雑賀光夫の徒然草

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陝西省人民対外友好協会表敬訪問

日中友好協会和歌山県連で、2011年10月14日から19日まで「北京・西安への友好の旅」をおこないました。その報告から。陝西省対外人民友好協会への訪問の記録です。


古都・西安を訪ねて
陝西省人民対外友好協会表敬訪問


劉先蓮副会長の歓迎のことば(要旨)

 陝西省人民対外友好協会を代表いたしまして、雑賀先生をはじめとする和歌山県連合会の皆さんのご来訪に対し心からの歓迎の意を申し上げたいと思います。
 先日、和歌山県連合会から、うちの対外友好協会副会長の張宝文あての手紙を拝見させていただきました。張宝文主任に代わって皆さんのご来訪を歓迎いたします。
 元々の対友協の場所は別のところにあったのです。半年くらい前に、こちらの方へ引っ越ししまして、ここに来てから二度目に和歌山県からの代表団を受けることになりました。  
 二カ月前に、和歌山県からの教育文化会の代表団が来られました。教育分野で交流しずいぶん意見を交わし懇談しましたけれども、また今回再び同じく和歌山県からの代表団をお受けして、本当に歓迎したいと思います。d0067266_15584662.jpg
 私も和歌山県へは一度行ったことがあります。非常に美しいところです。
 陝西省は、中国の真ん中のほうにあります。世界的に知られているところがありますけれども、人口は三千七百万人、面積は二十万平方キロくらいです。地形からみると南北に細長い省です。南の方は暖かい山岳地帯、中部は平野部で西安もここにあります。北は黄土高原という砂漠に近い地域で冬の寒いところです。
 西安は、開中平野にあり五つの市のひとつですが、この平野部は古くから農業が盛んなところで、現在では非常に農業以外でも科学技術とか教育もふくめていろんな面で発達しているところです。また陝西省は黄河のおかげで文化の発祥地として発展してきました。
 歴史上では、周・秦・漠・唐とか有名な時代の都は、西安でした。都としての歴史は千年を超え、中国では一番長いところです。
 陝西省と日本との交流は非常に歴史が長く、たとえば和歌山県とか大阪、京都、奈良とか、これら府県との交流は秦の始皇帝の時代にさかのばることができます。徐福の上陸、遣隋使、遣唐使。阿倍仲麻呂や小野妹子など、これらの人々・中日友好の先駆者は両国の交流のために力を尽くされましたけれども、最近になっても両国の交流・友好関係は健全に発展しているので非常に喜ばしい事情です。
 来年は中日国交正常化四十周年です。私たちも四十周年をきっかけにいろんなイベント、いろんな交流が盛んに行なわれることを心から期待していますし、もし和歌山県側の方で良い交流の提案がありましたら、ぜひ陝西省対外友好協会として協力してまいりたいと思っています。
 改めまして皆様の来訪を心から歓迎いたします。ありがとうございました。




雑賀団長のあいさつ(要旨)


陝西省人民対外友好協会・劉さんをはじめとしたみなさん、お会いできてうれしく思います。
今年は、1931年の柳条湖事件から80年に当たります。それは、15年間の日中両国の不幸な歴史のはじまりでした。昨日は、北京で盧溝橋と中国人民抗日戦争記念館を見学してまいりました。私たちは、過去の誤りに決して目を背けてはならないと考えています。同時に、その時代にも命がけで侵略戦争に反対した人たちもいました。日本共産党を中心にした人たちです。d0067266_1605451.jpg
日中友好協会は、日中国交回復以前から両国人民の友好に取り組んできました。海南市には「日中両国平和の塔」があります。1972年に海南市民の募金でたてられたもので、毎年、この塔の前では、「平和のつどい」が開かれます。(「平和の塔」の写真を手渡す)
日中友好運動には、戦後、一つの断絶がありました。それは、中国の文化大革命の時代でした。対等平等の友好運動をすすめようとしていた私たちは、中国の公式代表とはお会いすることもできないという事態がつづいたのです。しかし、中国人民のみなさんとは、いつか友好関係を回復できると信じてきました。
1998年に日中両国共産党が、関係を正常化したのをきっかけに、私たちの友好協会も、訪問・友好を深めることができるようになりました。
日中両国の間には、まだ領土問題など意見が一致しない問題もあります。そうした問題は、ねばり強い話し合いで解決すべきであって、両国人民の友好の妨げにしてはなりません。
最近日本では、大震災・原発事故、台風で大きな被害を受けました。前回の中国訪問では四川省大震災のお見舞いを申し上げたのですが、このたびは、日本の災害で中国の皆さんからも多くのご支援をいただいたことに感謝申し上げます。
今年は、辛亥革命から100年の年です。和歌山県が生んだ世界的な博物学者・南方熊楠は、ロンドンで、辛亥革命の指導者・孫文と交友を深めました。その後、熊楠と日本に亡命した孫文が、和歌浦で旧交を暖めたことがあります。その地に、日中友好のシンボルとして、記念物をつくる運動を私たちはすすめています。
(和歌浦の芦辺屋跡地で、孫文と熊楠の出会いの寸劇をしたり太極拳をしている写真を手渡す)
 また、忘れてならのは、唐代の長安で空海が密教の教えを受け、日本に帰って真言宗高野山を開いたことです。高野山はいま、世界遺産に登録されています。その観光パンフレットもお持ちしました。ぜひとも、和歌浦や高野山にもおいでいただきたいと思っています。


