雑賀光夫の徒然草

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文学論 スタンダール「赤と黒」1

文学論 スタンダール「赤と黒」

       和教組海草支部書記局  岩尾靖弘


(『紀北教育』第二〇号、一九六二年四月)

  気楽にしゃべりますから、あとはどんなにしようと勝手にして下さい。どんなに感じるかは勝手に判断してもらって、間違ったこともいいますが、間違った部分は大事なことでないので適当につかんで下さい。全然感じが悪ければ忘れてくださってけっこうです。また、自分の体を通して消化してもらって、別の形に発展させるものがあれば幸いです。とても無責任な形で時間をつなぎたいと思います。d0067266_1741579.jpg
  いろいろ文学論ということについては何かあると思いますが、事務局が勝手につけた内容であって、ぼくは何なにについてというふうな内容について話したいと思います。何々は何かということはしゃべった後でついてくるものと言うことでこらえてもらいたい。というほどまとまっていないし、最近は、安保体制をいかに打破するかとか、国内情勢とか国際情勢とかいうことばかり言うてるので、二、三の本を読みながら感じたものというのでご容赦たまわりたい。
【写真は若き日の岩尾靖弘さん】

いかに生きるかを考える二つの型
 

  かつて黒江小学校におるとき、その時の校長・福井英一さんと話したのですが、福井さんはいろいろ人間の生き方、あるいは如何にいくべきかということを考える時期は、一生のうち必ず一回か二回はあるというのです。また、どうしたらよいか、どう教訓をみちびきだすかという場合は二つの形があるのではないかというのです。ひとつの型は、できるだけそのものをズバッと教えてくれるものを読んで、そのなかで教訓を導き出す。端的に言えば「いかに生くべきか」という本を読むとか、宗教書を読むとか、あるいは教訓を直接ならべたててくれる論文を読むとか、哲学書を読むとか、あるいは歴史について知りたければ歴史的事実に直接ふれた本を読むという型です。
  もう一つは、できるだけ文学というものを通した、あるいは小説という形をとった、あるいは詩という形を通じて、あるいは歴史観なり、社会観なり、あるいは生き方など直接説いていないものから生き方をとらえていく型とがあるようで、前者の型がどうもワシ(福井)のようだと言われるのです。わしはどうしてもカタクルシイ本を読まんと読んだ気になれないのだ、というのです。
  それに対して、私は歴史を歴史の本によって学ぶより、歴史的事実を背景にして動いている主人公なりの生き方を通じて歴史的背景をつかむのです。端的にいえば、詩なり小説なりという形態を通じて学ぶ方が、私にとって学びやすいし、よく残ります、というような話をよくしました。
  いくらかの類型はあるにしても、多かれすくなかれ、このどちらかに属するのではないかと私は思うわけです。そういう点で教師である以上、教育雑誌を読んだり、あるいは実践報告を読んだりすることを通じて自分の実践をみがき、教師としての完成をはかっていくという面と、それから、それとは何の関係もないように見えるものを通じて何か教師としての豊かさをつかみとっていく面と、この二つの面が何か作用しているのではないかという感じを持つわけです。
  これは単なる私の感じですが、こういう点で極端に言えば、先生というのはあんまり小説を読まないのではないかという感じを抱いているのです。d0067266_17465213.jpg
  非常にむつかしい本を読んだり小説を読むにしても、古典的に誰に言われても何か自分の流儀を持ってどんどん読んでいき読みながら批判するという力は自分にはなんら持ち合わさないので、いずれおもしろいこと、おもしろさにつられて読んでいく中で知識が蓄積されて、それがいつか蓄積されたものが再生されて、そこではじめて批判検討の時期をむかえるという場合もあると思います。だから私は、いつでも本を読むのは単なる興味で読んでいきます。従っておもしろくない本はあまり読まないのです。
  というのは最近そういう傾向がとくに強くなったわけですが、かつては相当むつかしいと思われる本も単に名作だからという理由で読みました。私もそうですし、皆さんもたぶんそうでしょうが、二〇才前後の経過を見たら、何か一つの作品にとりつかれて情熱的な、強熱的にその本にとりつくという思い出をもっておられると思いますが、そういうような強熱的なもの、古典的な名作に対する評論家たちの評価に引きつけられて、最も人間の心の奥底にふれる、ごく素朴な情熱をはばんでいくような年齢の読み方というものが、つきまとっていると思うのです。
    【岩尾さんと妻・富子さん】

おもしろいかどうかを第一の基準に読む

  そういう事等考え、或はそういう経過の中で私は私流にいろいろな作品を読んできましたけれども、やっぱり面白くない本は読む価値がないと感じ、最近とくにその感じを強く持つようになりました。
  いろいろ理屈をつければ、文章上の問題、構成上の問題あるいは作者の意図がどういう形で浄化されて新しい人間が作り出され行動が展開されているかということが小説を味わう原則的なことだと思うのですが・・・・・。私はそういうことより、むしろ読んで面白いか面白くないかということを一つの基準にしています。そういう点で日本にもいろいろな小説はありますが、あまり面白くないです。おもしろいなと思って読んだ小説は余り見あたらないなという感じをいまだに持っています。
  それぞれ読んでいるときはおもしろいなと思って読んでいるし、あるいは辛抱して読む場合もあるのです。しかし、それらを読んだ日からしばらくたつと忘れてしまって何だったかなと思うような小説があまりにも多いのではないかと思っています。
  私だけがそういう感じを持つのか、文章をかじりかけの青二才がこんなヒニクれた感じをもつのかという反省をしてみますが、やはり私だけでなく終戦後こういう形で数多くの文学青年たちが日本の面白くない小説にわざわいされてか身投げをしたり、自殺したりするという悲劇がおこっています。私流に解釈すれば、日本の小説が面白い、あるいは、わくわくしながら、あるいは読んでいる間にしんみりと幸せがあじわえるような作品がないんだということです。 
この考えは、十年ほど前からのものです。こういう問題をはっきりさせようと思えば、日本の近代文学がどういう形で始まっているかということにふれなければならない。こういう問題にはいっていくと、勤評や安保や国際情勢ということばかり言っているので、それを解明する能力を持ち合わさないのです。というのは、この問題にふれようとすれば、それらの系列のなかにおける典型的な作品を読まないとものが言えないわけです。端的に言って、二、三例をあげても、日本の自然主義のはしりは田山花袋の「蒲団」と言われる。けれども、田山花袋や……とあるそれらの作品を読んだうえで、日本の近代文学がどういう中で発生し、どういう中でゆがめられ発展したかという問題は、これから作品にふれてあげていかんと具体的な問題として話すことができにくいので簡単に……。
  二、三、問題提起としてあげておきたいのです。
  一つは、近代文学の発生の特徴はどこにあるかというと、やっぱり観念的な小説とか尾崎紅葉の美文調のものとかから現実をありのままに描写すること(への発展)、美しいところだけをいっそう美しくというのでなしに、現実をありのままに冷たい目でみにくいところもえぐりだしてさらけだすということ、言いかえると暴露するところからはじまっています。これが暴露するときには外科医が手術するときメスをふるうように冷厳なのです。あたたかい血のかよった目ではどうしてもメスがにぶるという、こんなでなしにできるだけ冷たく突き放して見るということが必要になってくる。そういう小説の技法のなかで、手っ取り早く取り上げられたのが世の中を見るというのでなく、先ず自分を見るということからはじまっている。手っ取り早いことは自分という形で取り出されるのです。自分は、やはりひとつの現実です。どこかであんなにして女と遊んだとか、金を盗んだとかいうキタナイ部分を全部克明に描いていくという形を取るところからはじまっています。
  
