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雑賀光夫の徒然草

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「話せる英語」「使える英語」の大合唱に思う

「話せる英語」「使える英語」の大合唱に思う

(一)
「話せる英語」「英語早期教育」の議論が花盛りです。和歌山県でも、「高校生にディベートをさせよ」という試みがありますし、文部科学省は、小学校3年生からの英語教育を実施しようとしています。
 「日本の中学高校生は、英語学習に膨大な時間をつかってきた。それなのに話すことができない、役に立たない。これは、これまでの英文解釈や文法中心の受験英語教育が行われてきたからである。英文解釈や文法中心でなく、会話を中心にした生きた英語を学ばせなくてはならない」という考えが、その基礎にあるように思います。
 実は、私もかつては「英語を話せない英語教師」でして、英語教師に見切りをつけて、通信教育で社会科教員の免許をとって、社会科に転向したという前歴をもっています。したがって、「英語を話せない英語教師」という言葉にはコンプレックスに近いものを持っていて、この種の英語教育批判には逆らえないという思いを持ってきました。
 しかし、「話せる英語」の大合唱を前にして、すこし冷静になって考えてみる必要があるのではないかと思います。

(二)
1970年代に、「日本の英語教育はこれでいいのか」を巡って「英語教育大論争」というものが行われたことがありました。この論争は、自由民主党参議院議員・平泉 渉氏と英語学者である渡部昇一氏との論争でした。渡部昇一氏というのは、保守の論客で、その歴史観については私などとは全く相反するわけですが、この方の本職は、英語学者です。このお二人が、「諸君」という雑誌で「英語教育大論争」を繰り広げたわけす。「話せる英語」「使える英語」の大合唱に思う_d0067266_1604848.jpg
 平泉参議院議員は、これまでの英語教育は「成果はまったく上がっていない」として、すべての中学生に教える英語は初歩的なものでいいとして、英語が必要な5%の生徒を養成するコースを設ける、全国的な外国語能力検定制度をもうけるなど主張しました。大学入試から英語を除くことまで提案しました。つまり、英文解釈や英文法で多くの高校生が悪戦苦闘しても英語が使えないのは無駄だから、やめてしまおうということでした。
 その主張は、すべての生徒にディベートをさせろ、小学校3年生から英語になれさせろというのとは、まったく対極にあるように見えます。しかし、その根本にあるのは、「話せない英語・使えない英語教育は、意味がない」ことであり、この二つの主張は根っこは同じです。
 平泉氏の主張に渡部氏が反論しているなかで、私が重要だと考えるのは、中学生になってから英語を学ぶことは、それを通じて、「母国語と格闘することである」としている点です。「英文和訳や和文英訳や英文法などは、ことごとく知力の極限まで使ってやる格闘技なのである。そして、ふと気が付いてみると、外国語と格闘していると思ったら、日本語と格闘していたことに気付くのである」と述べています。つまり英語学習を通じて日本語の能力が鍛えられるというわけです。私は、今日の英語教育の在り方を考えるうえで、この観点は、大変大事だと思います。
 また、渡部氏は、ハマトンというイギリス人が子供をつれてヨーロッパ各地をまわったとき、幼児はいともたやすく現地語を覚える、次の国に移ると覚えた言葉をすっぱり忘れて新しい言葉を覚えるといっていることを紹介しています。日本でも、帰国子女(子女という表現はよくないと思います)は、しばらくは外国語が話せるが、外国語をつかわない環境におかれると、すぐに忘れてしまうといわれます。こうしたことから、今日の英語学者の中で、早期英語教育に疑問を持つ方も多いのです。小学校段階では、しっかり身につけなくてはならないことがたくさんある。英語に時間を割く必要があるのかどうか疑問です。

 余談ですが、ハマトンという方は、The intellectual life という本を書いています。渡部昇一氏によって翻訳もされています。じつは、この本には思い出があって、高校時代にお世話になった英語塾の辻利一先生は、東京外大を出られた先生だったのですが、「話せる英語」「使える英語」の大合唱に思う_d0067266_164919.jpg研究社英和辞典の編集者として有名な岩崎民平先生の授業で講読したと言って紹介し、「雑賀、これを読んでみるか」といってくれたのがこの本でした。辻先生は、毎回、15分ほど余分に時間をとって、私の訳文をチェックして下さいました。多分10ページもすすまなかったと思いますが、その内容は一部覚えています。私は英語は話せないけれども、こうした上質な英語との格闘で、日本語能力を鍛えられたのだと今になって感慨深く思うのです。
 ただ、辻先生の指導で、RとLの発音の区別が何度やってもできなかったことが、人前で英語をしゃべることのブレーキにもなっています。以上は余談です。

(三)
さて、議論は、「英語教育大論争」から離れて、今日的問題にはいってまいりました。
 和歌山県では、「国際人育成プロジェクト」ですべての高校生が英語でディベートやディスカッションできるようにするということをぶち上げました。相手をやっつけるディベートというものが教育の場にいいのかどうかを別として、「日本語でも討論できない高校生が多い学校で、なにがディベートか」という意見もあります。いま、どういう成果があがっているのでしょうか。
国の「教育再生実行会議」ではTOEFLー英語国での大学・大学院で学ぶ英語力を計るテストーを大学入試に使うという提案が出されています。TOEFLテストには、1万語水準を超える超難解語が含まれ、学習指導要領の3000語水準とあまりにかけ離れているため、TOEFL等と後ろに「など」をつけて、水準を下げた類似テストも可とするようになっていますが、「使える英語」の結果を追いかけるものです。
 この提案には、8月29日、3つの代表的英語教育学会が、異例の共同声明を出しました。OA入試という特殊な入試には持ち込んでも、一般入試には持ち込まないでほしいというものです。
 ここでも「使える英語」の一面的追求に、英語教育の専門家団体が「まった」をかけているという構図があります。「使える英語」というと俗耳に入りやすいのですが、英語教育の専門家の声をしっかり聞く必要があると思うのです。

(四) 
私は、英語教育に必要なことは、できもしないディベートや「使える英語」というものだけを押し付けることではないと思います。もちろん、「つかえる英語」「英会話ができる」ということも大事なことですが、英語教育には様々な面があります。「母国語との格闘」を紹介したのは、その大事な一面です。
 ただ、私のように英語を話せない英語教師でいいとは思いません。教員が、話すことだけでなくよい英語にしっかりと触れる機会を確保することが大切です。そのためには、教員にゆとりと研修の機会が保障されなくてはなりません。

by saikamituo | 2013-11-08 13:08