雑賀光夫の徒然草

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堀田奉文さん、やすらかに

お別れの言葉
「トト、早く元気になって」
 東浜の共産党生活相談所の七夕かざりをしたとき、孫の大雅君が短冊に託した願いもむなしく、堀田奉文さんは、永い眠りにつかれました。
 堀田さんと私は、東浜の昔の電車通りをへだてた向かい同士に育ちました。でも、一学年違いの海南一中と海南二中。お付き合いがありませんでした。
 初めて言葉を交わしたのが、お互い60歳近く、私が県会議員に挑戦して、幡川さんと一緒に東浜をまわっていたときでした。あいてかまわず「お世話になっています」と頭を下げることにしていた私に、「あんた、わしが誰か知ってるんか」という鋭い問いを発して、私をどぎまぎさせました。それが、いつの間にか、「雑賀勝手連」と自称する力づよい応援団になってくれていたのでした。
 私より先に、妻の康子が日方小学校で娘の理沙さんを担任し、亡くなった奥様とは、肝胆相照らす間柄になっていました。きびしい先生だったそうですが、お母さん方にはめっぽう評判がよかったようです。私がお会いしたとき、大雅君がおなかの中にいました。生まれてきた大雅君は、「さいかです」といって入っていく私の口真似をして、電話の受話器を持って「さいかです」といって、遊ぶようになりました。
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 堀田さんは、花が大好き。花を買ってきて大雅君が通う幼稚園や近所に植えてあげる、花配達人です。料理が上手で、おいしいものを知り合いに配る、ご馳走配達人でした。堀田さんの周りには、堀田さんを兄貴と慕い、恩人と慕う人たちがいっぱいです。仕事の面では大変厳しい人でしたが、みなさんに尽くしても見返りを求めない堀田さんに、「この人のためなら」と慕う人たちです。
 そんな堀田さんと、世のため人のために、自分の損得を省みずに尽くし、社会進歩に貢献することを持ち前としている共産党との交流が深まっていったのは当然のことでした。
 「わしは共産党とちがう。雑賀勝手連や」といいながら、生活相談所や選挙事務所においしいものを届けてくれましたね。和歌山の国重事務所にまで、激励に行っていただきました。「しんぶん赤旗」の拡大部数がたりないと泣きつくと、相談にものってくれました。
 志位委員長が和歌山にきたときです。演説会にいかれた堀田さんは、志位さんの演説をほめ、「たいしたものだ」と繰り返されたものでした。
 沖野々に医療生協が総合介護センター「げんき」を立ち上げることになりました。多くの海南市民のみなさんの力を結集したものです。堀田さんは、ひと肌もふた肌も脱がれました。「げんき」には、畑があって、土いじりができます。「げんき」という花文字が、堀田さんが花を運び、ボランティアのみなさんとの協力でできました。
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 堀田さんは、体調をくずして、4月1日に入院されました。まさかの大病です。
 ちょうど、自民党政治は、末期症状をあらわにしていました。私たち共産党は、「国民を苦しめてきた自公政権を退場させよう。新しい政権のもとで是是非非の立場で建設的野党としてがんばる共産党の議席を伸ばして下さい」と訴えていました。海南市では共産党は選挙区候補を立てないということもあって、堀田さんは、民主党の阪口直人さんに肩入れされました。粉河の事務所まで出かけていって、「もう暑くなるのにクーラーもないのは大変だ」とその手配までされたのです。病院から帰って体調がいいと、おいしいものをつくって、海南の選挙事務所に運んでおられましたね。
 自分でおいしいものを作るだけでなく、割烹みなみや紀三井寺のレストラン・デサフィナードの支援もされましたね。私たちは食事券をたくさんもらって、仲間たちと食事会をさせていただきました。入院しても、料理の意欲はおとろえず、「元気になったら、あれもつくらなあかん」と言っていたそうです。
 堀田さんの家系は、もともとはテキヤのもと締めの親分。寅さんの親分です。寅さんのような暖かさを持っています。
私的なことになりますが、私たち夫婦もけんかして、2日ほど口を利かないことがあります。そんなとき、口を利くきっかけが、「堀田さんが料理を取りに来いといってるよ」など、堀田さんにかかわることなのです。堀田さんが入院されてから、夫婦喧嘩はしないことにしました。
 堀田さんがお亡くなりになる前、亡くなった奥さんと一緒にかわいがっていた年老いた猫のミミが姿を消したそうです。奥さんを見送った後、また堀田さんまで見送るのがつらかったのかもしれません。あるいは、奥さんと一緒に天国で待っていてくれるのかもしれません。
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堀田さんは、娘婿の誠さんや娘の理沙さんの献身的な看護のかいなく旅立たれました。みなさんに花を配り、おいしいものを配り、幸せを配った堀田さん。お疲れ様でした。安らかにお休みください。

