雑賀光夫の徒然草

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弔辞  田伏通男先生を偲んで

弔  辞

 田伏道男先生
 日曜日のお昼前、知り合いから、先生の訃報をしらされたとき、何度も聞き返しました。それでも信じられませんでした。
その前の日、憲法を守る「9条の会」が、澤地久枝さんをむかえて県民文化会館をあふれる集まりを開きました。先生はその集会からかえって、「いい話だった」と奥さんに語られて、休まれたといいます。「バスで一緒に集会に参加したのに」とどなたもが信じられないといわれます。いまでも信じられない思いでいっぱいです。

 私が教員になって赴任したのは海南市立野上中学校でした。その学校は、同和教育にとりくみ、地域のみなさんと協力して、毎年、同和教育をすすめる「沖野々集会」という集いを開いていました。教職員の権利を守る宿日直廃止のたたかいでも団結して感動的なたたかいをした職場でした。
 先生は、その中心になったお一人でした。あえて「そのお一人」といいます。それは、先生はどんなときでも、自分が縁の下の力持ちになって、「仲間と一緒にやったことだ」といわれていたからです。
 未熟な教師だったわたしは、やんちゃな子どもたちと格闘する毎日でした。私の宿直の日に遊びに来る子どもたち。学校に不満を持ち、そのはけ口を見出せない子どもたちを前にして、先生は、この地域の人たちが、差別のない人間が大切にされる世の中にするためにどんなに苦労してがんばってきたのかを語りました。「それなのに、おまえたちはあたけてばかりいて何だ」と子どもたちに厳しく迫ったのです。そのときの一人の子どもが、一年後に「差別をなくすために」という作文を書き、その後、この地域の同和教育教材として使われた、その始まりの歴史的瞬間でした。

 私が子どもたちとのとりくみに自信をなくし、教師をやめたいと言う思いだったとき、先生は私を自宅に呼んでくださいました。一緒にお風呂に入って「同志さいかと風呂にはいるか」といいながら私を励ましていただきました。そのとき「いなか料理やけど」といいながら出していただいた夕食の味と一緒に思い出します。

 私が教職員組合の専従役員として日方の教育会館の事務所にすわったときは、明楽民主市政を守った年でした。先生は、教職員組合の支部長であり海南地区労議長をされていましたね。中山豊先生が県会議員選挙に最初の挑戦されました。教育を守るために「子どもの幸せを守る会」をつくって、空手の先生など多彩なみなさんに集まっていただきましたね。そのとりくみが、教育を守るために、子どもの姿をまぶたに浮かべて話し合えば、保護者と教職員は一致点を見つけることができるという、その後の私の確信になったのでした。
 あのころの教職員組合の集会では、組合員の先生方は田伏支部長が、目をグリグリッと大きくしながら、情勢と教育を語って、笑わせながら元気づけてくださるのを楽しみにしたものでした。紀北教育研究会などの教育サークル、教研集会では、私たちが報告したつたないとりくみも、いいところを見つけ出して、ときには大げさと思えるほどほめてくださり、激励してくださる先生でした。
 そして地区労議長としての仕事では、その後の何度かの海南市長選挙がありましたね。民主的な海南市への挑戦が、その後の海南で、中山県議の当選、県会議員、市会議員が連携して市民の願いに応えるという今の姿をつくったのでした。
 私が和教組本部にいって、教育相談センターができたとき、先生はその主任として、不登校の子どもたちへの教育相談にかかわってくださいました。また現職の先生へのあたたかい助言者でありました。
 そして、三年前の中山県議からバトンタッチした私の県議会への挑戦であります。日本共産党後援会会長として、また無党派の人たちへのつなぎ役として、私を県議会に押し上げてくださいました。

 先の市会議員選挙で、先生はハンドマイクを担いで私と一緒に宣伝にまわってくださいました。「年寄りにハンドマイクを持たしていると思われたら票が減るから」と担いでいるハンドマイクをとりあげたりしたものです。選挙で忙しい中で、田んぼをきれいにして、田植えの準備をしていたと奥さんがおっしゃいます。野尻という地域をこよなく愛した先生です。
以前に組合活動で政府への要求行動に参加したとき、文部省の建物に入るのに、守衛さんから「どこから来たのか」ととがめられて「野尻から来た」と答えたというエピソードがあります。野尻という地域には、日本の主権者・国民が住んでいるんだ。主権者が政府の建物に入るのに何をとがめるのかという、先生の思いがこもったエピソードであります。

 毎年の年賀状に、先生は詩を書いてお送りいただきました。今年いただいた年賀状です。

   えんどう
稲刈りの終わった田の端を耕し
そっと植えるえんどうの苗
やがて伸びるつるが巻きつくよう
しっかりと杭を立てる
枝の張った竹をしばりつける

老いていく父母の姿に 帰省した子らは言う
「もうそんなしんどい百姓はやめなよ」と
だが 祖父母から受け継いだ百姓を頑固に続ける
この土が育ててくれた粘り強さや
人をいつくしみ 自然を愛する心を
お前たちに伝えたいという願いをこめて

増え続ける農産物の輸入
食料自給率の低下 百姓いじめの農政
郷里を離れて暮らすお前たちよ 忘れないでくれ
新しい明日を開くのだと
負けずに頑張る百姓たちの心を

今はまだ か細く頼りなそうなえんどうのつる
やがて次第にのび 竹の枝にしっかり巻きつき
厳しい寒風や吹雪に耐え抜いて
春にはたくさんのサヤをならせるであろう
    二〇〇六年 元旦

 先生、私たちは先生のお教えを受け継いで、たくさんのサヤをならせます。さようならとは、いいたくありません。先生はいつまでも私たちとともにあると思っています。先生のご意志をうけついでがんばります。いつまでも見守ってください。やすらかに。

二〇〇六年五月十六日      
                                県議会議員 雑賀 光夫
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by saikamituo | 2006-05-17 10:00