて、安易に妥協してきているといえる。

六、非行克服のとりくみにも逆効果

 現在、さまざまな発達の歪みがもたらす子どもの非行が教育者だけに止まらず、父母・国民すべての問題として早急に克服を迫られている中で、教育現場の中で長年残されてきた体罰という悪習を思いきって断ち切る決意を固めることが何よりも必要なことである。
 多くの非行克服の教訓は、「荒れた生徒に対する体罰は必要な教育効果をあたえない」ということであり、非行克服の成果そのものを壊す役割すら持つということを明確にしている。体罰問題における具体的状況の困難さに迷わされないで、教育や法の立場の基本に立ち返りながら、真に人間が人間として「わかっていく」筋道を明らかにしていくことこそが大切かと思う。

七、「体罰にもー定の効果がある」ということについて

◇子どもの考え方を歪める体罰
 やむなく振う体罰は子どもの態度に何らかの変化をもたらすことは事実である。しかし、教師にとって大切なのは、その子ども変化の内容がどういうものであり、子どもの自発性を発展させることになるのかどうか見極めをつけることである。子どものとらえ方の中に、もし「殴られるからしない」というわかり方であれば、それは本当にわかったのではなく、まちがった認識を育てることになるし、さらに殴られるおそれのないところではやるかもしれないということであり、子どもの考え方を歪めることにしかならない。
◇教師の落ち入りやすい〝落し穴″
 思わず殴ってしまったことがきっかけになって、子どもが反省し態度がよくなるという場合、教師が子どもに誠意をもってぶちあたり思い余って殴ってしまう。その時、その気迫の中に教師の誠意を感じとり、子どもが自省のきっかけにした。この場合、教師の側では得てして体罰を含めて有効な指導として評価しがちであるが、そういうとらえ方には教師として落ち入りやすいきわめて危険な落とし穴がある。子どもが自省のきっかけとして強く受け取ったのは、どうしても子どもを良くしたいという教師の熱意を受け取ったのであって、体罰そのものではない。教師の熱意を受けとめて自分をかえるきっかけにし得ても、殴られたそのことについては、しこりを残すという場合もありえるということを見逃してはならない。体罰というものは、ある条件のもとで一定の効果があっても、そのことで体罰を正当づけることはできないということをはっきりさせるべきである。もし、いささかでも子どもが体罰を肯定して受け入れたのであればそういう子どもに誤って育てたことによる何らかの効果は、いかなるものであっても子どもの内面の成長に役立つも′のでなく、むしろ子どもを人間として歪めることにしかならないと思う。

(つづく)
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by saikamituo | 2013-02-05 19:21

体罰について 2

八、体罰は「子どもの発達の筋道から外れている」ということについて

◇有効な方法を放棄する体罰
 教師として、子どもにあれこれ要求する場合、その内容が子どもの発達の段階にとって適切であるかどうか、或いは対象にしているその子どもにとって課題であるのか、かけはなれたものになっていないかの一応の吟味が必要である。
 とくに一人ひとりの子どもをみる場合、今日の非行の最大の課題である「発達の崩れによる歪み」がどのようにあらわれているのかということも考慮に入れて考えなければならないと思う。
 体罰がおきるのは子どもが言うことを聞かない、分かろうとしないという条件の中で良く起きてくる問題であるだけに、それぞれの子どもの状況をつかみ、それに即したとりくみの道を明らかにしていくことが大切であり、体罰によって何とかしようというのは教師にとって有効な方法を探求することを放棄したもので、その場しのぎの安易なやり方といえる。子どもの人間的な歪みを正すのに筋道から外れた歪んだやり方で歪みを正すことはできない。

九、正当な怒りにも体罰は不必要
 
体罰問題を話し合っている会の中で、ある中学校の先生から次のような体験がだされた。
 「私は今までどちらかというと体罰を行使したことがない。この前、英語の時間、わたしの学級にAという勉強のできない生徒が一生懸命努力しているのをみた隣に座っているB生徒が『おまえ、
いくらやっても分かれへんのに、止めとけ』とからかい嘲笑しているんです。A生徒は障害児学級の対象にもなったことがあり、できないんですけど一生懸命頑張っているんです。それをみて嘲笑し侮辱しているB生徒の態度、許せんと思った。そこで、B生徒をきびしく怒った。怒りながら思わずその生徒を殴っでしまった。まわりの生徒は、この私の怒りを支持してくれたと思う。A生徒もうつむいてしまって私の怒りを受けとめてくれたのではないかと思う」。
 これをめぐって論議が深まった。そして不正なことに対する教師の怒りというものは非常に大切なものであるが、正当な怒りを指導に移す場合、困難であっても理性という鏡に照らして移すことを忘れてはいけないという話がでた。私は酷なようだが、先生の怒りが正当なだけに、殴ったことに対する教師の自省を抜かしてはならないという意見をだした。