                                       二〇〇九年十二月十四日
                                               県議会議員  雑賀 光夫

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by saikamituo | 2009-12-15 20:21

最近の漱石とのつきあい



1 えらく安い買い物をした。県庁前・宇治書店で買った岩波文庫「我輩は猫である」(夏目漱石・563ページ)が、税こみで410円だったのである。宇治書店だからということではない。本に定価が書かれている。同じ岩波文庫で「文学評論」(漱石・262ページ)は570円である。「草枕」(漱石・222ページ)は、360円。ちくま文庫「夏目漱石を読む」(吉本隆明・287ページ)は、800円+税である。岩波書店は、「猫である」については特別安い値段で売っているのだろうか。よく売れるから、安くても採算がとれるのだろうかなど、どうでもいいことを考えた。
 なぜ、いまごろ「猫である」の文庫本を買い求めたのか。中学校一年生の夏休みに読んで読書感想文を書いて以後、寝床に持ち込んでは、眠れないときどこでもいいから開いて、何度読み返したかしれない本が、ぼろぼろになった。古い本で活字が読みにくいから新しいもので読みたかったからである。このごろ、新しい論文を読んでも頭に入らないので、昔読んだものを読み返す。漱石の講演集も改めて読んだ。和歌山市での講演「現代日本の開化」、学習院大学での講演「私の個人主義」など。また、最近読んで刺激を受けたのが「夏目漱石を読む」(吉本隆明)だった。吉本隆明というのは、僕の学生時代の「左翼」学生によく読まれた論客だが、最近は、大分丸くなって、朝日新聞などにも寄稿させてもらっている。自分で自分が「転向」したといっているらしい。「漱石を読む」は、取り上げている作品は、ほとんど僕も読んでいる物で、けっこう面白かった。「猫」の前半と後半で、猫の視点が変わっているというような指摘は、「へえっ」と思った。「草枕」もとりあげてほしかったが、とりあげていない。
吉本隆明程度のレベルの「草枕論」なら僕にも書けるかな?などと思ってみる。
 そんなことで、いま「草枕」と「猫である」を寝床に持ち込んでいるわけである。

2 朝日新聞の和歌山版で「漱石と和歌山」という囲み記事をみた。和歌浦の老人施設の理事長さんが中心になって、夏目漱石と和歌山・和歌浦のつながりにちなんで読書会を開いているという紹介である。実は、私は、「和歌浦観光」について、「万葉集、松尾芭蕉、夏目漱石、孫文と南方熊楠の出会いの地といういろいろなことを和歌浦観光に生かしてはどうか」という県議会での提言をしたことがある。漱石の「行人」という小説の舞台に和歌浦がつかわれているのです。
 新聞記事を読むと、その読書会が発足したのは、ちょうど私が提言したのと同じ時期、まったくの偶然である。
 私は、県議会質問のパンフレットをそえて、理事長さんにお手紙を差し上げた。すると、ていねいなご返事を頂いた。読書会を開いたいきさつとともに海南とのご縁もかかれている。奥さんは海南の方で、紀光の絵もお持ちいただいている。
 人と人のご縁はどこでつながるかわからない。次の読書会には、森鴎外の「青年」を取り上げるというので文庫本を買ってきて読み始めている。
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by saikamituo | 2009-12-12 00:10

