名作というものは、書き出しに作家は全神経を集中する。「我輩は猫である。名前はまだない」(「我輩は猫である」漱石)「親ゆずりの無鉄砲で子どものときから損ばかりしている」(「ぼっちゃん」漱石)「山道をあるきながらこう考えた。知に働けばかどがたつ…」(「草枕」漱石)「トンネルをでるとそこは雪国であった」(「雪国」康成)、「地獄さえぐんだで」(「蟹工船」多喜二)など、それぞれが印象に残る名文である。
マルクスの「資本論」の書き出し「資本主義的生産様式が支配している社会の富は膨大な商品の集積としてあらわれ、個々の商品はその要素形態をなしている」という書き出しを、「プーキシンの小説の書き出しと同じように、書き出しから本質に読者を引き込むものだ」と吉井清文先生が40年近く前の和歌山での「資本論講座」で話されたことがある。これはすごく印象にのこっている。後になって、これは、堀江正規先生の受け売りではないかと思った。(間違っていたらゴメンなさい。)
こんな脱線をするのは、アンナカレーニナの「書き出し」にふれたかったからである。それは次のようになっている。
Happy families are all alike; every unhappy family is unhappy in its own way. (すべての幸福な家庭は似たようなものだが、それぞれの不幸な家庭は、それぞれの姿で不幸なのである)それに、オブロンスキーという人が、家庭教師のフランス人娘と不倫したことで家庭がメチャメチャになっているという状況描写がつづく。
英語版を紹介したのは、日本語で読んだときにはあまり印象にのこらなかった書き出しが、英語版で読みだしたとき、私にはすごく印象にのこったからである。ただ、正直にいうが、英語版を読んだのは、その1ページだけである。