十、体罰には教育効果はない
 
教育心理学者たちは、教育心理学の立場から体罰の弊害として次の五つをあげている。
① 体罰に対する恐怖心から子どもの望ましい行動まで抑制してしまう。
④ 子どもと教師の教育関係を破壊してしまう。
③ 体罰を加える教師に対して憎しみや反発を感ずるが、子どもの協力がなかったら教育・授業は成立しない。
④ 子どもの自尊心を傷つける。この子どもの自尊心こそ子どもが自発的にのびていくためにどうしても必要なものであり、これを傷つけたら子どものもっている良いものを引き出すことはできない。それやえ、体罰は子どもが伸びていく内発的動機を破壊してしまう。 
① 罰を避けるために要領の良さとか、ずるがしこさ等の望ましくない回避行動を子どものなかに生み出す。
 体罰は子どもに欲求不満を与える。すると緊張解消行動として教師を殴ったり器物を壊すという直接攻撃や弱いものいじめといった転移性攻撃があらわれてくる。
 以上の点が体罰に関する世界の心理学研究をふまえてのまとめである。

十一、体罰の横行する背景
 
私たちの教育界では、長年の間体罰についてのまともな論議がなされてこなかったという事情のもとで、体罰に何らかの教育効果を期待するという悪弊が半ば許容されてきたという経過があります。加えて近年「子どもがなかなか言うことを聞かない」という状況が増大している中で力ででも言うことを聞かすというやり方が、かえって増えてきているのではないかと思われる。その一つの現われとして、いくつかの地域で中学校の生徒指導主任として圧倒的多くが、体育教科あるいは生徒ににらみのきく先生が選ばれている実態があります。
 体罰で得られる何らかの効果というものは一体どういうものなのか、それぞれの具体的な実例の深い検討を通して問題点を明らかにしていく必要があります。

十二、法が休罰を禁止するのはなぜか

 このことについて今橋盛勝教授(千葉大) の説を紹介する。           
 「現行憲法の基本的人権の尊重、教育基本法の人格の完成(教育目的)のもとで、法が体罰を禁止するのは次のような理由からである。
 第一は、体罰の実態・本質は生徒に対する教師の暴力的権力的支配であり、そのため生徒の生命・人身を侵害するからである。
 第二は、心理学者が言うように、生徒の精神に打撃をあたえ健全な発達を歪めたり破壊したりするからである。暴力による身体の損傷・苦痛・屈辱感・恐怖心・反撃心を生み出す。兼子仁教授がいうように『人が人間らしく扱われることの憲法的保障』を人権といい、そして他方で教師から殴られる蹴られる、髪の毛をもって振り回される、膝で地面に顔を押しつぶされる、黒板消しを投げつけられる、問題が解けないからといって錐を小学校低学年の子どもの頭に落とされることを、子ども・生徒及び父母が受忍しなければならないと
するなら、この子ども・生徒は『人間』でないことになる。『人間らしく』扱われないでどうして子ども・生徒は人間らしくなっていけるのだろうか。
 第三には、近・現代社会における、人と人との関係・対立は暴力によって解決されてはならないとする非暴力主義の原理、それをふまえた人間関係の在り方を学ばせない点で、非教育的・反社会的である。逆に暴力としての体罰によって暴力による自己主張、他者・『弱者』支配を子ども・生徒に教えているともいえよう。
 第四は、体罰は教師の専門性に反する。体力・知力・身分的に勝っている教師が、それらの点で劣っている子ども・生徒に暴力としての体罰を加えるほど容易なことはない。しかも体罰は子ども・生徒が反撃してこない、それを許さない、また体罰を拒否したりその場から自らの身を守るために逃避することを許さないような条件・状況のもとで行う点で、中学生のわが子に父母が体罰を加える場合とも明らかに異なっている。体罰は法的教育機関としての学校・教師に憲法・教育基本法が要請する『ありうるべき教育』の内容・方法からのもっとも容易な逃避行であり自らの教師の専門性と人格を拒否する行為である。つまり体罰は教育法的には許されざる反教育的行為・違法行為であり、子ども・生徒の学習権と一般人権を侵害する行為であると解されるのである」(『文化評論』一九八三年五月)    
 私たち教師は、教授する権利を持ち、行使にあたって何人からも干渉を許さない厳しさが必要であると同時に、物事の「条理」に忠実でなければならないと思う。
 体罰の本質は暴力であるというとらえ方を改めて深くとらえ直してみたいと思う。

