雑賀光夫の徒然草

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「ドイツ・イデオロギー」再読余話

マルクス・エンゲルスの書き間違い
「ドイツ・イデオロギー」再読余話
 
(一)
不破さんの「古典への招待」を読んで興奮したものだから、しないことにしていた学習新聞への投稿をしてしまった。それをきっかけに、毎晩寝床に、「ドイツ・イデオロギー」を持ち込んでいる。
ところで、10数年前から「ドイツ・イデオロギー」で気になっていることがある。どう見ても書き間違いとしか思えない、一節がある。
最新の「服部・監訳」ではP30。「奴隷制は蒸気機関とミュールージェニーなしには廃止することができないし、農奴制は農業の改良なしには廃止されることができない」。
この「奴隷制」と「農奴制」は逆ではないだろうか。書き間違いではないだろうか。「ドイツ・イデオロギー」を分からないながらはじめて読み出したのは30年ほど前ですが、そのころには気にならなかったものです。
マルクス・エンゲルスの草稿については、細部にわたっての検証が進んでいる。新MEGA編集のための分担で大きな役割を果たしている日本の研究者の報告が、雑誌「経済」でよく紹介されたが、そこでは、マルクス・エンゲルスの落書きのようなものまで、検証の対象になっているようだ。「そんなことに意味がありのか」とさえ思ったことがある。
マルクスにも「単純ミス」があって、「資本論」のどこかで、単純な計算間違いをエンゲルスが訂正した箇所があったと思う。マルクスは、資本論を書く時期の体調のよくなかった合間に、高等数学の勉強をしたというが、単純計算は苦手だったという話がある。人間だから書き間違いがあるのは当たり前だといえよう。
さて、私が問題にする「書き間違い」(?)のこの部分は、不破さんが最初に解説する部分の冒頭にでてくるが、不破さんは「書き間違いがある」とは言っていない。

(二)
 悪趣味の私は、この部分を、「ドイツ・イデオロギー」各版が、どう取り扱っているかの検証にとりかかった。「渋谷訳」は「注釈」が膨大だから何か言っているかとひも解いたが、その「注釈」は、原本復元にかかわることだけで、内容については触れていない。
もしかしたら「アドラッキー版」(全集版)になにか注釈があるだろうかと開いてみた。「全集・第三巻」は分厚いので、「国民文庫版」を開いた。その際、「全集」の翻訳には何人かの方が当たっておられるが、「フォイエルバッハ」の部分の翻訳には、真下信一先生が当たり、全体の監修にも当たられていることがわかった。だから、「国民文庫版」は「フォイエルバッハ」の部分だけをとりだしているから、「真下信一訳」となっている。真下先生といえば、不破さんが「招待」の中で、学生時代に真下先生から「ドイツ・イデオロギー」の解説をいただいたと述べている真下先生である。ついでに言えば、最近、上田耕一郎さんが鶴見俊輔さんと対談した(雑誌「経済」)ものを読み返したが、ここで上田さんも真下信一先生の講義を受けたという話を語っている。
私の悪い癖で、連想ゲームみたいな話になるが、真下先生で忘れられないのは、「ヘーゲル法哲学批判・序説」(真下信一訳)への「後書き」である。
私は、労働組合の役員をしていたころ、学習協の松野君をそそのかして、大阪の猿橋さん、奈良の藤岡さん(奈良教組の元委員長)を講師に迎えて学習会を企画してもらったことがある。なぜその学習会を企画したのかの説明に、真下信一先生の「後書き」を紹介した。私が書いたたくさんの拙文の中では、かなりいいものだという自負があるので、紹介することをお許しいただきたい。

