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雑賀光夫の徒然草

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福沢諭吉の評価をめぐって 

福沢諭吉の評価をめぐって 「季論21」バックナンバーから

「季論21」という雑誌を手にした。まえから和歌山大学の松浦先生からお聞きしていたものである。編集委員は、鯵坂真(哲学)浜林正夫(イギリス近現代史)、堀尾輝久(教育学)、森住卓(フォトジャーナリスト)、渡辺治(政治学)など、学習協会員のみなさんにもなじみの方が多い。松浦先生もそのお一人である。
 このたび、バックナンバー18冊をとりよせ目次をくっている。そこには論争がある。論争好きの僕は、毎日それにかじりついている。そのいくつかについて紹介したいが、とりあえずは「福沢諭吉の評価をめぐって」である。

1 「天は人の上に人を作らず・・・」という文句は、小学生でも知っていよう。人権尊重作文の書き出しにもつかわれる。「封建制度は親の仇でござる」といった福沢諭吉は、晩年、朝鮮への侵略戦争に反対せず「外戦もやむなし」という態度をとったことも知られている。
 政治学者・丸山真男は、福沢諭吉を高く評価して、「文明論の概略を読む」(岩波新書3冊)など著作があり、僕も読んだことがある。一方、安川寿之輔さんという方が「福沢諭吉と丸山真男 『丸山諭吉』神話を解体する」(高文研)で、二人を重ねてぶちきるような批判をされている。

2 「季論21」では、編集委員でもある吉田傑俊氏が書いた「福沢諭吉と中江兆民」という本について、おなじく編集委員である宮地正人氏が「福沢諭吉の評価をめぐって」という問題提起をする。(第5号、2009年夏)それにたいして吉田氏は「第6号」で「宮地正人氏への返書」というものを発表される。
 吉田氏の本は読んでいないが、安川さんのような批判でなく、諭吉を「近代化」(啓蒙思想)、兆民を「民主化」(自由民権)の代表的政治家・思想家としてそれぞれ評価しながら、その違いを明らかにし、前者が「正統」、後者が「異端」とされていることはどうかという問題意識であったらしい。
 
*私の個人的なことを言えば、吉田傑俊氏は、京大部落研の先輩である。一緒に子ども会をやったことはないが、新入生学習会で「ものの見方について」(三一書房)という中国の人が書いた本をテキストに学習会の講師をしてくれたことがある。そのとき僕は、唯物論の根本について質問したことを覚えている。それは、「西田幾多郎の『善の研究』でのべられている絶対否定できないのは『純粋経験の事実だけである』という主観的観念論の主張をどう論駁したらいいのだろうか」という質問だった。
  のちにレーニンの「唯物論と経験批判論」のなかで、「主観的観念論が徹底的にその立場をつらぬくならば、いかなる三段論法をもってもしれを論駁することは不可能である」という意味の文章を見つけたとき、僕が持ち続けた疑問が、レーニンも論駁できないということに自信を持ったことがある。これは脱線。

3 「季論21.第7号」「特集 日本の近代化と『坂の上の雲』」の冒頭で、「生きた思想とは何か 近代啓蒙思想と自由民権」と題して、堀尾輝久氏を司会者にして、宮地・吉田両氏が直接討論する。論争好きの私には、こたえられない。夢中になるゆえんである。
吉田さんと宮地さんの対論では、吉田さんは、遠慮しながら発言しているように見える。また宮地さんに説得されているようにも見えた。
 私も宮地さんがいう「福沢諭吉が切り開いた世界の中で兆民が活躍したのだ、そして兆民とその仲間たちは、福沢が一番愛した馬場辰猪とともに自由民権運動をたたかいました」「それは対立でなく補完なのです」「兆民の『一年有半』に名前を挙げる中に福沢だけを『福沢先生』と書いています」という部分を「なるほど」と思いながら読んだ。馬場というのは、宮地さんによると諭吉の愛弟子で、馬場が亡くなった時、諭吉は「あまりに早くすぎた」と追悼文を書いたそうだ。
 僕は、子どもの頃読んだ「偉人伝」史観にとらわれているから、福沢諭吉ファンなので、吉田さんには悪いが宮地さんに軍配をあげたくなる。(注)
≪(注)僕は、「戦後政治の中の天皇制」(渡辺治)の書評を書いて、そのなかで、子どもの頃「偉人伝」(ポプラ社・偕成社)を読んで、皇国史観や英雄史観の影響を深く受けたという自己分析をしたことがある。「学習新聞」に投稿しただろうか?≫
 しかし、宮地さんが諭吉が日清戦争に賛成した問題で、帝国主義戦争に反対し他民族蔑視を乗り越えるイデオロギーは、レーニンまでなかったのだという主張には、本当にそうかなと思いながら読んだ。

