雑賀光夫の徒然草

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のまさんの大きな手

野間さんの大きな手 
   …野間さんは庶民の心に生きている… 
 

 野間さんが逝かれた。和歌山の共産党と民主運動の時代を画した巨星落つとの思いにかられる。
 議員をさせていただいている関係で地域をまわると、「野間さんをよう知ってるんや。おい・おまえ、の関係でつきあってきた」と言われる方によくお会いする。先日も、紀美野町でお会いした方は、「野間さんの手は大きかったなあ。土方などのアルバイトをしながら大学へいって弁護士になったんやもんなあ。あんな人、ないで」と言われた。野間さんは、今も庶民の心の中に生きている。
 野間さんが初当選した1972年。社会党現職の中谷鉄也氏が突然の立候補辞退。かわって貴志八郎氏が「死中に活を求めて」「革新一議席は社会党」と立候補。私は、投票日直前に海南鋼管の前で中山豊さんたちとビラ配りをしていた。社会党陣営も、ビラを配っている。社会党幹部の方が中山さんの近づいてささやいた。
 「あと一歩なんや。ここはゆずってくれんか」
 そんな攻撃を跳ね返して、世直し弁護士・野間さんの当選をかちとったのは、共産党と後援会の奮闘とともに、真の革新・本当の庶民の代表を国会に送りたいという和歌山県民の熱い願いだったろう。
 「紀ノ川のように」という野間友一随想・対談集がある。そこでは、尾藤監督との対談とならんで、私の父・紀光も対談している。紀光が後に野間さんのリーフレットに推薦の言葉を寄せたことがある。
「野間さんは立派な人だ。その野間さんを毎回国会に送っている和歌山県民も立派だ。」
県党常任委員だった松葉さんが「ええ言葉やなあ」と言ってくれたが、野間さんを国会に送ってきたことは、県民の誇りである。
 野間さんの当選と共産党の躍進は、労働運動にも大きな影響を及ぼした。争議団共闘などは、前進的に解決にむかう。1980年ごろになるが、いま、海南海草の党の責任者をしている西上さんは、美里(今の紀美野町)のある企業で労働争議をしていた。田舎のことで悪戦苦闘。そこに野間さんが激励にきてくれた。それだけで、地域の空気ががらりと変わり、勝利和解に向かったという。
 野間さんの当選は、大企業労働者のたたかいを励ました。その一つが住友金属の労災隠しである。沖縄出身の下請け労働者が工場内で亡くなった。いったんは病死とされ、遺体が故郷に送られていたものが「電気溶接の感電死だ」という職場活動家の告発を聞いて、野間さんは遺体を和歌山に送り返させた。和医大で解剖して、労働災害が認定されたのであった。野間さんはその問題を国会でもとりあげた。
銀行のサービス残業問題も大きく前進した。残業手当が支払われただけでなく、夕方になって自宅に早く帰って来た銀行員の夫は「どこか悪いの?」と奥さんから聞かれたという。
田中角栄のもとでの狂乱物価もあって、73、74春闘は、15%、30%の大幅賃上げを勝ち取る。74年の年末には公務員労働者の「人事院勧告差額」は、「ボーナスが二回あったようだった」と今も語られる。和教組委員長をされた田淵史郎さんは、「政治闘争の前進が賃金や教育条件改善などの要求運動にどう影響するか」という例にこの話をよくされたものだった。
 野間さんは、タクシー労働者などに特に人気があった。県地評幹部だった木戸孝和さんは、「野間さんの偉いところは、労働者から訴えを受けた時、それが解決できるかということの前に、一緒になって共感して『許せん!』と怒ることなんや」と言われたことがある。議員になってから、その言葉を何度もかみしめている。

                    和歌山県議会議員 雑賀 光夫

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by saikamituo | 2012-10-06 18:57