《追記 前回の「実践労働組合講座」は、猿橋さんの大阪の労働組合運動の経験をお聞きしました。今度は奈良の話です。情勢も違っている古い経験ばかりなぜ聞かしたがるのか(実は、私が聞きたくて企画するのですが)という声がありそうです。哲学者・真下信一先生の次の文章を紹介しておきます。
「一つの自然的生命の生まれ出る場に立ち会うことがそうであるのに、まして全人類史的な重みを持つ一つの精神的生命の花開く場に居合わすことのなんというめざましく鮮やかな喜びであることか!私は、ヘーゲルの「精神の現象学」とそれへつながるかれの青年期の諸論文にかかわるとき、マルクスの「ドイツイデオロギー」と直接それに導くこの「独仏年誌」所収論文、つぎの「経済学・哲学手稿」等々の初期の諸労作にたずさわるとき、とりわけ、しみじみとそのようなよろこびにひたる想いがするのである」(国民文庫「へーゲル法哲学批判序説」訳者あとがき)
真下先生があげているヘーゲル・マルクスの初期の著作は、私には歯が立たず、こんなくそむつかしいものを「喜びにひたって」読める人がうらやましいと思うのですが、実は、ここに古典の味があると思うのです。古典を読む喜びというのは、前人未到の課題に挑戦し、道をきりひらく理論と実践を追体験する喜びだと思うのです。科学的社会主義の教科書よりも、マルクス・エンゲルスの古典、レーニン全集を読んだり、宮本賢治さんの若き日の著作、たとえば「統一戦線とインテリゲンチャー」などに引かれるのは、そういうことだと思うのです。
猿橋さん、藤岡先生の経験からも、「あたらし運動を生み出す陣痛と生まれ出る喜び」を追体験し学びたいのです。》

               (三)
 閑話休題。本論にもどろう。
 私は、アドラッキー版を原本にした「国民文庫」(真下信一訳)で、「農奴・奴隷」の書き間違い(?)の箇所を探した。ページをめくってみると、けっこう読んでいることが分かる。この国民文庫は装丁が悪いので、ページがバラバラになるほど読んでいる。「それなのに、お前の頭に入っていない」といやみは言うなかれ。とにかく、どんなにページを繰っても、問題の箇所は見つからないのだった。
 そこで、もう一度、「服部・監訳」にもどってみた。欄外に「訳注」がある。「この部分は、1962年にはじめて公表された紙葉。全集③〔追補〕六〇四ページ参照」とある。
 私は、「全集」版にとびついて、ページをくった。あったあった。この部分は、「一九六二年にバーネという研究者が発表した論文で紹介された未発見草稿」(服部解説・服部監訳P一二三)なのです。「全集」では本文に組み入れられずに、「補遺」として巻末に入っていたのです。以前に、全集版や国民文庫版で読んでいたころには気にならなかったのが当たり前です。そのころのテキストには入っていなかったのですから。わたしが、10年ぐらい(あるいはもっと)前から、渋谷訳・広松訳にこだわったころから気になりだしたこととも整合性がつきます。
 さらに、服部先生の解説で、1960年代の到達点の翻訳が、「マルクス・エンゲルス8巻選集」になっていることを知りました。これなら買って持っています。この翻訳が貴重なのは、訳文が、全集版とほとんど同じなのです。ところが、編集が「服部・監訳」本に近い内容になっています。だから「アドラッキ版」が、マルクス・エンゲルスのテキストどう切り刻んだのかを、ドイツ語で検証できない私たちが、「ドイツ・イデオロギー」復元の歴史を追う上で、「服部・監訳」との間におけば、研究の手だてになると思います。
 古典をじっくりと読めないことにいらだちながら、いろいろな訳本を買いあさったのも、まったくの無駄でもないかも知れません。ところで、私が「マルクス・エンゲルスの書き間違い」と思っている箇所は、私の「読み間違い」なのでしょうか。

  2008年4月23日
                        雑賀 光夫(県学習協副会長)

(追伸)若い皆さんで、「ドイツ・イデオロギー」「資本論」の翻訳を比較検討したいという方がおられましたら、私の本棚で埃をかぶっている各種訳本を学習協の事務所に保管いただいてもいいと松野さんに申し上げています。
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by saikamituo | 2008-05-27 22:10