日本近代文学の社会的条件

  それが一番手始めにされたのが田山花袋だというのですが、かれが描いたような描写は以前に日本では見られない。自分を放出してありのままに冷たい目で見つめてそれを克明に描いていくという点では非常に画期的な前進的な息吹を持った出発をしていくわけだけれど、日本の場合、それがかえって自分に溺れてしまうということになっていくのです。自分を突き放して描きだすとなにか愛着がでてくる。それをさらに突き放して一つの戯化して、それを客観的にずうと描ききっていくというところまで発展させえないで、自分を描くところで自分に溺れてしまって、他との関係をなくしてしまうという形で発展していくのです。
  端的に言って、世の中のわずらわしいことをさけるということ、そしてできるだけ何の関係もないところに自分をおいて描いていくのです。このように社会から切り離したところに自分をおいて、自分の純粋性を見いだして、自分を見つめていくということとか、小説本来が要請しているロマン性を否定するとか、物語だから読んだ人が夢を持ち、ロマンに感動する問題からできるだけさけていく、あるいは小説というのは本来的に一つの虚構を作ることだと言われているのですが、ある一つの別の世界を作ることによって、そこで人々の実感に訴えるようなものを作り出すのですが、虚構とかフィクションとかをできるだけなくしてしまうとか、人生の生きていく途上における偶発的な事件の発生をできるだけのぞいてしまうとか、小説本来の持っている面白いという感じをできるだけなくして、できるだけ自分が純粋になって、その純粋になったものを克明に描いていくという形で日本の近代的文学の発生がなされているといわれます。
  そんな形になんでなったかということについてはっきりつかんでいないが、比叡山の夏季講座での桑原武夫さんの講演があるのですが、その中で、日本資本主義が明治維新が(民主主義革命としては)不徹底の形で進み、いわゆるへんてこな形でおわり、資本主義が発達したというところあたりも、自分ができるだけ他との関係をなくし、あるいは社会のなかにまきこまれるというのでなしに、そこからさけることによってできるだけ純粋な現実凝視の法をつくっていくというところあたりにも大きな原因があるのではないかと言われている。
  こういう点について、中村光夫が風俗小説論で書いているが、狭い枠に閉じこもることによってみがきみがきして書かれた珠玉の短編集というのですか、私小説というジャンルを形成していった一つの社会的条件として、日本資本主義の変則性というのですか、社会構造の問題が相当明らかにされていると思いますのでそこへゆずらせてもらいます。d0067266_17502941.jpg
  そういうことから、私の本を読むときにおもしろくないという一番主要な基準が日本の場合には決して根拠がないとはいいきれないと自ら性格づけています。そういう点で日本の小説を読まない人は、それなりの正当性はあるのではないでしょうか。
  私はいろいろと雑学に首を突っ込むほうですので講談本もよめばチャンバラの国定忠治も読むし、浪花節の原本も読めば落語の原本も読むし、さんざひまがあれば読むわけです。やっぱり読めば読むだけの面白さを味わっている。そして読んでいくという蓄積を通じてしか批判できないということからふるいにかけられて残った作品というものがやっぱりあります。
  最近でも読んだ本で面白かったのは、こんなことをいうと人間が上等に聞こえないのですが、師範学校にいっているころ圧迫されていたので道あるく女学生は皆別嬪さんにみえた。そのころ、三人の女学生と友達になってデイトを重ねていました。そういうころですし、そういう話が向くわけですし、そう振りたい年代でありますし、映画の話としても一級品の名しかあげない、見ないのではなくあげないのです。作品についても一級品の名しかのぼせないのです。たまたま女学生三人の一人が「私が一番好きなのは探偵小説だ。」と言った。その生き生きとした彼女のことばが今でも印象に残っています。文学を味わったり、詩を味わったりすることの感動は自分一人のものです。つきつめれば、何に対して面白いのか、何に対して感動しようと一切他人に責任をもってもらわなくてよいのではないか、というつもりでいろんな作品に接してきたし、その接し方の一つの蓄積の中では相当、淘汰され浄化され、そしてあってるとしたら批評感も質的に高められたと思っている。
  やはり最近読んだ本で、「人間の条件」は面白かった。第一版が出たとき買って、誰もまだこんな本を知らんときに、面白いなあと思って読んで友達に貸したりした。それからしばらくするとベストセラーになっていたりした。あれは今まで日本の小説の中になかったロマン性なり、あるいは物語の一つの構造上の一つの構成に成功したということはあるにしてもそれだけのおもしろさだけでした。読んだあとでつまらん感じがだけがのこるのです。(次につづく)

【写真は原水爆禁止阪井大会での岩尾さん】



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by saikamituo | 2012-01-12 22:32

