雑賀光夫の徒然草

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茶話

薄田泣僅というコラムニストがいる。「茶話」で知られる……といっても知る人は少ないかもしれない。
私の手元に、昭和26年11月10日印刷の、初版「茶話」がある。父・紀光に「何かおもしろい本はないか」と聞いたら、「こんなおもしろい本はない」と紹介してくれた父の形見ともいうべき本である。文庫本で一四〇ページ程度のものだ。フランス文学者の河盛好蔵氏の解説によると、大正五年から三四年間書き続けたという。
………長い演説より短い演説の方が準備がいる。短い演説をして好評を博したと妻君に自慢した男がいた。聴衆は妙齢の婦人ただひとりだった。その人はここにいる。
I love you.  ………
というぐあいな話を、もうすこし長い文章で、話の間に細君が目を三角にすることもふくめて書く。フランクリンがうそをついたという話(牡蠣を食う馬)も面白い。
完本「茶話」というのが1983年に「富山房百科文庫」として出版された。三冊の新書本・計二〇〇〇ページを越すだろう。私はそれを東京の本屋で見つけて持っている。ただ第一巻が見つからない。
たしかその第一巻にあったと思われる話が、好戦的なジャーナリストへの皮肉である。
「中国への強硬姿勢を書き立てるのもいいだろう。ただし私は、戦争になったとき、〇〇、▽▽などの面々に、戦線にでてもらいたいと思う」という趣旨のことが書かれている。
今日の「赤旗」に、アメリカで対イラク強硬論を唱えているのは、本人が兵役を逃れた人たちだということがアメリカで問題にされ始めているという記事があった。私は、夜中になって、「茶話」にあった好戦的ジャーナリストへの批判を探し始めたが、第一巻が見つからない。しかし、歴史は繰り返す。いや、繰り返させてはならない。
ところで薄田泣僅が、そんな文章を書けた時代は貴重である。「大正デモクラシー」といわれる時代である。有事法制を許す様なことになったら、こんな批判さえできなくなるのではないかと心配する。
(数年前に書いたもの。一太郎の新しいソフトを買ったので、古い原稿が生き返った)
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by saikamituo | 2006-01-21 20:25

私の生き方の模範としての上野幸男さん

 

県学習協の草分けの「二人の上野さん」のお一人、上野幸男さんがお亡くなりになった。
もう一人の上野寿男さんは、ずっと学習協によりそって松野理事長をささえてこられたのに対して、上野幸男さんは共産党の専従もされてお忙しかったから、いまの学習協の若い皆さんの中には、面識のない方も多かろう。

 上野幸男さんは、共産党を退職されるころから海南市の旧貴志川町との境に近い高津という地域に住み、桃作りの農家の皆さんに溶け込んで暮らしておられた。そして、地域での共産党支部の活動、治安維持法同盟の活動などに献身された。寒い中、単車で集金にこられて恐縮したことを思い出す。
 私の家は琴の浦の山際にあるが、夏には庭の草取りがたいへんだ。妻の母親が同居してくれていたころは、草引きをしてくれたのだが、その後はお手上げになった。
妻が言った。「シルバーの方にお願いするんだったら上野さんが行ってあげてもいいといってくれるんだけど」。
私は即座に、「やめてくれ」といった。「ぼくにとって、上野さんはどんな人かわかってるのか。和教組委員長だった北又安二先生と同格の人なんだ。夏休みに上野さんが草引きにきてくれて、僕がパンツ裸で昼間からビールを飲んでいられないじゃないか」そのころは、盆休みには、高校野球のテレビを見ながら、昼間からビールを飲んでいた。今は議員だから暑い中でも歩き回るのでそんなわけにはいかない。