漱石と日露戦争

夏目漱石と日露戦争

1 「趣味の遺伝」という作品があることを知ったのは最近だが、私は「漱石の日露戦争観」に関心を持ってきた。
 親友である正岡子規は、「坂の上の雲」の3人の主人公の一人にされた。軍人である秋山兄弟とは立場が違うが、同じような角度で時代をみていたのではないか。そこで日清戦争では従軍記者を志願する。日露戦争のときには他界していた。d0067266_17525666.jpg
 漱石は、日清戦争のことはわからないが、日露戦争については、斜めからひややかにみていたように思う。「草枕」からそのにおいを嗅ぎ取ってきた。徴兵忌避をしたということは、最近知った。
 漱石は、「坂の上の雲」の原作では松山で子規が下宿に転がり込んでいた時代のことが出てくる。映画では、「大和魂」についての持論(「吾輩は猫である」に出てくる)をはいて、あとから謝るというような変な登場させられる。これは、子規の死後、高浜虚子が主宰する会で「猫」を読み上げたという事実から映画に組み込んだのだろうが、原作にはあるのか?謝ったのなら、出版した「猫」には組入れなかっただろうと思うが・・・。
 漱石は、のちに満州への旅行にでかけるのだが、それは、斜めに見ている漱石を、大学の友人である満鉄総裁・中村是公が「わしらがどんなすごいことをやってるか、見に来いよ」と誘い出したものではないか。
 ここまでは、確たるものをもたない私の、漱石や子規については子供時代の「偉人伝」レベルの知識に基づく印象である。

*「満韓ところどころ」を読みかけている。子どもの頃の「偉人伝」からの印象は、そうまちがっていないようだ。

2 「趣味の遺伝」を初めて読んでびっくりした。
 日露戦争で日本中が沸き立っているなかで、よくまあ、あそこまでかけたものだと思った。
 私たちは、戦前の時代に反戦・厭戦の小説は弾圧をうけるように思ってしまうが、与謝野晶子の「君死に給うことなかれ」は、家に石を投げられたとしても、官憲の弾圧をうけたわけではないから、おどろかなくてもいいのかもしれない。
 しかし、漱石が描く日露戦争、203高地のたたかいは、きわめて概念的である。芥川龍之介に「将軍」という小説があり、そこに203高地への突撃の白襷隊がえがかれる。芥川のほうが、はるかに人間の機微をえがいている。
 ぼくは、ここに漱石の限界を見る。「趣味の遺伝」のなかで主人公の「余」は、図書館へいくぐらいしかしない人間だと述べている。大変正直に自分の限界を述べているのは、漱石の偉さかもしれない。
 漱石の多くの小説に登場するのは、「吾輩は猫である」を例にとれば、学者(くしゃみ先生とその家族、寒月君)と親の財産でくらしている高等遊民(迷亭など)が中心になる。中学校の生徒、どろぼう、巡査、軽蔑の対象としての実業家(金田・鈴木君)もでてくるが中心的登場人物ではない。肉体労働者は「車屋」であるが教養のない軽蔑の対象でしかない。
 林田茂雄さんが「漱石の悲劇」という本に「漱石の作品の主人公の家は、どんなに落ちぶれても、ばあやを雇っている」という意味の指摘をしている。
 ばあやのいる家から学校と図書館に通う生活から見える世界が、漱石の世界だというのが、漱石の一面である。
 漱石の作品で、労働者を主人公に近い扱いにしたものがある。「工夫」である。炭鉱の仕事を手伝ったことのある学生が持ち込んだネタで学生の目を通して工夫を描いている。異色の作品である。
 この漱石の限界から、203高地の激戦は、概念的なものにとどまっている。漱石は、「余は、日露戦争に主眼を置いたのではなく、菊の花を持ってきた麗人を描いたのであるから、ケチをつけないでくれ」というかもしれない。

3 しかし、学校と図書館を行き来する漱石は、イギリスにも留学して、古今東西、万巻の書に通じた大学者である。哲学者・戸坂潤が、「岩波文化」「教養主義」という線上で、漱石の教養の高さというものを評価したことがある。
 だから、この人物は「時流に乗る」というような、安っぽさがない。日露戦争で日本中が湧き上がっていても、幸徳秋水のように戦争に反対するわけではないか、時流を冷ややかにみるという余裕をもっている。d0067266_17543766.jpg
 そこで「大和魂」を茶化しもするし、日露戦争を斜めに見る。
 和歌山での講演「現代日本の開化」が、前日の国威高揚の演説会に冷や水を浴びせたというのは、教養ある世界的視野を持った漱石である。

4 戸坂潤が言う「教養主義」あるいは「岩波文化」「漱石文化」というものは、民主主義の幅広い基盤であると思う。
 戸坂潤というのは、京都大学の西田門下から唯物論に進んだ論客である。西田学派が戦争に協力したといわれるが、それは、西田幾多郎の亜流ではないかと思う。西田幾多郎のものを読んでみると、観念論の枠内で、偏った考え方をきらう論評がある。そうでなければ、その門下から、三木清、戸坂潤、柳田謙十郎、務台理作といった唯物論(あるいはそれに近い)哲学者が出るはずがないと僕は思う。

写真は 戸坂潤

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by saikamituo | 2012-10-06 17:43