四川省への旅<和歌山民報掲載原稿)

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      (一)
日中友好協会和歌山県連・海南支部訪中団(団長・雑賀光夫ほか十六人)は、一〇月一一日から十六日、中国四川省を友好訪問した。和歌山県連として、「文化大革命」の混乱以後の第五次訪中団ということになります。海南支部のメンバーが半数、県下各地からの参加、日中友好新聞」で知ったという大阪からの参加者もありました。
今回の訪中の目的は二つありました。ひとつは一年半前の四川汶川大地震へのお見舞いと復興状況の視察です。もうひとつは、九塞溝など世界遺産への観光です。
     (二)
四川省成都空港におりたった翌日の十二日、訪中団は、四川省人民対外友好協会を訪問しました。「協会」というのは、人口八千万人を超す四川省の対外関係を扱う外務省のようなものです。
対外友好協会からは秦琳会長、向瓊花アジア・アフリカ部長が対応しました。お二人とも女性です。向部長は日本語もぺらぺらです。会長は「四川省大地震でみなさまから受けたご支援を決して忘れません」などお礼の言葉を述べました。
雑賀団長は「海南市も大きな津波被害をうけたことがあり、四川省大地震のニュースを聞き、他人事とは思えなかった。すぐに義捐金カンパにとりくみました」語りました。街頭カンパ活動の写真を示し「この女性は、戦後も中国いて八路軍の従軍看護婦をしていた方です。直ぐにでも飛んで行って看病してあげたいという思いで街頭カンパに立ってくれたのです」などと紹介。
また、日中友好協会の運動として、日本の侵略戦争の誤りを繰り返さないために、海南市では日中国交回復前に市民の運動で「日中両国平和の塔」が建てられ、毎年平和集会が開かれていることを紹介しました。中国の文化大革命の時代には、特定指導者への崇拝を受け入れず排除されたが、日中人民の友好が実現することを信じて運動してきたとも述べました。
最後に富士山の図柄の黒江漆器の衝立と海南市の紹介、中国語も入った和歌山の観光紹介・高野熊野の世界遺産紹介・和歌山の食などのパンフレット・防災パンフレットなど手渡しました。
中国側からは、パンダの図柄の掛け軸やテーブルクロスがお土産にと贈られました。
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    (三)
そのあと訪中団は、震災現場が保存されている綿竹市の現場を訪問。徳陽市対外人民友好協会林主任が現場を案内してくれました。震災現場の被害の現状を一部そのまま保存しているのです。一部といっても相当広い地域です。広い中国だからできることですが、震災直後のように被害の大きさがわかります。震災のすごさとともに、使われている鉄筋や鉄骨の量が少なく、建築物に問題があったという追及の声が上がったのももっともだとうなづかれました。
移設されたプレハブ教室の小学校を訪問し、子どもたちに折り紙やボールペンのお土産をわたして大きな歓迎をうけました。すんだ瞳を持ち、元気に育っている子どもたちの姿にふれて感動したというのが、多くの団員の感想でした。
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     〈四〉
第三日からは、世界遺産・楽山大仏や自然遺産・九塞溝などを訪れました。九塞溝を回った日には前日までの雨がやんで晴れ上がり、四千mから五千mの山がくっきり遠望できて、湖に映る山影と透き通った水底の区別もつきかねるような美しさに心を奪われ、自然遺産だと納得したのでした。
三国志の諸葛孔明の廟、詩聖・杜甫の草庵、民族芸能の鑑賞、めずらしい郷土料理など、ハードスケジュールだったけれども、参加者みんなが満足した旅でした。
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by saikamituo | 2009-12-11 23:13