雑賀光夫の徒然草

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小林多喜二と「早春の賦」によせて

小林多喜二と「早春の賦」によせて


 学習協の松野理事長は、学習新聞の原稿が足りないと携帯に電話してくる。「雑賀さん、すこし刺激的なことを書いてください」と挑発する。久しぶりで挑発にのってみようか。

            (一)
 小林多喜二・「早春の賦」をみた。「ずいぶんむずかしい芝居だね」という感想もあった。そのむずかしい場面の一つが、芝居の後半にあった「同伴者作家」をめぐって、仲間と論争し、意見が分かれて仲間は用意したすき焼きも食べずに帰ってしまう場面だった。
 頭を整理するために、年表をつくって見よう。
  1928年 2月 第一回普通選挙
3月 3.15共産党大弾圧
3月26日 全日本無産者芸術連盟(ナップ)結成
 (日本プロレタリア芸術連盟と前衛芸術家同盟が合同)
  5月 「プロレタリアレアリズムへの道」(蔵原惟人)
    (「前衛の『目を持って』世界を見ること」という言葉が、その結びにだてくる)
  1932年 32年テーゼ
  1933年 小林多喜二逮捕・虐殺
 短い期間に、なんと劇的な事件がつまっていることか。年表をつくってみて改めて思った。
 劇中で多喜二が「えらい評論家の先生に会う」といっているのは、蔵原のことである。蔵原は小説はかかないが、文学運動の理論的指導者として、地下から運動を指導する。多喜二の小説の中で「ひげがつかまった。拷問に屈せずがんばっている」と出てくるのは、この蔵原のことである。その指導的論文が、ここにあげた論文や「芸術方法についての感想」(1931年)などである。〔「芸術方法としてのレアリズム」(新日本文庫)所収

(二)
 ところで、劇中で多喜二が仲間と論争して物別れになる「同伴者作家」というのは、プロレタリア文学と共産党に近いが、その周辺に居る文学者のこと。宮本顕治に「同伴者作家」(1931年3月)という論文がある。広津和郎(注1)を例にとって、同伴者作家への評価をのべたもの。(「宮本顕治文芸評論選集・第一巻」1980年初版)
 ところでこの第一巻の「あとがき」で宮本顕治は次のように述べている。
「私がどの組織にもはいっていなかったころの『敗北の文学』『過渡時代の道標』(一九二九年)などは半世紀後の今日にも批評文学として読み得るものをもっている。また、一九三一年前半期ぐらいまでの…… 今日的にも一応読まれる意味はあろう。しかし、一九三一年後半、「唯物弁証法的創作方法」論以後の作品論などは、機械論が目立って、自分で読んでも苦痛である。それはただ、組織の方針に心ならずも拘束されたというようなことでなく、私自身もそれが正しいと考え、それに忠実であろうとしての努力の結果だった。」
 劇中の小林多喜二の同伴者作家論は、宮本顕治が「自分で読んでも苦痛である」とした時代の制約をうけていたのではないのだろうか。
 (注1)広津和郎 「風雨強かるべし」などの作品がある。戦後、松川事件の無罪を主張して活躍。「松川事件」をかいた。