劉副会長より記念品

 団長の温かいご挨拶をありがとうございました。
 歴史を一変して、中国と日本は近隣だし仲良くしなければならないし、これからも両国政府ならびに両国人民の協力で関係がいっそう高まることを期待しています。歴史を忘れてはいけないのですけれども、前向きにしなければなりません。d0067266_15563964.jpg

 これは、陝西省の記念品としてお贈りする『銅馬車』というものです。今度皆さんは『兵馬桶』に行かれますが、その中の重要な場所の『銅馬車』 です。
 皆さんには、秦と明の時代に盛んに作られた『青磁器』のキーホルダをお贈りします。

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<雑賀団長より記念品

・海南市の漆器『蒔絵・赤富士』
  両国民の友好万歳」の文字入り
・高野山関係誌

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by saikamituo | 2011-11-14 15:51

長恨歌への旅

長恨歌への旅
     続「酒飲みで反戦の中国の詩人たち」

 

(一)

今年(二〇一一年)の和歌山県連・日中友好の旅は、北京と西安(長安)を訪問した。
北京は、交通渋滞と破壊された文化財でみなさんの評価は散々だった。考えてみれば、東京に来て江戸時代の文化を求めても無理かもしれない。
他方、漢・随・唐時代の都だった西安(長安)は、古い文化財が見事にのこされていた。
玄宗皇帝と楊貴妃のロマンスの場、華清池を訪れた。ここには、玄宗皇帝・楊貴妃それぞれ専用の温泉あとがある。d0067266_16114245.jpg
旅に先立って、「長恨歌」を読んでみた。僕は、盛唐の詩人、杜甫・李白のものや、もっと前の晋代の陶淵明の詩が好きでよく読むが、中唐の白楽天(白居易)のものは、読んでいなかった。
「春寒くした浴を賜う 華清の池
温泉水滑らかにして 凝脂を洗う」
とある。
 「温泉水滑らかにして…」は、どっかで見た。そうだ、漱石の「草枕」で、温泉にはいるところで、「温泉と言うとこの一句が浮かぶ」というようなことを主人公の画工がつぶやく。その那古井の宿の温泉というのも「石が不自由せぬ国と見えて、御影石を敷き詰めている」となっているが、玄宗皇帝と楊貴妃の温泉も、石の四角い温泉である。ただ考えてみると、温泉跡地だから当時はそこに板を張って湯船にしたのかどうか、説明はない。
 草枕を読んだときは、「凝脂を洗う」の意味が分からなかった。御影石の浴槽から湯があふれているのかと思っていた。「凝脂」とは、楊貴妃の柔肌のことだったのか。長恨歌では、この温泉で倒れこんでしまった楊貴妃が侍女に助け起こされて、その夜、初めて皇帝のお情けをいただいたことになっている。
 「長恨歌」は「天にあっては、比翼の鳥、地にあっては、連理の枝」という有名な句が、最後のところに出てくる。僕が知っていたのはこれだけ。一番最後は「この恨みは綿々として尽くる期(とき)なからん」で結ばれる。「恨」というのは、「非恋の恨み」かと思っていたら、「恨=恋」、長い恋の歌ということらしい。
(「中国名詩選・下」岩波文庫)

      (二)

