雑賀光夫の徒然草

saikamituo.exblog.jp
ブログトップ

文学論 スタンダール「赤と黒」2

作品の内容にふれるけれども作者の甘さというもの悲壮感だけがオーバーになって戦争という限界条件では人間がどうなるかということを設定して、自分はどちらにもいないで、どちらともつかない唯漠然としたところを見て、また、梶という人間もあいまいなかたちで悩んだり、苦しんだりするというオーバーなところが気に残って変にあいまいなと思うのです。
 もう一つ松本清張の「黒い森」などは、もしえらそうな言い方が許されるなら作者の位置がはっきりしているということでしょう。社会に対する対処のし方というものが一応はっきりしておもしろいし、小説としても構成上からおもしろい。吉川英治の「宮本武蔵」などもおもしろいけれどクサイです。本人がありますからもったいぶってるのです。だから、あまり、ピチピチした若い層にはむかないとおもいます。


「赤と黒」は読んで幸せになる小説 

こういうことから今まで一番面白いと思った本を実は紹介したかったのです。それは、スタンダールの「赤と黒」という作品です。オーバーないいかたをすれば、この本を読んで幸せになるというようによくいわれます。この本を読むときほど幸せに感ずる時はないと多くの人からいわれています。まさにそのとおり私も感じました。スタンダールの「赤と黒」をちょっと解説をすれば、訳は桑原さんと生島さんです。この「赤と黒」の訳本は他に二・三でていますが、桑原さんのが一番いいといわれ、これほどの名著はないとまでいわれています。しいて欠点をいえば訳がうますぎるということです。ひとつの本を紹介して皆さんが是非読まれるようにしてください。なんで読んでほしいかというと青野秀吉さんという人が(なくなりましたが)「赤と黒」がどこがおもしろいかという質問ほどばかげた質問はないといっています。およそ小説を読んでどことどこが面白いかというほど愚問はないというのです。と言うのは、はじめから、終わりまで読まなわからんということです。とくに、桑原さんなどもいっています。d0067266_17583591.jpg
 「赤と黒」の筋はなんだというとジュリアンソレルという町人の息子がある町の町長の家庭教師にはいってその家の奥さんとなかよくなって、追い出され、貴族の娘と仲良くなり、子どもを生ます。前の婦人から中傷され、はらたって婦人を殺して罪を問われて自分も死ぬという筋です。そんなものなんで面白いかといえば、読まなわからんということです。
 この本は一八三一年だからいまから一九六一年から引いてくれたらわかるが・・・。当時この本が出されたときには本屋はどうせ売れまいということで実際は三〇年に印刷して三〇年に出しているが、発行日をわざと一年遅らせて、出しているというほどの曰くつきの本です。当時、パリの評論家たちからどんないわれ方をしたかというと「作者の心理分析のあまりの厳しさと社会主義に対する風刺の激しさに不安を抱き賛辞をためらう」ということです。メリメというフランスの評論家が主宰する「パリ評論」にのった評論がこんなんです。