文学論 スタンダール「赤と黒」2

作品の内容にふれるけれども作者の甘さというもの悲壮感だけがオーバーになって戦争という限界条件では人間がどうなるかということを設定して、自分はどちらにもいないで、どちらともつかない唯漠然としたところを見て、また、梶という人間もあいまいなかたちで悩んだり、苦しんだりするというオーバーなところが気に残って変にあいまいなと思うのです。
 もう一つ松本清張の「黒い森」などは、もしえらそうな言い方が許されるなら作者の位置がはっきりしているということでしょう。社会に対する対処のし方というものが一応はっきりしておもしろいし、小説としても構成上からおもしろい。吉川英治の「宮本武蔵」などもおもしろいけれどクサイです。本人がありますからもったいぶってるのです。だから、あまり、ピチピチした若い層にはむかないとおもいます。


「赤と黒」は読んで幸せになる小説 

こういうことから今まで一番面白いと思った本を実は紹介したかったのです。それは、スタンダールの「赤と黒」という作品です。オーバーないいかたをすれば、この本を読んで幸せになるというようによくいわれます。この本を読むときほど幸せに感ずる時はないと多くの人からいわれています。まさにそのとおり私も感じました。スタンダールの「赤と黒」をちょっと解説をすれば、訳は桑原さんと生島さんです。この「赤と黒」の訳本は他に二・三でていますが、桑原さんのが一番いいといわれ、これほどの名著はないとまでいわれています。しいて欠点をいえば訳がうますぎるということです。ひとつの本を紹介して皆さんが是非読まれるようにしてください。なんで読んでほしいかというと青野秀吉さんという人が(なくなりましたが)「赤と黒」がどこがおもしろいかという質問ほどばかげた質問はないといっています。およそ小説を読んでどことどこが面白いかというほど愚問はないというのです。と言うのは、はじめから、終わりまで読まなわからんということです。とくに、桑原さんなどもいっています。d0067266_17583591.jpg
 「赤と黒」の筋はなんだというとジュリアンソレルという町人の息子がある町の町長の家庭教師にはいってその家の奥さんとなかよくなって、追い出され、貴族の娘と仲良くなり、子どもを生ます。前の婦人から中傷され、はらたって婦人を殺して罪を問われて自分も死ぬという筋です。そんなものなんで面白いかといえば、読まなわからんということです。
 この本は一八三一年だからいまから一九六一年から引いてくれたらわかるが・・・。当時この本が出されたときには本屋はどうせ売れまいということで実際は三〇年に印刷して三〇年に出しているが、発行日をわざと一年遅らせて、出しているというほどの曰くつきの本です。当時、パリの評論家たちからどんないわれ方をしたかというと「作者の心理分析のあまりの厳しさと社会主義に対する風刺の激しさに不安を抱き賛辞をためらう」ということです。メリメというフランスの評論家が主宰する「パリ評論」にのった評論がこんなんです。

心理小説でもあり社会小説としても評価

 バルザックは「あのような重大な誠らしさの欠如を示し、あのように道徳に欠けているが称賛すべき作品だ」だけです。あるいは「我々に残っている人間性と信仰との最後の一点までも我我からうばいさるという冷ややかな哲学のあらわれだ」ともいって、たいていは筆を加えることできなくして黙殺してしまっているのです。唯、ひとりだけ予言した人があった。それはゲーテです。おかしいことにスタンダールはゲーテを「あんなもったいぶった野郎はだいきらいだ」という一番嫌いな人が彼の作品について予言しているのです。「フランスの心理小説の最高のものだと多くの人からいわれ、当時の社会情勢を的確に描いたという社会小説としての評価もされる」これはフランスの七月革命あたりの問題からもう一度検討したうえでこの問題に触れることが私の責任でもあるのですが・・・。 一口にいってフランスの七月革命があり、それに対する反動期をむかえ、そのあたりの大衆の生活状態や様子を非常に的確に描いているという定説もあるのです。これは作品の所々にでてきます。例えば、ある貴族が御者を乱暴にようあつかわないのです。これは彼らがまた主人公になるかもわからないからということを恐れ、その時は、私の首を大切にしてもらいたいという不安と押さえつけようという反動的な社会の様子が簡潔にえがかかれているということです。あるいは、あるひとつの階級の考えなり観念というようなものを克明に表した最初の作品だというともいわれています。なお、ひとつ現在のフランスの作者たちがどういう作品に影響を受けたかというアンケートのなかでスタンダールの「赤と黒」が一番おおかったという圧倒的な結果がでています。
 はじめどうしても売れまいと一年も発行日を本屋が遅らせてだした本が今日まで生きておるという内容をどうしてつかんでいくかということが、この作品に対して一番基本的なことになるでしょう。なお「赤と黒」意味ですが、赤は軍隊、軍隊はナポレオンをあらわすもの、黒は坊さん・僧侶です。当時、ナポレオンのころはどんな平民も、どんな百姓も武器を持って闘って、武器の力で栄達できた。非常に解放的な進取の気性に満ちた人間というものがたくさんおったが、現在においては平民は上にのし上がるにあがれないということから、わずか坊さんになって栄達するという道しかなかった。という中で権力を握っていったという模様を象徴しているともいわれている。ところがスタンダールはこれにはなにもいっていない。
 もう一つ読んでもらうために青野さんが「スタンダール覚え書き」という短いレポートのなかでいっていることを紹介すると「私は少青年時代にスタンダールを読まなかったことを後悔している。ジュリアンの若さと夢とモラルと幸福がつよく働きかけてこないはずはなかったろうと想像されないことはない。ジュリアンは誰のなかにもひとりでもみごもっており、時代の像をこえて永遠の像として生きており、唯それが少青年の時代に牙をぬかれ、または殺されてしまうかそうでないかの違いである。その違いは大きい。」誰にでもジュリアンがもっているロマンスと夢とモラルと幸福はおよそ人間が生きているかぎり持っているし、心の底に眠っているものだというのです。それがどのように伸びていくか、あるいは若い頃になんらかの条件でその前がつみとられるかということで生き方が変わってくるということを指摘しているのです。
 また、「私のジュリアが顔をもたげないうちにしめ殺されてしまった。もし、・・・の変わりに「赤と黒」を読んでジュリアンという主人公に接しておったらばもっと違った形で生き方かたがあったに違いない」と感想を述べています。ことに二〇才前後少年期から青年期にかけて、こんな作品にふれるのとふれないのとでは大きな違いがあるんだといってるのです。そうにしてもまた、いま読んだにしてもわたしのジュリアンが心のどこかから、ジュリアンのロマンと夢と幸福がつかめないというのではない。それほど強烈なものを受けると感想を述べています。
 あるいは「罪と罰」の主人公にラスコルニコフという人があります。彼は質屋の婆さんが生きててもしかたないとして殺してしまいますが、彼と比較して「私はラスコルニコフと一緒にいき、行動しない」「みている」というのです。但し、ジュリアンの場合はそうはいかん、ジュリアンに同化してしまって一緒に行動するというのです。
 こういう単純な指摘もなされています。ジュリアンは町長のベナール夫人と恋愛して追い出されるわけですが、一旦帰ってきて、梯子で夫人の部屋にしのびこむことの例を挙げて私はジュリアンと一緒に梯子をかついで夫人の部屋にしのびこむとまでいっています。
 ジュリアンはどんな人かと聞かれていうとすれば非常に偽善家です。自己をあらわすひ非常な才能を持っている。虚栄心の満々たる猛烈な野心家でジュリアンから野心を抜いたらなにもなくなるほど強烈な野心家です。その野心に支えられて生きていくというような性格です。それにしたがって非常に冷酷です。あるいはエゴイストです。そういう盲目的激情的感情の持ち主です。いわゆる社会の悪徳をすべてひっさげ備えているということなんです。あらゆる美徳をふみにじって平然としている人間が描かれているのです。