 「名詩選」で、その少しあとに「重題」という白楽天の詩がある。
  「遺愛寺の鐘は、枕をそばだてて聞き
   香炉峰の雪は、簾をかかげて看る」
 これは誰でも知っている。高校時代に習った「枕の草紙」の有名な話。
 中宮が「少納言よ、香炉峰の雪は、いかに」と問いかけると、清少納言は、立って、御簾を巻き上げた、つまり、白楽天の詩を知っていたということで教養を示し、周りにいたひとたちは感嘆したという、清少納言らしい自慢話である。ところが、不学な私は、その出典を今ごろ知ったような、はずかしい話である。
 その詩は「日高く眠り足りるも猶お起くるにものうし」で始まる。この句だけは、僕でも知っていた。「春眠暁を覚えず」によく似ている。前に「酒飲みで反戦の中国の詩人たち」という文にも一海知義先生の受け売りで書いたが、当時の中国で朝寝坊できるのは、出世街道からはなれた窓際族なのだ。
 「司馬はなお老を送るの官たり…故郷 何ぞ長安にのみあらんや」と結ばれる。「司馬」というのは、閑職であったそうな。左遷され首都・長安に離れての朝寝坊の歌なのである。

      (三)

「長恨歌」と「重題」の間にある「新豊の腕を折りし翁」に衝撃をうけた。
  腕を折った八十八歳の翁にわけをたずねた。
 「生まれて聖代に逢って征戦なし」(良い政治で戦争がなかった)
 ところが程なく、政治が変わって、雲南にまで兵を送るようになり、三戸に一戸は徴兵されるようになった。「千万人行きて一の回るもの無し」
 そこで翁は、二十四歳のとき、大石で腕を折って、徴兵を逃れたのである。
 「老人の言、君、聴取せよ……又聞かずや、天宝の宰相 楊国忠」
 「楊国忠」というのは、無頼の徒であったが楊貴妃の従兄であっただけで宰相になったという。     (「中国名詩選・下」岩波文庫P107)
 まあ、時代がかわったからここまでいいきれたのだろうが、悪政をここまで告発するとは!白楽天が、左遷されて、長安からはなれて、朝寝坊をしたことは、こうしたことと関係があるのだろうか?
(2012年10月修正)

     (四)

ところで、「酒飲みで反戦の中国の詩人たち」という文を書いたと述べた。その中で「宮廷詩人であった唐代の詩人たちが、どうして反戦の詩を書けたのか」という意味のことを書いた。「宮廷詩人だった」というのは、杜甫の「飲中八仙歌」中で、李白などが酒を飲んで宮廷に召されても酔っ払っていたということだけで、そう思い込んでいたのであった。まことに恥ずかしい。
杜甫・李白・白楽天など、科挙試験に合格した秀才であったかも知れないが、一時は宮廷に仕えても、それに収まりきらない。失脚もし、放浪もする。酒を飲み、反戦の詩が生まれたのであろう。(どちらが先かは知らない)
もう一つ恥ずかしい間違いを告白しておくと、李白の「長干行」
「門前の遅行の跡、
 一一 緑苔を生ず。
 苔深くして掃うこと能わず、」
について
「夫は若妻をのこして兵役に行くのがつらくて、門前で行ったりきたりする。」と書いたが、この夫は、遠方へいったが兵役というわけではなさそうだ。  
一知半解で、書き散らしたのを恥ずかしく思っていたが、楊貴妃のおかげで、ここにお詫びすることができた。

     (五)

ところで、今回の「友好の旅」でもお酒を飲んだ。まずビールを頼むが、そのあとはたいてい紹興酒。50度のリキュールがサービスでついていることもある。
しかし、「李白一斗詩百編」「斗酒比隣を集む」の酒。陶淵明が、家族は別のものをつくってくれというが、粟をつくって酒にし、「いざ帰りなん」と故郷の我が家に帰って、壷に満ちた酒を頭巾で絞って飲んだという酒は、度数が低い醸造酒であった。私は、老酒の色から、茶色い酒だと想像していた。ところが白楽天の「間劉十九」という詩は「緑蟻 新賠の酒」で始まる。緑色で蟻のように泡だっている。
日中友好協会で、「唐代の酒と詩を味わう旅」を企画したら大当たりすると思う。そのためには、海南で藤白墨を復活したり、各地で古代の赤米を栽培しているように、緑色の唐代の酒を復活しなくてはなるまい。

  二〇一一年十一月 

雑賀 光夫
(日中友好協会和歌山県連合会副会長)

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by saikamituo | 2011-11-13 20:45