雑賀光夫の徒然草

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">「マルエン全集」に挑んだころ

「マルエン全集」に挑んだころ

           (一)
真田寿雄(明野進)さん
あなたにお会いしたのは、白浜で開かれた「労働運動」誌主催の労働学校の時でした。「労働運動」誌編集長であったあなたは、その司会をつとめられていました。あれは、1970年ごろのことだったと思います。
その後、あなたは1977年に和歌山に帰ってこられたのですね。共産党の幹部として奮闘されました。あなたは、1991年、県知事選挙で現職候補と対決されました。私はそのとき、県地評の事務局長でした。

           (二)
私の手元に「寺小屋ニュース」(No.1)(1987.3.1)という手作りのニュースがあります。それによると、この年の学習協新年旗びらきのあと、真田さんと私ほか2名が「二次会」をやった。その場で「マルクス・エンゲルス全集を読む会をやろうではないか」ということになったのでした。第2回例会で、マルクスの学位論文『デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異』を取り上げたようで、真田さんのメモが残っています。翌年の1月のNo.8のニュースでは、第10会例会で「哲学の貧困」をやると予告しています。
この学習会のニュース紙上で、真田さんは、私なりの唯物弁証法理解やエンゲルス「自然弁証法」への疑問などに対して、辛辣な批判をされました。私もまけずに言い返した記録を「明野・雑賀の飲んだくれ論争」(私家版)として印刷して大事に保存しています。そのなかで、あなたは若き日のことをお書きです。

 「僕は、戸坂潤の「科学論」を焼け跡の倉敷のある書店に行列して買った青春の日の興奮を、40年たったいま、ふと思い出した。S(雑賀)さんの「兆民先生」のお陰である。僕が軍国少年の日々に心酔した皇道哲学=天皇主義イデオロギーを粉々に粉砕したのは、この日の「科学論」ではなくて、「日本イデオロギー論」と「認識論」とであった。その戸坂が死をもって守りぬいた「唯物論研究会」で、日本の思想(哲学)史研究を担当し、戦後日本共産党に入党し、四三才でなくなった哲学者が、永田広志であった。
僕の「興奮」は、永田の四部作(「日本唯物論史」「日本哲学史」「日本封建イデオロギー論」「日本哲学思想史」)を読んで、頂点に達した。この四部作は、僕をその上半身だけではなく、下半身まで唯物論哲学の陣営に移行させてくれた。……(中略)……
ところで、神田の古本屋で「中江兆民全集⑳」を買って、「-年有半・続一年有半」を読み「精神のとらえ方など、機械的唯物論でなく弁証法的唯物論に迫っている」と“感激”されたSさん。
(永田広志は「日本唯物論史」の中で)…中略…「兆民のこのような唯物論的見解は、弁証法には無縁なものであった。……」(同上、二九七)とさばいたうえで、「中江の形而上学的唯物論を、弁証法的唯物論を混同することは無論許されない。」(同上・三○三~四)との結論を出している。
もちろんSさんは、兆民を「弁証法的唯物論者」と断じられたわけでは決してない。「弁証法的唯物論に迫っている」ととらえられただけである。残念ながら狭い誌面の中では、その「迫りかた」の具体的内容にふれられていない。それがとりだされると、わが永田広志を乗り越えるあらしい発見がもたらされるかもしれない。それともこの「迫っている」というとらえ方の中にこそ、Sさんならではの明哲保身術の極意をくみとるべきなのか。
ふと、久々の興奮をよびさまされたSさんの一文であった。」

この一文は、私が中江兆民の「続・一年有半」を読んだ感想をニュースに書いたことへの批判的コメントです。こんなやりとりをしながら学習会は2年近くつづいたのでしょうか。真田さんの文面には、雑賀をやっつけることを楽しんでいることが読みとれます。やっつけられながら楽しい時間でした。
            (三)
学習会の後お酒を飲み、私が知っているたった一つのドイツ語の歌Heideröslein 野バラをいっしょに歌った。私が啄木の「果てしなき議論の後」を語れば、あなたは藤村の「初恋」を語った。
今日、お葬式に参列してみると「繊維労働者の会」という花がとどいていました。そうそう、あなたは、繊維関係業界紙の記者をしながら、繊維労働者の学習会を組織し、そのなかで奥様と結ばれたのでしたね。この話を聞きながら、奥さんに導かれてイギリスの労働者の状態を研究したF・エンゲルスを連想したものでした。
思い出はつきませんが、この辺で。安らかに。

雑賀 光夫(日本共産党県議会議員)

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by saikamituo | 2013-12-18 22:10