十三、体罰として禁止されているものについて

 体罰の禁止についての法務省の解釈を紹介しておきます。法務長官の「児童懲戒権の限界について」(昭和二十三年)で次のような通達がだされている。
 身体に対する侵害を内容とする懲戒=殴る、蹴るの類、被罰者に肉体的苦痛を与えるような懲戒もまたこれに該当する。たとえば端座(筆者注・膝を揃えて姿勢正しく座ること)・直立等、特定の姿勢を長時間にわたって保持させるような懲戒は体罰の一種と解さられなければならない。
 さらに具体的問題について「生徒に対する体罰禁止に関する教師の心得」(昭和二十四年)は次の判断を示しています。
 用便に行かせなかったり食事が過ぎても教室に留めおくことは、肉体的苦痛を伴うから体罰となり学校教育法に違反する。遅刻した生徒を教室に入れず、授業をうけさせないことはたとえ短時間であっても義務教育では許されない。
 授業時間中に怠けたり騒いだからといって生徒を教室外に出すことは許されない。教室内に立たせることは、体罰にならないかぎり、懲戒権内と認めてよい。           
 人の物を盗んだり壊したりした場合など、懲らしめる意味で体罰にならない程度に放課後残しても差し支えない。
 盗みの場合などその生徒や証人を放課後尋問することは良いが、自白や供述を強制してはならない。
 遅刻や怠けたことによって、掃除当番などの回数を多くするのは差し支えないが、不当な差別待遇や酷使はいけない。
 遅刻防止のための合同登校は構わないが、軍事教練的色彩を帯びないように注意すること。
 以上のごとく学校教育法の体罰禁止条項は、暴力をふるうことを禁じているだけでなく、懲戒の手段として肉体的苦痛を与えてはいけないとしています。

十四、教師の懲戒権について

 懲戒の基本は本人に自覚させることである。教師の行なう懲戒については学校教育法十一条でも認められており、法的にも根拠があります。生徒・児童が学校生活に必要な決まりを守らない場合、教師の指導で誤りを自覚させるのは望ましいのですが、暴力や大きな事件を起こした生徒には自分の誤りがすぐさま十分には理解が出来なくても一連の懲戒はありうる事です。この懲戒は生徒全体の学習権と、人権を守るものであり、本人にまだ不満があってもともかく自分の行為はみんなから権利侵害として非難されているんだということを十分自覚させる措置で、出来るだけ本人が誤りを納待するよう描導していくことが大切です。その時加える懲戒が本人にとっても不満であってもそれを通して分からせていくということになると思う。もちろん児童生徒に言い分のある時はよく聞いてやるべきで、何を懲戒とされているのかを分からせていくとりくみは手抜きをしてはならないと思います。

十五、教育的立場を貫く懲戒が大切

 義務教育段階では、退学・停学できないのは当然であります(学校でも教育上出来るだけさけるべきです)。具体的には教師自身が状況に応じて考えなければならない問題ですが、たとえば自宅学習というやり方がありますが、親が終日ともにいて子どもを観察したり話し合ったり出来る条件のある場合は、効果は期待できるが、その条件のない場合はかえって逆効果であります。学校へ登校させて別室で特別指導するとか、教師とともに特別の作業を課すとか色々工夫が必要であろう。                                         
こうした懲戒は非常に「困難な教育的状況」のなかで行使されるだけに難しいと思うが「教育的懲戒」といわれるかぎり、教育的立場を貫く懲戒のあり方を求められることはさけられない。

