雑賀光夫の徒然草

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アンナ・カレーニナ雑感

アンナ・カレーニナ雑感
          
 (一)
アンナ・カレーニナの演劇が栗原小巻さん主演で上演されるので、久しぶりで中央公論社の「世界の文学」(上下二巻)をとりだした。
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名作というものは、書き出しに作家は全神経を集中する。「我輩は猫である。名前はまだない」(「我輩は猫である」漱石)「親ゆずりの無鉄砲で子どものときから損ばかりしている」(「ぼっちゃん」漱石)「山道をあるきながらこう考えた。知に働けばかどがたつ…」(「草枕」漱石)「トンネルをでるとそこは雪国であった」(「雪国」康成)、「地獄さえぐんだで」(「蟹工船」多喜二)など、それぞれが印象に残る名文である。
マルクスの「資本論」の書き出し「資本主義的生産様式が支配している社会の富は膨大な商品の集積としてあらわれ、個々の商品はその要素形態をなしている」という書き出しを、「プーキシンの小説の書き出しと同じように、書き出しから本質に読者を引き込むものだ」と吉井清文先生が40年近く前の和歌山での「資本論講座」で話されたことがある。これはすごく印象にのこっている。後になって、これは、堀江正規先生の受け売りではないかと思った。(間違っていたらゴメンなさい。)
こんな脱線をするのは、アンナカレーニナの「書き出し」にふれたかったからである。それは次のようになっている。
Happy families are all alike; every unhappy family is unhappy in its  own way. (すべての幸福な家庭は似たようなものだが、それぞれの不幸な家庭は、それぞれの姿で不幸なのである)それに、オブロンスキーという人が、家庭教師のフランス人娘と不倫したことで家庭がメチャメチャになっているという状況描写がつづく。
英語版を紹介したのは、日本語で読んだときにはあまり印象にのこらなかった書き出しが、英語版で読みだしたとき、私にはすごく印象にのこったからである。ただ、正直にいうが、英語版を読んだのは、その1ページだけである。

(二)
 「書き出し」で紹介した「我輩は猫である」「草枕」などは私の愛読書であって、適当に開いて読み出すから、同じ場所を十数回読み返している。「我輩は猫である」でいえば「迷亭がそばを食う場面」「寒月君がバイオリンを買いに行く場面」「金田の鼻というお嬢さんのこと」など適当に開いて面白く読む。「草枕」のなかに、そういう小説の読み方をといた部分がある。
 こんないいかげんな小説の読み方をするから、世界の長編小説も、日本の純文学も、プロレタリア文学も、なかなか繰り返し読むということにならない。「レ・ミゼラブル」も「谷間のゆり」も「デビッドコッパーフィールド」も、一回読んだきり。「レ・ミゼラブル」は有名な「銀の蜀台」の場面や、地下水道の逃避行の場面や、かわいいコゼットの印象は残っているし、「谷間のゆり」は貴族婦人との官能的な恋の話だったという記憶はあるが、定かでない。「デビッドコッパーフィールド」にいたっては、どんな筋書きかさえも分からない。
 そんな私が、2回くりかえして通して読んだのがトルストイの「アンナ・カレーニナ」と「戦争と平和」なのである。「アンナ・カレーニナ」の三度目の通読である。
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(三)
この小説は、人妻であるアンナ・カレーニナとヴォロンスキーの不倫の恋(それは、アンナの鉄道自殺でおわる)とレーウィンとキティの純愛という二つのテーマによって織り成されている。アンナが鉄道自殺したあとは、なにか気の抜けたビールみたいな気がするなと思いながら、一応最後まで読んで、第一巻の最後についている翻訳者・原卓也さんの「解説」に目を通した。
そこで驚くべきことを発見したのだ。トルストイがこの小説を書くことになったきっかけは、プーキシンの小説の書き出しへの感動だったというのだ。それは、「客たちは××公爵夫人の別荘に集まってきた」という書き出しであった。
なんと、私が吉井清文先生に40年前にお聞きした(堀江正規先生からの受け売りではないかと根拠もなく決め付けた)まさにそのものではないか。
 解説はさらにつづく。「ただ、セルゲンコのように、トルストイが「客たちは……」という一句に感動して、ただちに事件の中心に読者を引き入れる、『オブロンスキー家では何もかも混乱してしまった』という句で小説を書き始め、あとから現在の書き出しの句、『幸福な家庭はみな同じように似ているが……』を付け加えた、と説くのは明らかに誤りである」(なぜ誤りかの説明が続くが、私の文脈では、それはどうでもいいので省略する)
 「私が驚くべき発見」(私が驚いただけで誰も驚かないだろうが)と述べたのは、この雑文の(一)(二)を書き始めたときは、原卓也さんの「解説」を読んでいなかったのだ。原さんの「解説」で、私が自分が知っていることをひけらかすつもりで書き出したことが、実はこの大作の執筆のきっかけになっているといわれると、私のあてずっぽうが当たったようで、うれしくなるのである。
 その後になって、僕は、「アンナ・カレーニナ」の書き出しが大変有名だということをはじめて知った。