心理小説でもあり社会小説としても評価

 バルザックは「あのような重大な誠らしさの欠如を示し、あのように道徳に欠けているが称賛すべき作品だ」だけです。あるいは「我々に残っている人間性と信仰との最後の一点までも我我からうばいさるという冷ややかな哲学のあらわれだ」ともいって、たいていは筆を加えることできなくして黙殺してしまっているのです。唯、ひとりだけ予言した人があった。それはゲーテです。おかしいことにスタンダールはゲーテを「あんなもったいぶった野郎はだいきらいだ」という一番嫌いな人が彼の作品について予言しているのです。「フランスの心理小説の最高のものだと多くの人からいわれ、当時の社会情勢を的確に描いたという社会小説としての評価もされる」これはフランスの七月革命あたりの問題からもう一度検討したうえでこの問題に触れることが私の責任でもあるのですが・・・。 一口にいってフランスの七月革命があり、それに対する反動期をむかえ、そのあたりの大衆の生活状態や様子を非常に的確に描いているという定説もあるのです。これは作品の所々にでてきます。例えば、ある貴族が御者を乱暴にようあつかわないのです。これは彼らがまた主人公になるかもわからないからということを恐れ、その時は、私の首を大切にしてもらいたいという不安と押さえつけようという反動的な社会の様子が簡潔にえがかかれているということです。あるいは、あるひとつの階級の考えなり観念というようなものを克明に表した最初の作品だというともいわれています。なお、ひとつ現在のフランスの作者たちがどういう作品に影響を受けたかというアンケートのなかでスタンダールの「赤と黒」が一番おおかったという圧倒的な結果がでています。
 はじめどうしても売れまいと一年も発行日を本屋が遅らせてだした本が今日まで生きておるという内容をどうしてつかんでいくかということが、この作品に対して一番基本的なことになるでしょう。なお「赤と黒」意味ですが、赤は軍隊、軍隊はナポレオンをあらわすもの、黒は坊さん・僧侶です。当時、ナポレオンのころはどんな平民も、どんな百姓も武器を持って闘って、武器の力で栄達できた。非常に解放的な進取の気性に満ちた人間というものがたくさんおったが、現在においては平民は上にのし上がるにあがれないということから、わずか坊さんになって栄達するという道しかなかった。という中で権力を握っていったという模様を象徴しているともいわれている。ところがスタンダールはこれにはなにもいっていない。
 もう一つ読んでもらうために青野さんが「スタンダール覚え書き」という短いレポートのなかでいっていることを紹介すると「私は少青年時代にスタンダールを読まなかったことを後悔している。ジュリアンの若さと夢とモラルと幸福がつよく働きかけてこないはずはなかったろうと想像されないことはない。ジュリアンは誰のなかにもひとりでもみごもっており、時代の像をこえて永遠の像として生きており、唯それが少青年の時代に牙をぬかれ、または殺されてしまうかそうでないかの違いである。その違いは大きい。」誰にでもジュリアンがもっているロマンスと夢とモラルと幸福はおよそ人間が生きているかぎり持っているし、心の底に眠っているものだというのです。それがどのように伸びていくか、あるいは若い頃になんらかの条件でその前がつみとられるかということで生き方が変わってくるということを指摘しているのです。
 また、「私のジュリアが顔をもたげないうちにしめ殺されてしまった。もし、・・・の変わりに「赤と黒」を読んでジュリアンという主人公に接しておったらばもっと違った形で生き方かたがあったに違いない」と感想を述べています。ことに二〇才前後少年期から青年期にかけて、こんな作品にふれるのとふれないのとでは大きな違いがあるんだといってるのです。そうにしてもまた、いま読んだにしてもわたしのジュリアンが心のどこかから、ジュリアンのロマンと夢と幸福がつかめないというのではない。それほど強烈なものを受けると感想を述べています。
 あるいは「罪と罰」の主人公にラスコルニコフという人があります。彼は質屋の婆さんが生きててもしかたないとして殺してしまいますが、彼と比較して「私はラスコルニコフと一緒にいき、行動しない」「みている」というのです。但し、ジュリアンの場合はそうはいかん、ジュリアンに同化してしまって一緒に行動するというのです。
 こういう単純な指摘もなされています。ジュリアンは町長のベナール夫人と恋愛して追い出されるわけですが、一旦帰ってきて、梯子で夫人の部屋にしのびこむことの例を挙げて私はジュリアンと一緒に梯子をかついで夫人の部屋にしのびこむとまでいっています。
 ジュリアンはどんな人かと聞かれていうとすれば非常に偽善家です。自己をあらわすひ非常な才能を持っている。虚栄心の満々たる猛烈な野心家でジュリアンから野心を抜いたらなにもなくなるほど強烈な野心家です。その野心に支えられて生きていくというような性格です。それにしたがって非常に冷酷です。あるいはエゴイストです。そういう盲目的激情的感情の持ち主です。いわゆる社会の悪徳をすべてひっさげ備えているということなんです。あらゆる美徳をふみにじって平然としている人間が描かれているのです。