十六、「罰」について

 教師が指導にあたる場合、教育的見地から子どもに対して、一定の必要と思われる罰を加えることはありえるし、学校教育法の上でも認められている。
 この際ひとつは、罰はあくまでも教育上必要と思われる範囲内で教師が考えるべきであり、その子どもや置かれている諸々の条件を十分考慮に入れて判断すべきである。もう一つは、基本的に子どもの学習権を奪ってはいけないということをふまえておく必要がある。三つは罰そのものの中に人間的な「はずかしめ」があってはならないと思う。
 具体的な点でたとえば、忘れ物をよくしてくる子どもがいる。いくら注意をしても聞かない。思いあまって取りに帰らせる。これも一種の罰だと思うが始業前、または休憩時間の時ならまあまあ良いとして授業を抜けてまで取りに帰らせるのは間違いだと思う。わけても今日の交通の事情や留守家庭の子が多いという点を考えると、教室のなかに留めおいて何らかの手立てを考えるのが妥当だと思う。もし、忘れ物が授業に必要なものであっても家に帰らせるのでなく、その子には不自由な(不十分な)形の授業のままで参加させることの方がより妥当であると思う。むしろ、その子どもの日常の生活態度や親の方に問題が深く関わっている場合が多いので、それについての長期の粘り強いとりくみが解決の糸口になるのではないかと思う。
 授業中、先生の話を聞かないで騒ぐ、他の子どもの邪魔をするということが日常的にぶちあたる。また、教室の後へ立たせるのは良いが廊下や外へ出すのはいけない。しかし、教室に立たせるにしても立たせっぱなしにしないで、立たされている子どもの様子を観察しておいて、一定の効果(あくまでも一定の効果)を認めたならばすぐ解除しなければいけないし、効果が認められない場合そのまま長時間立たせることはさけるべきであろう。全然何らかの効果もあたええない懲罰は、懲罰として無意味であるからである。
その子にとって無意味な懲罰は苦痛でしかないし、恨めしさと憎しみしか残らないようになることを心配する。その他みせしめという形の罰、屈辱を与えるような罰等々、相当学校現場には根強いものがあると思う。全面的に再検討する必要があると思う。

十七、「辱め」「みせし」の罰について
 いわゆる、「懲らしめ」の罰の限界についてであるが、徳川時代の罪人を罰するのに腕に刺青をしたり市中衆人の中を引き回しをする、衆人の前で刑を加える、さらし者にする等のことがやられたようである。このことと現在の懲戒とを単純に比較するのは当を得ていないが、懲戒という名によるよく似たことが、私たちの回りに皆無といえない。相手が子どもであるからか、また、自分でも悪いことをしたという意識が働いているからか、相当ひどい罰であっても直接的には大人である教師を告発しない。「懲らしめ」の罪にも限界があり「辱め」「みせしめ」となると、明らかに懲戒の限界をこえるものである。
私も実のところ小学校時代には非常にやんちゃであり、よく先生に怒られた経験がある。その中でいちばんいやであったのは、職員室のなかで怒られることであった。怒られている事実よりも、他の大勢の先生のなかでさらし者になっていることがなによりも苦痛であった。むしろその場でゴッンと一発殴られることの方がかえってすっきりした記憶がある。小さな子どもでもどんなに悪さをする子どもでも自尊心があるのである。直接身体に加える「殴る」等の体罰よりも、ある意味では「みせしめ、辱め」の罰は子どもの心を深く傷つけるのではないかと思う。

十八、学校で今、大切なことは

 今依然として子どもの非行が広く深く進行している中で、子どもの心に辛抱強く問いかける余裕のない中で、取締や規則あるいはてっとり早い懲罰で止むなく切り抜けようとする状況について、この辺で思い切った検討を加えてみたいと思う。こうしたものは、ひそかにそれぞれの教室でやられているだけに公開の論議になりにくいと思うが、実際のとりくみの事実から教育を出発させる勇気が今必要になってきていると思う。
 以上、「体罰」 に問題を絞って、いくつかの点について述べてきましたが、一先ずこれで終わることにする。重要な点でふれなかったところ、不十分なところ、実際非行問題に直面して苦悩している中での問題点に正しくこたえられなかったところ等、多く残してきていると思う。体罰は、永年にわたって残されてきた悪弊であり、それの克服は簡単ではない。だからといって先送りするのでなく、まず、学校の中からすべての暴力を一掃し、体罰を否定するところから教育を出発させること、そして、体罰によらないで子どもの内面の願いに視点をあてながら、子どもとの間に人間的なつながりを作り上げていく努力をする必要がある。
              岩尾靖弘(和歌山県国民教育研究所事務局長)
(参考文献)
☆牧柾名・今橋勝編著『教師の懲戒と体罰』(絵合労働研究所発行)
☆牧柾名著『学校と子どもの人権』(新日本新書)
☆埼玉教組「学校から体罰をなくし人間を大切にする指導を貫くために」(埼玉教育新聞号外) 、
☆「学校暴力から教育を守る共産党の提言」(『赤旗』一九八三年三月十≡目付)
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by saikamituo | 2013-02-05 18:21