主人公ジュリアンで色々な人間を描く

 それがなぜ私たちを引き付けるのかというのですが、それについて誰も明確な答を出していません。それぞれの人がこの本を読んだ感動でもって直接ジュリアンに接していくという以外に回答はでてきません。いいかえるとすれば「我々は非常に高貴な魂とだけ対決せなあかん」ということとか、低くて狭い魂ほどつまらんものはないとか、最高の勇気とはあらゆる悪徳とあらゆる善とに打ち勝つときにあるといわれています。最高に大事なのは悪にも善にもさらに越えたところに魂の光が輝く何らかのものを持ってるものがあるという、こんなものをジュリアンのなかによみとるものがよいとされる。通常我々、善とか悪とかいっている中でなされている行動の評価で描かれているジュリアンを通じて描かれている色々な人間は悪いことしてもよいことしても滑稽にみえるのです。ここらあたりが日本の小説と違ってくるところです。日本の小説に喜劇性がないというのもこんなところにあるのです。
 さらに善とか悪とか醜いものとかいうものを超越した所からみれば滑稽なとこもでてくれば、深刻な所、楽天的なとこがでてくるということです。こんなところが興味のまとになっているといって違いない。
 それから最後に青野さんのまとめは「ジュリアンは臆病者である。例えば家庭教師になる家のレナール夫人という素晴らしい美人ともう一人のレジット夫人と三人が庭で暗くなって話をするのです。たまたまレナール夫人の手がジュリアンの手に触れるのです。しかし、夫人はその手を引っ込めるのです。ジュリアンはこれを侮辱されたと見込んでなんとかしても握りかえさないとおさまらんという義務を感ずるのです。自分に対する自分の高貴な魂がけがされたと、絶対に握るという義務を果たさない限り自分の魂は救われないとして一〇時になるのを待つわけです。冷汗たらたら何をしているのかわからないくらいになってしまうのです。それほど強烈なのです。一〇時の鐘がなったら自分の義務を果たすためあらゆる障害を乗り越えて握りにいくわけです。払い除けられるがまたギュッと握ると夫人の方からも握り返してくるというくらい卑俗に聞こえるがその間の心理の移り変わり、そこらのニュアンスというものの素晴らしさは読んでみないとわからん。
 また恋愛小説としても素晴らしい作品だと思うがありきたりの物のつもりで読むと所々で立ち止まります。どんな所かというと初めて部屋のなかに偲びこんで一夜をあかすんですが、何した、かあしたというのでなしについ読み切ってしまってキスしたとかどうとかいうことは一つも描いていない。ところがそこを読むときはまったくうっとりさせられます。恋愛的な感情に移ってしまって常人がするようなことこの人らどこでしたのかとお下劣な人間なら探すというほど素晴らしい恋愛描写があちこちにあります。レナール夫人とこから追い出されてラモール侯爵ところの娘と仲良くなって貴族の集まりに列席して、野心家ですから喜ぶわけです。その時レナール夫人から投書が入ってジュリアンは野心家で自分の栄達のために何もかも利用するという手紙をジュリアンは読むわけです。ジュリアンはすぐさま怒って教会の中におるレナール夫人を射ち殺すわけです。ここがこの小説の一番悪評のあるところらしいですが、これだけの野心家がたった一片の中傷の手紙で自分の生命を捨ててしまうというほどとりみだし、人を殺すとは理屈にあわんとうのです。ピストルで射つ時もレナール夫人と顔を見合わせる。その時にうたんとそむけた時に射つという最高に好きな人を射つという心理描写がほんの二・三行の中に描かれているのです。

  「赤と黒」と「パルムの僧院」、どちらが名作か


 尚「パルムの僧院」という小説もあるがこれとどちらが面白いという論争では後で読んだ方がおもしろい、後で読んだほうが名作とするのが答えらしいです。それほどよくできているということと比べるのは馬鹿らしいというものでしょう。文学作品を味わうときはやはり本当に自分を大事にするという面があります。これを教育という部面に入ったときでもおなじこといえると思う。言い換えると、読んでええなとすまして通ってよい教材とあるじゃないか、あってしかるべきだというのと読んでええなあすまそうという教師の配慮があってよいということです。こんな教材の扱い方をもう少しやってよいのじゃないかな。楽になるとかならんとかいうことはもちろん含んでます。映画をみてもすぐ理屈をいいたがったり、すぐ理屈でまとめあげさせようとしたりしないと気がすまんということから教訓垂れたもうおいうやりかた、こんな習性はなくしていくほうがよい。そのため小説を楽しんでほしい。