4 論争はそれにとどまらない。「季論21・第8号」に「福沢諭吉についての対論をめぐって」(宮崎光雄)という討論参加者があらわれる。宮崎氏は、基本的には、吉田さんを支持するという。それでも宮地氏にも敬意を表しながらの討論参加である。宮崎さんの論文で面白いと思ったのが、勝海舟のことである。
 実は僕は、「坂の上の雲」の関係もあって、明治の文化人が、日清・日露の戦争をどう見ていたのか知りたいという問題意識をもっていた、夏目漱石は、日露戦争をひややかに斜めから見ていたと思う。このことは、和歌浦の老人ホームで開かれる「漱石を読む会」に参加し、漱石に「趣味の遺伝」(日露戦争で戦死した親友に思いをはせるところからはじまる)という小説があることを知って間違いないと思っている。
 知りたいと思っていたのが、勝海舟であった。「氷川清話」に中国の政治家は大きいね、大したものだというような発言があって、勝海舟の中国・朝鮮への見方を知りたいと思っていた。
 宮崎光雄さんの論文に、勝海舟と海舟が師とあおぐ横井小楠が紹介される。それが、福沢諭吉よりも進歩的な観点をもっていたというのである。また「勝は、『西郷は征韓論者ではない』という発言を最後まで繰り返した」という。
勝海舟の「氷川清話」(岩波文庫では「海舟座談」)というのは、僕が良く寝床に持ち込む一冊である。「海舟座談」をまたひっくり返さなくてはならない。
*「海舟座談」で見つからず、インターネットで「勝海舟 西郷 征韓論」と検索したら、「読書日記」というものが出てきた。そこで次のような紹介がある。
≪征韓論(とされているもの)に破れた西郷が、横浜から船で大阪へ向かうとき、真方衆の急報で、横須賀から横浜へ駆けつけた勝海舟が西郷と対話したときの話の内容について、それから二十年後の日清戦争の頃、勝が巌本善治に語ったとして、巌本は、その内容を『女学雑誌』に次のように発表している。
 「“ナニが征韓論ダ、いつ迄、馬鹿を見てるのだ、あの時、己は海軍に居ったよ。もし西郷が戦かふつもりなら、何とか話しがあらふジャアないか。一言も打合はないよ。あとで、己が西郷に 聞いてやった。『お前さん、どうする積りだった』と言ったら、西郷メ『あなたには分ってましよふ』と言ってアハアハ笑って居たよ。其れに、ナンダイ、今時分まで、西郷の遺志を継ぐなどと、馬鹿なことを言ってる奴があるがエ。朝鮮を征伐して、西郷の志を継ぐなどと云ふことが、何処にあるェ”と言ふことで、丁度日清戦争の頃ろ、烈しいお話しのあったことがある。つくづく西郷先生当年の言動を考へて見ると、忽まち此の秘密が頓悟されるやうに思はれる」≫

5 討論はさらに続く。「季論21・第16号」には「『福沢諭吉神話』を超えて」(杉田聡)という論文が掲載されている。それは、宮地氏の見解とは対極にある、冒頭に紹介した安川寿之輔さんの「福沢諭吉と丸山真男 『丸山諭吉』神話を解体する」と同じような見解なのだ。
 編集委員でもある宮地さんと全く対立する論文を掲載するところに、この雑誌の魅力がある。

 福沢諭吉びいきのわたしは、ここで「文明論之概略」で福沢諭吉が、論争は民主主義の基礎であることを強調したことを紹介しておこう。
 僕のHPに1998年にアップした「福沢諭吉との40年ぶりの出会い」という文で、次のように書いた。
≪「文明論之概略」は、いま、読みかけだが、すごくおもしろい。
 「第一章 議論の本位定る事」とある。福沢はその進歩性の限界が語られることがあるが、福沢なりの限定された歴史的制約の中での判断も、それなりにうなずかれるような気がする。
おもしろいのは、秦の始皇帝が、書物を焼く焚書をしたのはなぜかという分析であった。焚書では、孔子・孟子の書物も焼かれたが、孔孟だけなら、始皇帝も焚書はしなかっただろうという。その時代は、諸子百家という百家争鳴の時代だった。異なる意見を戦わせることが民主主義の基礎であると諭吉は考える。だから、始皇帝は書物がこわかったという。≫(1998年以前 記)

雑賀光夫 2013年1月 記

by saikamituo | 2013-01-30 21:50