(四)
 原卓也さんの解説は、「『アンナ・カレーニナ』を表紙がぼろぼろになるほど何度も読み返したといわれるレーニンは、この小説の持つ社会的な意義を高く評価して……」とつづく。レーニンの有名な論文「ロシア革命の鏡としてのレフ・トルストイ」を紹介する。原卓也さんは、その論文を全面的に受け入れているわけではなさそうだが、僕は、あらためてレーニンの論文を読みたくなった。手元に、堀江正規先生が講義されたテープを吉井清文先生が出版された「文章の読み方」という本がある。その中に、ゴーリキーのトルストイ論がある。そこでは、トルストイの宗教観が語られる。「アンナ・カレーニナ」のもうひとつのテーマであるレーウィンの宗教観が、それと重なることが分かる。僕が「重なることが分かる」といえるのは、この本に紹介されているゴーリキーの文章と堀江先生の解説文を何度も読み返したからだろうと思う。どこかでゴーリキーの文章を読んでいてとしても、こんなことは書けなかっただろう。吉井さんが編集した堀江先生の講義は、すごいものなのだ。
 この本には、レーニンの「ロシア革命の鏡としてのレフ・トルストイ」が全文紹介され、堀江先生が解説されている。もう一度、読み返してみよう。
 僕は、トルストイの作品では、「アンナ・カレーニナ」よりも「戦争と平和」の方が、スケールが大きい、すごい作品だと思っている。若いころ、この作品は、「史的唯物論を説いている」と思いながら読んだ。「戦争」という歴史の激動が、そこで生きている個人の思惑とは離れて動いていくことが分かるからである。
 小林多喜二が、「『戦争と平和』のような作品をわれわれの文学運動が生み出さなくてはだめだ」と宮本顕治さんに語ったということが、「宮本顕治文芸評論選集」(多分第二巻)にでてくる。
 この雑文が、若い人たちが、トルストイや堀江先生、レーニン、宮本顕治さんの若き日の論文を読むきっかけになればうれしいと思う。
 
 * レーニンの「ロシア革命の鏡としてのレフ・トルストイ」には、アンナ・カレーニナなどトルストイの特定の作品名は挙げられていない。原卓也さんが「表紙がぼろぼろになるまで読んだ」というのは、何を根拠にしているのだろうか? インターネットで「レーニンとアンナ・カレーニナ」を検索してみた。
 「レーニンは、亡命先でこの本を100回も読み返し表紙がバラバラになった」とレーニンの妻・クルプスカヤがレーニンの母宛の手紙に書いているそうである。
(2009年4月書き始め、5月19日完)
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by saikamituo | 2009-05-20 19:29