 本稿は、一九六一年の「紀北教育研究会」夏季合宿での報告である。中山豊先生の字でガリが切られている。当時、岩尾先生は、和教組海草支部専従書記長、中山先生は起訴休職で海草支部書記局で仕事をしていた。

「紀北教育」第二二号(一九六二年四月)より

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by saikamituo | 2012-01-12 22:30

父・紀光についての雑感

父・紀光についての雑感



(一)
 わたしの父は、雑賀紀光という絵かきである。紀光の子であることを知ると、ひとはわたしに「あなたも絵をかくんですか」ときく。全くダメである。
中学時代、美術の先生がわたしを呼んだ。
 「雑賀、作品がでていないぞ。やりかけがあれぱ仕上げて出せ」
苦手な美術の作品提出の催促など、無視したいところだったが、絵の教師の子にあんまりな点もつけにくいという先生の立場も考えて、しわくちゃやにした作品をひっぱり出し提出したことがある。
 わたしは「絵かきの紀光さんの息子で」と紹介されるのがいやであった。三○代になっても、父のワクよりずっとせまいところにいることを思い知らされる。
 あるとき、北又前和教組委員長から、農民組合の委員長にひきあわせていただいた。
 「この人は絵かきの紀光さんの息子で…」「雑質さんというと、もしかしたたら
海南の教員組合にいた方では………」わたしは大得意になった。「どんなもんだ。
おやじを知らんでも、ぼくを知っている人がいるんだ」と。 
(二)
 父の絵は、だれにもわかりやすい絵てある。いわゆる「芸術家」型でなく「職人」型の絵である。
 このことについて父が、ふともらしたことがある。「ミケランジェロも、ダビンチも職人だった。時代のたかまりの頂上にいる職人だった」と。
 凡人の父とミケランジェロを比べるのではないが、「○○○も職人だった」というところが、なぜか今も心にのこっている。
 きのう、こんなことばをみつけた。「もし私が遠くを見たとすれば、それは巨人の肩の上にのっかってみたのだ」(ニユートン)。高田求さんの「未来をきりひらく保育観」という本の中である。
 ふと、こんなことを考えた。「すばらしい教育実践にとりくんでいる一人ひとりの仲間たちも『教え子を再び戦場に送るな』という合ことばのもとにすすめられてきた民主的な教育運動の肩の上にのって可能なのだ」と。
 このことは、ニユートンの天才を否定していないのと同様、日夜、子どもととりくんでいる一人ひとりの教師の血のにじむような個人的努力や教育的力量の高さを無視するということではない。
  (三)
 父は、革新懇の世話人に名をつらねている。かといって革新的入物ではない。奇術に凝っていた当時は警察とのお付き合いも長かった。「絵を買ってくれるのは、自民党の先生方のほうが多いから………。」ともいう。いつか、保守の有力者が、銀座の個展にならべた絵の一枚を自民党本部だか首相官邸だかにかけるといって買ってくれたといってよろこんでいた。本当にかけてくれているかどうかは知らないけれど………。
 そんな父も、戦争だげはいやだという。体の小さい父は、徴兵検査で五玉をはねられた。「お前はもうい!」と記録もしてくれなかったという。おかげで終戦まで召集をまぬがれた。「召集されていたら生きていなかった」と小さいころ父にきかされた。戦災のあと、やけのこった家財を荷車につんで「次の電柱まで。次の電柱までJと自分にいいきかせ、はげましながら、海南の借家までたどりついたことなど……。弱々しい人間の、ごく平凡な戦争体験でしかないけれと、自分の孫たちにそんな経験をざせてはならないとだけは思っているようだ。
 そのことだげ思っていてくれれば、革新想のメンバ-としては十分だろう。よびかけ人や世話人というがらではないけれど。
 「彼は決して政治を求めては行かなかった。ところが政治が彼を求めてきた」(ロマンロラン「魅せられたる魂」第九巻)という、戦争と平和の問題にだれもが無関心でおれない時代に、また、さしかかっている。
                         (一九八二、五、三)
………………………………………………………………………………………………
 父のことについて、ふと雑文をかいてみたくなり、どこにのせるともなく書きとめておいた。父が野間さんを推せんしだ機会に、ひっぱり出してみた。
(和教組書記長) (「和歌山民報」掲載)
………………………………………………………………………………………………
「あとがき」にあるように、「和歌山民報」にのせるために書いたものでなく、自分の手記である。「和歌山民報」の下角さんに見せたら、「これは面白い」と載せてくれた。
 生前、親に一言も親孝行の声をかけたことのない息子が、「民報」紙上で親父に送った親孝行の言葉である。父とこのことについて話したことはないが、母が「お父ちゃん、よろこんでたよ」と言っているのは聞いた。父と息子の対話の少なさというのは、こういうものであろうか。
 日本共産党から「お父さんに野間さんのパンフレットに推薦をいただけないか」と相談を受けたとき、私は、こう答えたと思う。
「僕は、絵の依頼でもなんでも、自分で親に頼まないことにしている。いろいろ引き受けている親父が、息子の義理でまで仕事を引き受けてはかわいそうだと思うから。僕には無関係に話を持ち込んでほしい」と。
父が野間さんの推薦を引き受ける判断をしたのには、野間さんへの評価とともに、当時の父は、「自民党の先生」に気兼ねしなくても誰でも絵を評価してもらえるという絵描きとしての自信を持てるようになったことに加えて、息子が野間さんにお世話になっていることへの配慮もあったかもしれない。
 一方、この文を、「民報」にもち込んだ私のほうにも、父の立場への配慮がはたらしていることも読み取っていただけよう。
ところで、その父が、野間さんのパンフレットに寄せた言葉。
「………野間さんは立派だ。その野間さんを毎回国会に送っている和歌山県民も立派だ。」
県委員会の松葉さんが「ええことばやなあ」と言ってくれたが、僕も、親父にほれ込んだ言葉である。
(父の死後、HPに載せるにあたって書き加えた)

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by saikamituo | 2012-01-12 12:46

党とともに歩んだ岩尾靖弘さん

生涯を党とともに歩んで 岩尾靖弘
                    月刊学習1992年 3・4月掲載
                    佐々木良平(本名 楠本一郎)

