雑賀光夫の徒然草

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池田孝雄先生にささげる

池田孝雄先生にささげる 



池田孝雄先生がお亡くなりになった。お正月で2、3日、メールを見ていなかったところ、お亡くなりになって数日後、民ねえさんのメールで知って、びっくりした。
 池田孝雄先生は、同和教育運動の重鎮である。国民融合県会議の代表をなさっていた。和歌山県の民主的な同和教育運動にもいろいろな「振れ」があったと思っているが、私の立場からいって、いちばん「振れ」の少ない理論家として、迷ったときなど、相談をかけた。年齢は少し離れているが、先生も私には心を許していただいていたと思っている。
 池田先生は、のちに高校に移られたが、その前は、どこの中学校におられたのかは知らないが、和教組組合員だった。1970年ごろ、池田先生は西牟婁支部、私は海草支部の責善(同和教育)部長だったことがある。ときの和教組責善部長は、デンスケこと岡本佳雄さんだった。県教育委員会の「人尊(同和)教育」への反撃がはじまっていたときである。
 「南部高校事象」をはじめとする管理職の発言を「差別」とし、その根元が「人尊(同和)教育」にあるとして追及するたたかいが広がっていた。わたしは、支部責善部長をしながら、海南海草部落問題研究会の事務局という立場から「橋」という機関紙を発行していた。このたび、その全6冊を県立図書館に寄贈させていただいたので、関心のある方は、批判的に検討していただきたい。
 この時期の、一連の運動について、私は疑問を持っていた。「迷い」「探求」として、「橋」に記録されている。私は、「和歌山県の差別事件闘争は問題があるのではないか」と岡本デンスケ先生に問題提起した。まだ、20歳代の青年教師であった私の問題提起を、岡本デンスケ先生は、正面からうけとめて、責善部長の合宿討論会が開かれたのである。場所は、私が今住んでいる和歌山市・琴の浦にあった雑賀紀光アトリエのプレハブである。
 このとき、私は「和歌山の解放・同和教育運動は、差別事件主義ではないか」と発言した。差別事件を梃子にして運動を発展させようとする傾向に懸念を表明したものである。そのとき、池田孝雄先生がおっしゃったことが、忘れられない。
 「あんた、若いけど、いいたいこと言うなあ。わしら、思ってても、よう言わんわ」。こう言われた池田先生の表情まで、私の脳裏に焼きついている。そして、このやり取りが、池田先生と私の信頼関係の基礎になっていると、私は勝手に思い続けているのである。
 池田先生は、このやり取りを覚えておられたのだろうか。今となっては、確かめようもない。先生、やすらかに。
2011年1月28日
    明日、田辺にいくので、できれば霊前にと書いた。
                        雑賀 光夫

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by saikamituo | 2013-09-06 21:40