(三)
 観劇の合間に、配られたリーフレットを読んだ。この脚本は1970年代にかかれて何度も公演されたものだという。
 歴史を生きた小林多喜二が歴史の制約をうけたのは当然として、現代の水準からそれを描くときどう描いたらいいのだろうか。原作者と演出家は、限界を限界として意識してえがいたのか。そうでないのか。
 まあ、そんな議論は、脇においておこう。こんな議論をしていたら「むずかしい文章だね」といわれそうだ。そこで私の思いは、宮本顕治の「第一巻あとがき」への思い出に飛ぶ。
この「文芸評論選集」の刊行がはじまったのは、私の学生時代の1966年である。「第二巻」から出た。私は、初版を買ったはずなのに手元にあるのは1981年出でた「第15刷」だ。そうだ、誰かに貸して返してもらえなかったので買いなおしたのだ。ちなみにあとの巻は、すべて初版である。「第三巻」1968年、「第四巻」1969年。待ちかねて買ったのだ。そして、11年の空白のあと、戦前のプロレタリア文学運動を全面総括した「あとがき」がついた「第一巻」が出された。佐藤静夫、津田孝といった文芸評論の第一線のひとたちが、「文化評論」「民主文学」などの雑誌で、この「あとがき」を絶賛した。
 私は、この「あとがき」の意義を認めながら、複雑な気持ちになったのを思い出す。文芸評論の一線でいる佐藤・津田という人たちは、政治活動で忙しい合間に、宮本顕治が、戦前のプロレタリア文学運動の全面総括をやってのけたことをうけて、自分のふがいなさを感じないのだろうか。宮本顕治も、当時まだ現役だった蔵原惟人やこれらの文芸評論家にアドバイスして、この人たちの手で総括をかかせてやろうという気にならなかったのだろうか。これが、当時の「複雑な気持ち」の中身だった。
            
            (四)
 すこしひねくれた思いを書いたから、こんどはもっと素直な、もうひとつの思い出を語ろう。蔵原の「前衛の目」にかかわってのことである。
 宮本百合子の「評論選集」①に私の好きな評論が二つある。「両輪」「心に疼く欲求がある」。今は、この「評論選集」よりも「全集」をお持ちの方の方が多いから、読みたい方はさがしてほしい。
 その「心に疼く欲求がある」の中に、次のようにある。
 「『前衛の目を持ってえがけ』といわれたことは、社会主義リアリズムへ展開して、もとよりその核心に立つ労働者階級の文学の主導性を意味しているのではあるが、前衛の目の多角性と高度な視力は、英雄的ならざる現実、矛盾、葛藤のそこまで浸透して、そこに歴史が進み、人間性がより花開くためのモメントとして、目にも立たないさまざまないきさつまでを発見することを予想している。」
 私は、この言葉が好きで、「機関紙の取材の極意は『発見』である」といって、この文章を紹介したことがある。
 「たたかう労働者の姿を描いていないプチブル文学だ」と戦後、一部の人たちから宮本百合子は批判された。百合子を擁護してたたかった宮本顕治の論文が、評論選集第3巻「宮本百合子の世界」だが、第二巻もセクト的傾向とのたたかいにあてられている。その圧巻は「統一戦線とインテリゲンチャ」という論文だとおもっている。同時に、この巻には、小林多喜二の思い出がいくつか載せられている。
 トルストイの「戦争と平和」を賞賛する小林多喜二。(注2)私は民主青年同盟の時代に、「レーニンの青年同盟の任務」の「共産主義は人類の価値あるものを引き継がなくてはならない」というくだりを解説するのに、このエピソードを紹介したものだった。ここには、狭く受け止めた「前衛の目」論(唯物弁証法の創作方法)はない。1933年の芝居にでてきた当時の多喜二の「同伴者作家論」も、宮本顕治が「自分で読んでも苦痛である。」と述べたものとは違っていたかもしれない。理論が正確でない場合でも、実践の場にいるものは理論を現実に近く解釈して現実に立ち向かうことがあるものだから。これ以上の研究は、文学の研究家・樋尻さん(原水協事務局長)にお任せする。
 「早春の賦」は、私の青春の文学論への旅を思い起こさせてくれた。

(五)
 作家同盟の歴史は、多くのドラマを含んでいる。特に多喜二と百合子と顕治はその圧巻である。
「文学新聞」の販売活動に参加する中条百合子。百合子の後姿を、「軽い足取りで」と表現した宮本顕治。好きな女性は、体型はどうであろうと、軽やかに見えるものだ。一方、顕治とあえる日に、鏡を見て「自分がこんなに喜んでいる」とつぶやく百合子。(どこに出てきたのか思い出さないが私の青春時代に強烈な印象をうけた場面である)
 「十二年の手紙」そして、それを乗り越えて二人が一緒になれたときのことを書いた「風知草」、夫婦の不一致があって、それが解消したあとの「ひろ子は、うれしさでとんぼ返りをしたいようだった」という一文は、百合子の作品で一番好きな一行である。

