雑賀光夫の徒然草

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宝子さんと元気祭りで

 燦燦公園で開かれた元気まつりに参加しました。
 そこで歌手の宝子さんにお会いしました。野上厚生病院の看護学校の校歌を作詞作曲されたのに感動して、読者ニュースに紹介し、とびある記パンフの表題に、歌詞の一部をつかっていたのです。
 宝子さんがこられているというので、パンフを取りに戻って、差し上げました。宝子さんは、驚かれ、歌の合間のトークにそのことを紹介され、その歌を加えて歌ってくださいました。感激。
 そのあとで、一緒に記念写真をとっていただきました。
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 元気市6周年、元気祭りの開催、おめでとうございます。
元気市、元気祭りは、海南市の希望の星でございます。
みんな大好きな海南市を元気にしたいと願っています。海南市も商店街も、今のままでは元気になるとは、だれも思っていません。その海南市と商店街を元気にしようと、 年前から取り組んできているのが、元気市、元気祭りでございます。
大きく世の中の動きをみますと、半年前の参議院選挙のころから、世の中の流れが変わってきたようでございます。国民世論が、民意が政治を動かし始めたように見えます。
何でも東京中心だった政治が、地方の人々の声を無視できなくなったように見えます。地域でがんばってきた人たちの力が、生きてきたんだと思います。元気市、元気祭りをやってきた皆さんの力が、大きく世の中を動かし始めています。
元気市、元気祭りの取り組みを進めてこられたみなさん、それを支えてこられた商店街のみなさんや海南市長さんをはじめ、行政関係の皆さんに心からお礼申し上げたいと思います。
 天気もよくなってきました。元気な海南をめざしてがんばりましょう。
ありがとうございました。
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by saikamituo | 2007-12-23 20:06