地域におけるすぐれた指導者…
<子どもたちに親しまれた教師  
  
  和歌山県における一九五八年を中心とした、教職員の勤務評定に反対する闘争(勤評闘争)は、全国的な民主勢力のたたかいが警職法反対闘争から安保闘争へと発展する上で、大きな役割を果たしたといわれています。それは和歌山県の勤評闘争が、それぞれの郡市においても県段階でも、教職員組合や民主団体による共闘を重視して、たたかわれたからです。
 それ以後の和歌山県の教職員組合運動や民主運動を支えてきた活動家が、ここ数年、相次いで亡くなりました。そのうち、六十歳前後という働き盛りで惜しまれながら亡くなった一人に、岩尾靖弘さんがいます。彼は、労働運動、教育運動の中でつねに学びながら成長し、すぐれた組識者として、多〈の人に親しまれ、敬愛された指導者でした。
一昨年(一九九〇年)十二月二十日付の『赤旗』は、岩尾さんの死去について、十八日午前六時五十分、肝硬変のため死去。六十三歳。一九五四年入党。永年党員。和歌山県教職員組合専門委員。和歌山県国民教育研究所事務局長。和歌山県教職員組合執行委員。同海草支部書記長、海南市政を明るくする会事務局長などを歴任した、と伝えました。

 ◎文学書を読みふける青年時代

 一九二七年十一月二十九日、那賀郡猿川村(現海草郡美里町)に、父泰三、母たまえの二男として生まれた岩尾さんは、一九四二年猿川小学校(現国吉小学校)高等科を卒業し、兄さんの進んだ道にならって、和歌山師範学校予科に入学しました。このころの彼のことを、同級生であった中山豊さん(現日本共産党海南市議)は、次のように書いています。
 「学生の頃、彼は教壇からあびせかけてくる課題に熱心でなかった。懸命に文学書にふけっていた。戦時中のことである。軍国主義教育をさけて如何に人間らしく生きるかを勉強していた」。
 生前岩尾さん自身が語っていたところによると、彼の文学好きは、小学生の時若い女の先生が授業で文学の読み聞かせをしてくれた影響によるということでした。後に教師として国語を語るときも、すぐれた文学は、読むだけでいい場合もあるのではないかというのが、彼の持論でした。
 教え子が語る教師としての岩尾さんですが、学芸会の劇の練習の際、何度か夜練習したことがあったが、そんなときは自分も好きな柿をむいてみんなに食べさせてくれたこと、音楽の時間は、ピアノを弾きながら、いい声で歌を歌ったこと、体育の時間には、年に十回ぐらい近くの山へつれて行ってくれたことなどが、印象的なことだと語っています。子どもと同じ日の高さで物事を見、考えていました。
 六〇年安保闘争のあと、彼も会員であった教育研究サークルの合宿研究会で、「文学論 スタンダール『赤と黒』」と題して講話をおこなっています。その中で、「人間一生のうちに何度か如何に生きるべきかということを考える機会がある。その際、宗教書とか哲学書等を読んで、直接教訓を導きだすという型があるが、もう一つ、文学というものを通した、小説や詩という形を通じて、歴史観、社会観や生き方を直接説いていないものから生き方をとらえていく型がある」と語っています。その話の終わりに、教師はあまり小説を読んでいないのではないか、という疑問を投げかけ、楽しく小説を読んでほしいと注文をしています。
 読書好きの岩尾さんは、青年時代から何でも読む乱読タイプで、新刊書はいち早く読み、人にすすめるほうでした。マーク・ゲインの『ニッポン日記』や五味川純平の『人間の運命』などは、自分が読んだあと、人に「読んでみないか」とすすめた書物です。こういう乱読タイプの読書は亡くなる直前まで続いたようです。
 文学を好んで読んだことが、人びとを組織する際、人間をありのままとらえそこから出発する、という彼の資質と切っても切り離せないことだったと思います。
 少しつけ加えますが、卒業するために人並みの勉強をする、というようなことも軽視しないのが、岩尾さんのもう一つの側面でした。先の中山さんの言を借りると、師範時代、「試験の前になると数学などについて、『どこがでる』かと、出題されるかもしれないいくつかの問題を言えという。少なくともその中でいくつかは言い当てていたのであろう。必要な問題の正解をしてパスをするのである」。

◎勤務評定反対闘争をくぐって

  一九四八年三月、和歌山師範の本科を卒業して教職につきますが、その翌年結婚し、一男一女をもうけます。このころの岩尾さんは、教職員組合運動や「わだつみ会」のような平和運動にあまり関心を持っていなかったといいます。
 ところが一九五一年に政府は、アメリカなどと単独講和を結びましたが、日本共産党をはじめ、労農党や産別会議、私鉄総連をはじめ多くの労組、民主団体、大学教授などの知識人が、全面講和を要求する運動をくりひろげ、全面講和を要求する署名が四百八十万も集められました。
 また、そのころ原子兵器の無条件禁止を要求する有名なストックホルム・アピールの署名が六百四十万も集まるなど平和運動が大きくもりあがりました。
 こういうなかで、岩尾さんは、物の見方、考え方について、居住組織の人びととしばしば討論し合ったといいます。
 そんなとき、一九五三年七月十八日に和歌山県をおそった大水害の救援活動に教師として積極的に参加するなかで民衆の側に立つと、心のうちに決意を固めていた岩尾さんは、入党のすすめにたいして快く応じました。
一九五七年から始まった勤評闘争の時期は、和歌山県の教職員組合が、いわゆる「校長組合」から、下積みの教育労働者が主人公の組合に脱皮する時期と重なっています。
一九五八年四月、岩尾さんは海草郡内の二つの町にまたがった教職員組合班組織の書記長の役につき、勤評闘争をたたかいます。和歌山県の勤務評定反対闘争は、「勤評は差別を助長し、民主教育を破壊する」という合言葉のもとにたたかわれました。この二つの町の各職場では、愛媛の勤評闘争の経験などをきちんと学びながら、地域の父母や個人・民主団体との共闘を追求しました。その結果、二つの町の教育委員会が勤務評定実施反対の決議をするという成果を上げることができました。
しかし、権力の側の反撃もきびしく、その年度末の人事異動で、ある学校の教職員のうち半数が配転されるという報復的人事が出てきました。この時、岩尾さんたちは地教委と交渉するため、国鉄の駅で終列車まで待っても帰ってこなかった教育長を、朝の一番列車まで待ってやっとつかまえ、交渉の場を持つことを約束させるというきびしいたたかいもおこないました。
 岩尾さんは、このような勤評闘争をふりかえって、次のように書いています。
 「勤評ほどすべての教師を闘いの中にまきこみ、教師自身の力をいやおうなくひきむいた闘いはなかった。あるものには限りない自信と勇気を与え、あるものには権力の前におしひしがれるよわい姿を見せつけ、あるものにはあきらめと逃避をうえつけ、その意味で非常に残酷な闘いであるとも言える。残酷であるだけに今後の闘いそのものも如何に苦しくとも途中でやめることのできない性格を持っている。前むいて闘いつづける以外に苦しみを少なくする道がない。それほど権力との闘いは冷酷無慈悲なものである」
 和歌山闘争の意義は、愛媛などの貴重な経験に学びながら、過去十数年蓄積してきた組織の全能力をふりしぼって、全国的に守勢に追いこまれていた勤務評定反対闘争を攻勢に転じ、文字どおり全国民的な運動へ転化させる機縁を与えたという点にあったといわれています。そして、勤務評定反対闘争の前途に希望の光を点じ、高知闘争とともに、単なる教師のたたかいの枠をこえて、全労働者階級を中心とする国民的なたたかいに発展させる有力な支柱となったのです。岩尾さんたちのたたかいは、この和歌山闘争を下から力強く支えました。