(注2)「小林多喜二の回想」(宮本顕治評論選集②)より抜粋
「小林はその頃、トルストイの『戦争と平和』を読んでいた。「実にすばらしい、うまいものだ。」彼はたびたびそういって感嘆した。私もむかし読んだ記憶を思い起こし彼と語り合った。プロレタリア文学は、「種蒔く人」の時代から、雑誌「プロレタリア文学」までのあいだにかなりの成長はしたが、まだ豊饒な開花をよく誇ることはできなかった。それは階級的地盤と社会的方向において、トルスイトの時代より新しい史的段階の所産であり、日本文学の新しい潮流として、世界の革命文学の一環としての存在を確認された。しかし代表的な作家の小林でさえ、まだ三十歳であったくらいの、全体としての運動の若さは作品にも反映した。ブルジョア文学の無力と退廃に比べて、それは純真で健気ではあったが、芸術作品の規模としては多くがまだまだというところであった。小林も『戦争と平和』を読み進むあいだに、そうした状態をふり返って、率直にというよりむしろ、やや強い揶揄をこめて作品の若さを慨嘆してプロレタリア文学の『戦争と平和』が善かれなくてはならないといっていた。世界文学の高い峰からみて「綴り方」程度であっては駄目だ。私たちはそう言って、日本のプロレタリア文学のなかからも、世界文学の頂につらなるものを生まなくてはと語り合った。しかしそうした作品が、進展する階級闘争を逃避する安易な自足的な生活から生まれるものではないことは、彼の信念でもあった。それはトルストイ自体が、あの必死の家出を敢行したよぅな強烈な魂ではなかったか。新しい時代の『戦争と平和』は、困難な時代に直面して、良心的に発展的にそれを乗り越えて力闘する生活の地盤から生まれるものでなくてはならなかった。
彼は『党生活者』の前編をまとめた。これは、発表することを予想して書かれたために不自由な言葉で語られている。しかしここに、日本文学は、地下に追い込められた困難な条件に屈せず、工場に根をはろうとするプロレタリア前衛についてのかなりの本格的な構図をもつことができた。彼は『戦争と平和』をうなりながら学んだように、バルザックやゴーリキーからもっと学びながら書きつづけることのできる、達しい前進力のある作家だった。
一九三三年二月二十日、彼は赤坂付近で共青の仕事をやっていた、当時やはり地下に追い込まれていたプロレタリア作家同盟の若い詩人、今村恒夫と連絡する途上で、多数の特高部員に襲われた。当時共青中央部と党へ潜入していた警視庁のスパイ三船留吉が手引きしたのであった。三船が用事をつくって小林と今村をそこへおびき出したのである。小林は、全力をつくして追跡からのがれようとしたが、ついにくみつかれ築地警察署へ連れて行かれ、その日のうちに拷問によって虐殺された。」


参考文献
「たたかいの作家同盟記」(江口渙)新日本出版社
「芸術方法としてのレアリズム」(蔵原惟人)新日本文庫
    「宮本顕治文芸評論選集・①②③」新日本出版社
    「宮本百合子評論選集①」新日本出版社
    「風知草」宮本百合子

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by saikamituo | 2011-08-27 23:05