いじめに負けるな

海南市の方から貴重な体験をいただきました。紹介させていただきます。

「いじめに負けるな」

 私は数え年4才のときに小児麻痺にかかり、左足が動かなくなりました。昭和9年4月に黒江尋常高等小学校に1年生として入学することになりました。親から松葉杖を作ってもらって通学しました。確か、1年2組だったと思います。
 それからが大変でした。まもなく身体検査がありました。これが6年生になるまで続くのです。悪童3人組が現れて、名前は言えませんが、「あれを見よ、Fの足、左の足の細いのがおもしろいなー」と皆に言ってからかうのです。6年卒業するまで身体検査はいやだったです。
 ある時、そのうちの一人は「教室へ杖をついて入ってくるな、教室が土だらけになる」と言って窓から外へ杖を放り投げました。私は泣きながら這って拾いに行ったことを今でも忘れていません。そして、頭を殴るのです、何べんも何べんも。
 私の家は兄弟が多く貧乏でしたので、大阪へ嫁いでいた姉がランドセルを送ってくれたのですが、ランドセルの後ろのふたには、洋皿と果物の絵を書いていました。いつも私をいじめる悪童1人が「Fのカバンは女のカバン」と言って、毎日毎日からかうのです。全く嫌になったものです。4人の兄に、いじめられることを言ったら助けてくれるけれど、帰った後は倍の倍いじめられると思って、じっと我慢していました。また、松葉杖2本で私を乗せてミコシにしてワッショイワッショイとはやしたてるのです。いずれも例の3人組です。恥ずかしかったです。
 頭の良い体力もありけんかの強いK君が私を助けてくれたのです。「これからはFをいじめる奴は僕にかかって来い」と言ってくれてから、私をいじめなくなりました。しかし、1年の3学期になるとそのK君は、九州のほうへ転校して行ってしまいました。すると又3人組は私をいじめだしたのです。
 4才のとき小児麻痺の高熱のため、少し頭の回転が遅れていたのだと思います。唱歌の時間は講堂で歌い、体育の時は校庭で皆楽しそうにやっているけれど、私はジィーっと教室で1人さびしく残ってましたので、歌は知りませんでした。歌の試験は皆の前でよう歌えませんでした。国語も算数も皆目わからなかったのです。
2年生になって、当時3月10日は陸軍記念日といって、日露戦争で亡くなった人々の招魂祭が行われ、参拝者の小学生全校生徒に当時10銭くらいの栗おこしを配られるのです。担任の湯川先生は、「F君、お前栗おこしをもらったことがあるのか」と言われたので、私は「招魂祭に参加したことがないので、もらったことはありません」と言うと、「よし、先生が貰って来てやる」と言って、私に大きな栗おこしをくれました。本当に嬉しかったです。すると、悪童の1人が「Fは参拝にも行かず栗おこしを貰う権利はない、返して来い」と言って頭を殴るのです。逆らうとまた殴られると思って嘘泣きして黙っていました。湯川先生は私をよく目にかけて可愛がってくれていたので妬んでいたのだと思います。
昭和12年頃に新校舎ができて音楽室は新校舎の2階に移りました。授業が終わって踊り場まで来ると突然後ろから抱きついて、「下へ落としてやろか」と言って、びっくりさすのです。それも悪童の1人です。それからというと、音楽の授業には早い目に教室に入り、終われば皆が居らんようになってから降りるようにしました。
4年生になると、私の成績が急に上昇して皆が認めるようになって、目立っていじめなくなり皆と仲良く勉強にいそしむようになり、私の心もだんだん明るくなりました。
5年生になると、組替えがあるのです。どうか3人組とは別になるようにと思いましたが、1人だけ他の組に行き、代わりに1人が入ってきた人物は、前よりもひどいいじめ専門の人が入ってきたのです。その男は何を言っても私に向かって、何もしていないのに、私の頭を殴り口汚く「跛(ちんば)々、跛のくせに」と言うのです。全く閉口しました。私は誰にも相手にならず無視するようにしましたので、1年生2年生の頃のようないじめはなくなりました。
書き忘れましたので改めてもう1つ、これは絶対に許せないことがあったのです。1年生に入って間もなしに、Tさんがトンボ鉛筆をくれたのです。当時トンボ鉛筆は1本10銭しました。とても私には買えないものです。私の使っていた鉛筆は、2本で3銭の三菱鉛筆でしたのでびっくりしたものです。するといじめの1人は、「FはTの鉛筆を取った」と皆に言いふらし泥棒だと言って私を盗人扱いしましたので、Tさんに鉛筆を返しました。Tさんは「あんたにあげたんだから、誰が何と言おうと私はF君は盗んだとは思わないから貰って」と言ってくれたけど返しました。Tさんは、F君が毎日いじめられるのを気の毒に思ったのでしょう。
5年生になって間もなく、松葉杖が折れて家に帰れず困っていると、級長のH君がおぶって家まで送ってくれたことは今もようわすれません。H君は頭が良くて実に心のやさしい友達でした。
身体の不自由な人を指差して侮辱し、せせら笑いするのはもっての外だと思います。そのような人は何代か経てから、子孫の代になって我が身に振りかかってくるようになると思います。私は息子や孫にはいつも、身体の不自由な人は自分の健康な身体の犠牲になってくれているのだから、いたわりの心、やさしい心、感謝の心をもって接しなければいけないと言い聞かせています。
いじめをなくすることは大変難しい。世の中にはどこでもあります。昔軍隊で班長が新兵いじめをするのです。訓練に失敗すると殴るのです。ある時、気の強い新兵が「戦場に行ったら弾は前ばかりでないで、後ろからも飛んで来るぞ」と言ったら、翌日からは殴らなくなったと笑い話のように聞いたことがあります。
まだまだいじめられた事はたくさんありますが、もう疲れましたのでこの辺で筆をおきたいと思います。
                   平成19年3月3日   


あとがき
いじめられても絶対に死んではいけない。いじめた奴等に「今に見ておれ、お前らを見返してやるぞ」との気概をもって生き抜くことだと思います。いじめた奴らも年老いてくるに従って後悔すると思います。いじめられる者より、いじめた奴の方が後ろめたい日がやってくるものです。だから絶対死んでは駄目だ。夜の後は必ず朝がやってくるのだから。
私は今では悪童3人組のおかげで我慢強い人間にしてもらえたのだと、感謝をしている次第です。
世の中には、いじめる者、又助けてくれる者があります。
明日に希望を持って頑張りましょう。
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by saikamituo | 2007-12-09 21:19