「小梅日記」を読む
(一)
川合小梅という女性が話題になっている。幕末から明治にかけて、日記を書き続けた女性である。
小梅のことで私に電話がかかってきた最初は、毎日新聞社からだった。「編集長からの手紙に小梅日記のことを書きたいが、紀光さんの挿絵をつかわしてほしい」とのこと。「紀州お国自慢」という保険医協会から出されたパンフレットにはいっている川合小梅のペン書きの肖像画(想像画であるが)のことのことである。
川合小梅というのは、和歌山市に生まれ、江戸時代から明治22年まで生きて、日常生活を日記に書き残し『画』もたしなんだ教養ある女性である。その後、「小梅日記を楽しむ会」の会長・辻健さんも議員控え室におこしになった。「紀光さんが描いた油絵の小梅の肖像画をつかわしてほしい」とのこと。和歌山市の吉田にある聖天宮さんといわれるお寺におかれている、雑賀紀光の描いた小梅の肖像画のことである。「紀光もよろこぶでしょう」と申し上げた。
小梅没後120年でもあり、和歌山城フェスタにあわせて「小梅展」「講演会」を開きたいとのことである。
ところで、この貴重な「小梅日記」の原本の一部を海南市のKさんがお持ちだという。郷土史家の柳喜治先生のご協力で探し当てることができた。奈良でお住まいのKさんのご子息は、貴重な原本を展示することを快諾され、辻健さんも大喜びである。
(二)
こんな具合に、小梅にかかわりはじめた私だが、「小梅日記」というものを読んだことがなかった。父・紀光の遺品の中に、「小梅日記」のカバーの箱があったのだが、中身はみあたらなかった。物置をさがせば出てくるかもしれないが探していない。
そんなとき、同僚の奥村規子議員が「雑賀さん、小梅日記かりてきたよ。9月県議会では一般質問しないから余裕があるでしょう。先にお読みよ。」といって貸してくれたので読み始めた。古いものだからといっても、江戸末期から明治のものだから、源氏物語などとちがって読みやすい。
○ 13日 夜前より降。四つ比よりあがる。昼飯の時寛蔵来る。小林富太郎も来る。酒出す。京梅斉より送りこしたる牛肉あつ物にして1こんくむ。肉少々松下へわける。暖気也。(文久4〔1864〕年2月)
へー、明治維新よりも4年前に、牛肉を食べていたのかと驚く。藩校の校長の奥さんだから、こんなものも食べられたのだが、お客があれば酒を出し、自分も一緒に楽しんでいるところが面白い。
(三)
はじめはこんな貴重な本をだれから借りたのか知らなかったから、汚したら悪いと思い、カバーのセロファン紙も傷めないように、大事に扱っていた。その後、その本の持ち主は、私も親しくしていただいている I さんだとわかった。
私は、学習新聞に、民青同盟のみなさんと学習会した記録をのせたとき、堀江正規先生の言葉(労働者の苦しみの原因がわからずに苦しむより、原因を解明する理論があるならそれを学ぶために苦しむほうがいい)を紹介し、その出典である「労働組合運動の理論・第7巻の栞」をお持ちの方はいないかと問いかけた。それに直ぐに応えてくださったのが I さんである。そういう蔵書家である I さんにまたもお世話になったことになる。
たまたま演劇鑑賞会のロビーで I さんにお会いして、大事な本を大事に扱っていると申し上げたら、「雑賀さんにお貸しした記念に、サインでもしておいてよ」とおっしゃる。サインなどおこがましいが、「本に書き込みしたりして汚してもいいよ」という許しをいただいたわけである
そこまで言っていただくと、すこしまじめに読んでみようかなという気になった。そこで「日本史年表」(三省堂)を引っ張り出した。
「小梅日記②」は「文久四年(1864年)」からはじまる。ところが、この年の2月に年号は「元治」にかわっている。その「元治2年」は「慶応元年」なのである。
元号というものは、明治以後は天皇の代替わりで改めるが、それ以前は、天災が多くて縁起がわるいといえば、人心一新のために改める。自民党が内閣を入れ替えるようなものである。歴史を見るのに不便極まりない。
「慶応」というのは福沢諭吉が慶応義塾を開いた明治維新前夜である。「明治維新」を小梅がどう日記に書いたのか知りたいと思う。ところが、出版された「小梅日記」は「慶応3年(1867年)」から「明治9年」に飛んでいる。それでも維新前年の12月までの日記が読める。
「明治維新」といえば「いやあロッパ(1868)君、明治だよ」と覚えているが、1868年の何月に何があったのかはしらない。そこで年表を見る。
1月 鳥羽伏見のたたかい
2月 5か条のご誓文
4月 江戸城開城
さあ、その前年に小梅は、お酒を飲みながら世の中をどう見ているか読んでみよう。