◎組織者として一回り大きく成長
 よく知られているように、一九五八年は日本共産党の第七回大会がもたれた年です。この大会で採択された「『勤評反対』激励の決議」では、「教師の勤務評定は教育の自由をうばいとり、子どもと教師とを軍国主義体制の確立に奉仕させ、日本の核武装のための思想的準備を整え、学校教育をふたたび戦争への道へのぼらせようとするものであります。(中略)諸君の闘争には子どもをはじめとして全人民の幸福とわが国の将来とがかけられています」と呼びかけていますが、これは、勤評闘争をたたかう教職員を大きく励ましました。d0067266_18551244.jpg
 岩尾さんは翌年一九五九年四月には、海草郡・海南市の小中学校の教職員で組織されている和教組海草支部の書記長に就任します。そして職場の組合員の声や要求を引き出しながら地域での共闘をひきつづき発展させる幅広い活動をすすめていきました。人を組織する上での彼の持ち味がいかんなく発揮され、組織者としてひと回り大きく成長したのは、この時代です。
 彼の友人の田伏通男さんは、そのころのことを次のように書いています。
 「このような彼だからこそ、勤評闘争後のあの困難な時期、海草支部書記長として支部組織を守りぬき発展させることができたのだろう。勤評闘争後、厳しい弾圧に耐えきれなくなって次々と脱退者が出たころも、少しも動揺せず、いつも笑顔を失わなかった。支部委員会を招集しても、数人しか集まって来ない状況の下で、先ず人を集めることが大事だと考えた彼は、青年教師たちに働きかけて焼肉の会を開き、そこへ集まった組合員に学習させたりなどして、次々と組織していった。
 どんな人にたいしても、じっと話を聞き、その上で歯に衣を着せず率直に批判をしたりするけれども、その人のすぐれた点を大いに評価しつつ展望を示し、相手の気持ちを汲む心遣いを忘れない態度は、彼と接したすべての人々をひきつけたのだった。
 考え方が全く違う人さえひきつけ親しくつき合うのをみて、靖っさんは、磁石のような不思議な力を持った人だなあと、感心したものだった」

貫いた科学的社会主義の学習  同和教育でも党の立場

 ◎集中的に国民融合諭を深める 

  和歌山県では、一九七一年四月に同和対策特別措置法の趣旨にそって、同和加配教員が県下に初めて配置されます。当時有田市の小学校に勤務していた岩尾さんは、学校の要請でその任務を引き受けます。それ以来、岩尾さんは退職までの十三年間同和教育推進教員(以下、同推教員と略す)の仕事を続けます。
一九七四年十一月、兵庫県で八鹿高校事件(七十名の教職員を襲い、五十四名を負傷させた惨事)が、部落解放同盟によって引き起こされました。十二月十九日には日本共産党の村上弘議員が、衆議院予算委月会の総括質問で、この事件を取り上げて政府を追及しました。ちょうどこの日和歌山県同和教育推進教員連絡協議会(以下県同推協と略す)が御坊市で研修会を開いていたのですが、テレビに映る村上議員の質問が、夕刻、一日の研修を終わってロビーにすわっていた参加者をとらえました。参加者はまんじりともせずこの質問に聞き入っていました。
 翌年四月、岩尾さんは県同推協の事務局長に就任します。八鹿高校事件をきっかけに国民融合論にもとづく同和教育の見直しが提起されます。「解放教育」の影響が比較的少なかった和歌山県においても、改めてこれにとりくむことは重要な課題でした。
 この時期、部落問題についての日本共産党の政策・方針が、「赤旗」紙上にいくつか発表されました。一九七五年四月四~五日の小林栄三論文「自主的民主的同和教育の確立のために--朝田派の教育破壊への批判に立って--」、同五月二十六~二十七日の「部落解放のいくつかの問題--差別主義に反対して、国民的融合ヘー-」、同六月九日の「いわゆる『差別用語』問題について」などは、当時日本共産党が教育政策・教育運動・教師論について発表していた多くの文献とともに、民主的同和教育を求める教職員にとって大きな支えになりました。
 岩尾さんは、県同推協の中で、この同和教育を見なおすという課題に敢然と、そしてねばりづよくとりくみます。定期にもたれる県同推協の研修会で、現場の実践家や大学の研究者を呼んで話をききながら、ねばりづよく国民融合論にもとづく同和教育の基本路線についての理解を深めていきました。「提起された問題を集中的に深める」という、岩尾さんの活動スタイルが、威力を発揮しました。
 基本路線の問題だけでなく、それにもとづいて、同和教育の各論ともいうべき課題についても、その正しいあり方を解明する努力がなされました。同推教員と地域の関係、小学校での歴史学習のあり方、同和教育の「特設」授業、同和地区子ども会の問題など、岩尾さんの手がけた問題は多岐にわたっています。
 後年この時期の経験をもとにして、「同推教員の位置づけと任務をめぐって」という文書を執筆しました(『部落』一九八九年八月号)。この論稿をふくめて、岩尾さんの残した文章・講演記録が『ロマンを語る 岩尾靖弘遺稿集』として、1991年末出版されています。