主人公ジュリアンで色々な人間を描く

 それがなぜ私たちを引き付けるのかというのですが、それについて誰も明確な答を出していません。それぞれの人がこの本を読んだ感動でもって直接ジュリアンに接していくという以外に回答はでてきません。いいかえるとすれば「我々は非常に高貴な魂とだけ対決せなあかん」ということとか、低くて狭い魂ほどつまらんものはないとか、最高の勇気とはあらゆる悪徳とあらゆる善とに打ち勝つときにあるといわれています。最高に大事なのは悪にも善にもさらに越えたところに魂の光が輝く何らかのものを持ってるものがあるという、こんなものをジュリアンのなかによみとるものがよいとされる。通常我々、善とか悪とかいっている中でなされている行動の評価で描かれているジュリアンを通じて描かれている色々な人間は悪いことしてもよいことしても滑稽にみえるのです。ここらあたりが日本の小説と違ってくるところです。日本の小説に喜劇性がないというのもこんなところにあるのです。
 さらに善とか悪とか醜いものとかいうものを超越した所からみれば滑稽なとこもでてくれば、深刻な所、楽天的なとこがでてくるということです。こんなところが興味のまとになっているといって違いない。
 それから最後に青野さんのまとめは「ジュリアンは臆病者である。例えば家庭教師になる家のレナール夫人という素晴らしい美人ともう一人のレジット夫人と三人が庭で暗くなって話をするのです。たまたまレナール夫人の手がジュリアンの手に触れるのです。しかし、夫人はその手を引っ込めるのです。ジュリアンはこれを侮辱されたと見込んでなんとかしても握りかえさないとおさまらんという義務を感ずるのです。自分に対する自分の高貴な魂がけがされたと、絶対に握るという義務を果たさない限り自分の魂は救われないとして一〇時になるのを待つわけです。冷汗たらたら何をしているのかわからないくらいになってしまうのです。それほど強烈なのです。一〇時の鐘がなったら自分の義務を果たすためあらゆる障害を乗り越えて握りにいくわけです。払い除けられるがまたギュッと握ると夫人の方からも握り返してくるというくらい卑俗に聞こえるがその間の心理の移り変わり、そこらのニュアンスというものの素晴らしさは読んでみないとわからん。
 また恋愛小説としても素晴らしい作品だと思うがありきたりの物のつもりで読むと所々で立ち止まります。どんな所かというと初めて部屋のなかに偲びこんで一夜をあかすんですが、何した、かあしたというのでなしについ読み切ってしまってキスしたとかどうとかいうことは一つも描いていない。ところがそこを読むときはまったくうっとりさせられます。恋愛的な感情に移ってしまって常人がするようなことこの人らどこでしたのかとお下劣な人間なら探すというほど素晴らしい恋愛描写があちこちにあります。レナール夫人とこから追い出されてラモール侯爵ところの娘と仲良くなって貴族の集まりに列席して、野心家ですから喜ぶわけです。その時レナール夫人から投書が入ってジュリアンは野心家で自分の栄達のために何もかも利用するという手紙をジュリアンは読むわけです。ジュリアンはすぐさま怒って教会の中におるレナール夫人を射ち殺すわけです。ここがこの小説の一番悪評のあるところらしいですが、これだけの野心家がたった一片の中傷の手紙で自分の生命を捨ててしまうというほどとりみだし、人を殺すとは理屈にあわんとうのです。ピストルで射つ時もレナール夫人と顔を見合わせる。その時にうたんとそむけた時に射つという最高に好きな人を射つという心理描写がほんの二・三行の中に描かれているのです。

  「赤と黒」と「パルムの僧院」、どちらが名作か


 尚「パルムの僧院」という小説もあるがこれとどちらが面白いという論争では後で読んだ方がおもしろい、後で読んだほうが名作とするのが答えらしいです。それほどよくできているということと比べるのは馬鹿らしいというものでしょう。文学作品を味わうときはやはり本当に自分を大事にするという面があります。これを教育という部面に入ったときでもおなじこといえると思う。言い換えると、読んでええなとすまして通ってよい教材とあるじゃないか、あってしかるべきだというのと読んでええなあすまそうという教師の配慮があってよいということです。こんな教材の扱い方をもう少しやってよいのじゃないかな。楽になるとかならんとかいうことはもちろん含んでます。映画をみてもすぐ理屈をいいたがったり、すぐ理屈でまとめあげさせようとしたりしないと気がすまんということから教訓垂れたもうおいうやりかた、こんな習性はなくしていくほうがよい。そのため小説を楽しんでほしい。


 本稿は、一九六一年の「紀北教育研究会」夏季合宿での報告である。中山豊先生の字でガリが切られている。当時、岩尾先生は、和教組海草支部専従書記長、中山先生は起訴休職で海草支部書記局で仕事をしていた。

「紀北教育」第二二号(一九六二年四月)より

[PR]
by saikamituo | 2012-01-12 22:30