上野さんは、1960年代、全電通(今のNTT)の組合の委員長だった。1964年の春闘で、総評は4、17ストライキという大きなストライキを企画した。そのストライキを共産党は「挑発ストライキ」だという規定をして反対する声明を出した。「4・8声明」というものである。数ヵ月後に、共産党はこの声明とその後のストライキに反対したことが綱領路線から逸脱した誤りであったと自己批判する。「日本共産党8大会9中総への幹部会報告」というものである。この「9中総」とその自己批判を予告した宮本顕治書記長(当時)の党創立記念日の名講演「わが党の革命的伝統と現在の進路」は、迷いながら民青同盟から共産党の接近しつつあった僕の青春で忘れられないものである。
(注)この名講演がのっている「現在の課題と日本共産党」(上)をとりだしたが、「自己批判の予告」が見当たらない。「時の話題」だから収録のとき削ったのかもしれない。
上野さんは、一時的に綱領路線からはずれた誤った党の方針と大衆団体の方針の間で苦しみながら、最終的には党の決定に従い、全電通の組合から排除された方なのである。共産党の誤りに従ったために組合委員長の座を追われたにもかかわらず、上野さんはその誤りを短期間に克服した共産党とともに歩まれた。「共産党のあやまりでえらい目に会った」などと愚痴をいうことは一度もなかったのではないだろうか。

追悼文をかくにあたって「草刈」のことを妻に話してみたら、「その話、上野さんに話したら、そんなに言ってくれたかとニコニコ笑ってくれたよ」といっていた。「いつもニコニコしておられたことを書いたらどう」ともいう。
いまになれば、草刈においでいただいて、僕も草刈を手伝って、早く終わって一緒にビールを飲みながら「4、17スト」のお話をもっとお聞きしたらよかったかもしれないとも思う。
上野さんは大きな労働組合の委員長をされた方だ。共産党の専従もされた。僕も、労働組合の委員長までさせていただき、今は議員をさせていただいている。こんな仕事をしながら、「幹部や議員ががんばるのは当たり前。人間の値打ちは肩書きがとれたときの生き方で決まる」と自分に言い聞かせている。いろいろな貢献の仕方があるのだろうか、僕は体が動く間は、自分の家の周りのビラ配りをし、5部でも10部でも赤旗の配達・集金はさせてほしい。上野さんは、そういう生き方を貫かれた方として、僕の模範なのである。

さいかみつお(県学習協副会長・日本共産党県議会議員)
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by saikamituo | 2006-01-03 02:14

徒然草 このブログの名前のいわれ

 赤旗日曜版の配達をしていて、集金に立ち寄るのが楽しみなお宅がある。
 玄関に入ると花の香りがいっぱいなのだ。その玄関というのはけっしてりっぱなものでなく、「ただの上がり口」というだけなのだけれど、狭いだけにかえって、花の香りがするのかもしれない。毎週、この上がり口に花を生ける方の奥ゆかしさが感じられる。
 そんなことを考えていたら、昔、国語で習った「徒然草」のある段を思い出したのだった。
 「月のきれいな夜、ある女性のお宅を訪問した。そのお宅を辞した後、しばらく様子を見ていたら、女性はすぐに引きこもらずに、しばらく月をながめていた。誰かが見ているともおもっていないのに、風流を愛する姿に感銘をうけた」というような内容だったと思う。

 どこにあったのだろうか。高校時代の参考書をおいていたので引っ張り出したが、徒然草の全文が収録されているわけではない。岩波文庫の徒然草を買ってきてさがしてみて、やっと見つけた。第32段である。

九月(ながつき)二十日の頃、ある人に誘はれ奉りて、明くるまで月見歩く事侍りしに、思し出づる所ありて、案内(あない)せさせて入り給ひぬ。荒れたる庭の露しげきに、わざとならぬ匂ひ〔たきものの匂ひ〕しめやかにうち薫りて、忍びたるけはひ、いと物あはれなり。よきほどにて出で給ひぬれど、猶ことざまの優に覺えて、物のかくれよりしばし見居たるに、妻戸〔兩方へあける戸〕を今少し〔客の開きし戸をもう少し〕おしあけて、月見るけしきなり。やがてかけ籠らましかば、口惜しからまし。あとまで見る人ありとは如何でか知らむ。かやうの事は、たゞ朝夕の心づかひによるべし。その人程なく亡せにけりと聞き侍りし。

 インターネットで「超現代語訳・徒然草」というのをみると、この段には、「客への心づかい」という表題がついていて、「客が帰ってすぐに戸を閉めなかったのが客への心遣いとして奥ゆかしい」と読み取っているが、どうだろうか。

 こんなことを最初にかいたので、このブログの表題を「さいか光夫の徒然草」とした。
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by saikamituo | 2006-01-03 01:51