 ◎体罰問題にとりくんだ民研時代
 岩尾さんは学校現場を持ちながら、県同推協の事務局長・会長をという大役を九年間も引き受けてきました。この間、有田地方の子どもや教職員の抱える問題を解決するためにも、日夜奮闘しました。
 岩尾さんは、退職後和歌山県国民教育研究所(以下、民研と略す)の事務局長に就任します。そしてある中学校で吹き出した非行問題についての調査をすすめ、抜本的な解決策を探るために、教育実践・学校レベルの問題にとどまらず、地域や行政レベルをふくめた全面間な教育調査を、現場教師や研究者の力を結集しておこないました。
 民研の事務局長時代、岩尾さんが特に力を入れて取り組んだ課題の一つは、教師の体罰を克服するということでした。教職員組合の機関紙に体罰問題の連載を執筆するとともに、この問題で学習討論する機会があれば、県下どこへでも出かけていきました。
 また、そのころ教職員組合の援助でつくられた教育相談センターの活動にも積極的に参加しました。今でも語り種になっているのですが、会議に岩尾さんが参加するときは問題がよく深まるというのです。それは、彼自身問題を解明するというより、彼が人から話を引き出すのがとても上手で、討論に花が咲いたからです。
 岩尾さんの活動を支えたのは、科学的社会主義のねばりづよい学習でした。一九五八年の夏、勤評闘争の最中に第七回党大会議案である「党章」(綱領と規約を合わせたもの)草案が発表されました。その学習・討議を、岩尾さんとともに、たたかいの合間を縫い何回かの日曜日をさいておこなったことを、昨日のように思い出します。
 岩尾さんは、一九六五年の四月、彼の死因にもなった肝硬変の発病で、六年間の専従の海草支部書記長を辞任し、現場へ復帰しました。この時期に岩尾さんは、古典もふくめ、科学的社会主義の学習を集中的におこないました。そのころ、第九回党大会の後、第二次総合二カ年計画と独習指定文献が発表されそれにもとづいてねばりづよく学習がすすめられていました。d0067266_185927100.jpg
 岩尾さん個人の独習の様子を語る資料として、一九六六年二月十日の日付のメモが残っていますが、その年の十二月まで読了する文献(古典の部類)として、次のようなものがあげられています。
 『国家と革命』、『帝国主義論』、『さしせまる破局それとどうたたかうか』、『民族自決権について』、『社会主義革命と民族自決権』、『共産主義内の「左翼主義」小児病』、『反デューリング論』、『労働組合について』、『第二インターナショナルの崩壊』、『フォイエルバッハ論』、『党の統一について、戦闘的唯物論の意義について』。
 ◎『月刊学習』に投稿
 岩尾さんは、山本進のペンネームで、『月刊学習』(一九六五年十二月号)に「わたしたちの細胞(現在の党支部)学習会」という報告を書いています。
 学習の基本は独習ですが、声をかけるだけではなかなか実践にうつされにくい、と言われています。それを助け全体の学習意欲をもりあげるため、一泊二日でおこなったのが、この学習会です。
 岩尾さんは、この報告の中で、学習が身についていくためには、比較的抵抗の少ない短い文献から始めること、分からないところが多くても、毎日少しずつ読みすすめて、とにかく一冊の本を仕上げるようにすること、とくに古典は簡単に全体が分かるものではないが、労働者の解放のための理論だから、やりさえすれば誰でも成果を上げ、学習の喜びを味わうことができることなど、自分の経験も含めて、説得的に語りかけています。
 また、全体の独習が進んでいく上で大切な四点を、次のように上げています。①支部会議でどんなときにも一貫して学習の問題をとりあげること。②思いきった集団学習会をすることが、独習の大きな刺激になること。③支部員の中でまず一名ないし二名独習をやる人を意識的につくること。④どんなささやかな経験や問題点もつねに出しあって相互援助をすること。
 また岩尾さんは、大衆活動としても科学的社会主義の学習を大事にしました。経済学教科書の学習サークルについては、先にふれましたが、一九七〇年四月、京都知事選に何人かで支援活動に行った帰り、車の中の雑談から生まれたのが、唯物論の学習サークル「紀北唯物論研究会」でした。


◎教職員共産党後援会の活動の中で
 最後に、教職員共産党後援会の中での活動をふりかえってみたいと思います。岩尾さんという人のもつ力が最も総合的に発揮されたのは、この活動の中であったといえるかも知れません。
 彼の口ぐせは、「構えを小さくしないで、大きな構えを」でした。彼の活動の特徴をいくつかあげるとすれば、次のようなことでした。
 後援会に集まってくる人びとに、必ずその時の情勢を訴える。そして、みんなと一緒に段取りをきめ、そのためのいろいろな係の分担をきめる。それぞれの動きが軌道に乗るまで気を配り、動きだしたら信頼してまかす。実務を抜きに活動はないことを他人にも説きながら、自分もきちんと実務をこなしていく。情勢判断は事実にもとづいて総合的にきびしくおこなう、などでした。
 どの人にも温かく接する岩尾さんの人柄が、多くの人を引きつけました。新しく参加した人には必ず声をかけて、話をじっくり聞きました。また、元気をなくして結集できていない人には電話をかけ、励ましながらぜひ力を貸してほしいと訴えました。時には、言いにくいことを、ずばり忠告するということもありました。みんなが元気づくこと、たとえばにぎやかな雰囲気をつくることなどをとても大事にしました。職場からたまり場へ直接かけつける仲間のために、時には自分で「おさんどん」を引き受けて、温かい食事を用意するということもありました。
 食事の時間には必ず食べる、というのが彼の活動の際の習慣でした。好きな酒もぷっつりやめて、発病以来二十五年間肝硬変を体内に持ちながら、常に温かく仲間を励まし続けた岩尾さんから学ぶものは多いと思います。

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by saikamituo | 2012-01-10 00:27