終戦記念日宣伝・2011年8月15日


終戦記念日宣伝   2011年8月15日


日本共産党県議会議員の雑賀光夫です。東日本大震災・大津波から、5ヶ月になります。被災地での苦難がつづいています。
さらに原発事故、放射能汚染は、どこまで広がるのか、不安がひろがっています。一日も早く収束するために全力を挙げる。放射能汚染などのデーターは、全面公開することです。
今日は、終戦記念日です。無謀な侵略戦争をして、アジアの人々に大きな犠牲をあたえた。日本国民も戦争に駆り出され、海南市でも爆撃がありました。そしてヒロシマ・ナガサキの悲劇があったわけです。
戦後日本は、二つのメッセージを世界に発してきました。
一つは、侵略戦争の反省に立って、日本は二度と戦争をしない。「憲法9条」の決意であります。
もう一つは、ヒロシマ・ナガサキをくりかえすな。ノーモアヒロシマズというメッセージでございます。
ヒロシマ・ナガサキ、そして第五福竜丸と原爆・死の灰の被害をうけてきた日本で、世界最悪の原発事故がおこったということを、私たちはどう考えたらいいのでしょうか。
まず、歴代自民党政府は、「日本の原子力発電は絶対に安全だ」という「安全神話」をふりまいてまいりました。そして、和歌山県にも原子力発電所をつくろうとしてきました。古座原発、日置川原発、日高原発。
しかし、漁師のみなさんは、どんなにお金を積まれても故郷を売るまい、海を売るまいと原発を拒否してきました。日本共産党は、原発は技術的に未完成であること、廃棄物処理技術が確立されていない、トイレなきマンションであると批判してきました。
それでも、このたびのフクシマ原発事故がおきてみると、私自身は自分の認識が甘かったと思わないではいられません。
原子力発電所は、事故が起こったら取り返しがつかない。大量の放射能がでてきています。フクシマではいまも放射能がもれだし、汚染がひろがっています。汚染牛肉が全国にひろがっています。
この放射能廃棄物というもの、商業用原発ひとつから、1日に、ヒロシマ型原発、3発分の放射能廃棄物が生み出されるのだそうです。1年間では、1000発分になる。
ヒロシマ・ナガサキでは多くの方がなくなり、直後には、強い放射能をあびましたが、今は立派に復興しています。しかし、原発事故ではそうはなりません。1年間に1000発分の放射性廃棄物がうみだされている。
私は、そのことを知ったのは、フクシマ原発事故がおこったあとのことでした。そして、大量の放射性廃棄物の処理に莫大な費用がかかる。原子力発電の費用は安くないということを、一般新聞でも報道するようになりました。
「原子力発電は安全だ」という神話も「安上がりだ」という神話も完全にくずれたのです。
日本共産党は、「期限を切って原子力発電から撤退」ということを呼びかけています。
原子力発電の開発につかわれていた予算、電源立地交付金というものを、自然エネルギーの開発につかえば、太陽光発電、小水力発電、バイオマスといった自然エネルギーの開発にまわせば、地域にねむっているエネルギーを引き出すことができます。
私は、昨日、和歌山大学システム工学部にうかがって、自然エネルギー開発のお話を聞いてまいりました。谷川に水車をおいて、電力発電をすれば、遠方の発電所から長い距離の電線でロスを生みながら電気を引いてくるよりも効率がいい。しかも、地域の電気屋さんや土建やさんに仕事が回るというお話です。
もちろん、大きな火力発電所や水力発電所も必要ですが、地域では、エネルギーの「地産地消」で、地域を活性化するというお話です。
これまで、東京・大阪と言った大都市中心、そこで大企業が経済活動をするのに都合がいいような経済のしくみ、大企業の利潤追求優先の社会でした。
それが、原子力発電の暴走となって、今度の事故でそれが破綻したのではないでしょうか。
このたびの事故では、日本の食糧が大変心配です。いまでも低い食料自給率。牛肉や野菜の放射能が問題になっていますが、お米も心配です。
放射能汚染の心配ない紀美野町のようなところで、農業の振興を図らなくてはならない。そのためには、農業で食べていけるようにしなくてはなりません。
そんなとき、日本の農業をつぶしてしまうTPP協定。アメリカやオーストラリアなど太平洋を囲む国々で、農産物を含む関税撤廃などとんでもないことです。
それは「大企業に利益追求第一」「アメリカいいなり」の政治から抜け出すことをもとめているのではないでしょうか。

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by saikamituo | 2011-08-17 14:17