雑賀光夫の徒然草

saikamituo.exblog.jp
ブログトップ

父・紀光についての雑感

父・紀光についての雑感



(一)
 わたしの父は、雑賀紀光という絵かきである。紀光の子であることを知ると、ひとはわたしに「あなたも絵をかくんですか」ときく。全くダメである。
中学時代、美術の先生がわたしを呼んだ。
 「雑賀、作品がでていないぞ。やりかけがあれぱ仕上げて出せ」
苦手な美術の作品提出の催促など、無視したいところだったが、絵の教師の子にあんまりな点もつけにくいという先生の立場も考えて、しわくちゃやにした作品をひっぱり出し提出したことがある。
 わたしは「絵かきの紀光さんの息子で」と紹介されるのがいやであった。三○代になっても、父のワクよりずっとせまいところにいることを思い知らされる。
 あるとき、北又前和教組委員長から、農民組合の委員長にひきあわせていただいた。
 「この人は絵かきの紀光さんの息子で…」「雑質さんというと、もしかしたたら
海南の教員組合にいた方では………」わたしは大得意になった。「どんなもんだ。
おやじを知らんでも、ぼくを知っている人がいるんだ」と。 
(二)
 父の絵は、だれにもわかりやすい絵てある。いわゆる「芸術家」型でなく「職人」型の絵である。
 このことについて父が、ふともらしたことがある。「ミケランジェロも、ダビンチも職人だった。時代のたかまりの頂上にいる職人だった」と。
 凡人の父とミケランジェロを比べるのではないが、「○○○も職人だった」というところが、なぜか今も心にのこっている。
 きのう、こんなことばをみつけた。「もし私が遠くを見たとすれば、それは巨人の肩の上にのっかってみたのだ」(ニユートン)。高田求さんの「未来をきりひらく保育観」という本の中である。
 ふと、こんなことを考えた。「すばらしい教育実践にとりくんでいる一人ひとりの仲間たちも『教え子を再び戦場に送るな』という合ことばのもとにすすめられてきた民主的な教育運動の肩の上にのって可能なのだ」と。
 このことは、ニユートンの天才を否定していないのと同様、日夜、子どもととりくんでいる一人ひとりの教師の血のにじむような個人的努力や教育的力量の高さを無視するということではない。
  (三)
 父は、革新懇の世話人に名をつらねている。かといって革新的入物ではない。奇術に凝っていた当時は警察とのお付き合いも長かった。「絵を買ってくれるのは、自民党の先生方のほうが多いから………。」ともいう。いつか、保守の有力者が、銀座の個展にならべた絵の一枚を自民党本部だか首相官邸だかにかけるといって買ってくれたといってよろこんでいた。本当にかけてくれているかどうかは知らないけれど………。
 そんな父も、戦争だげはいやだという。体の小さい父は、徴兵検査で五玉をはねられた。「お前はもうい!」と記録もしてくれなかったという。おかげで終戦まで召集をまぬがれた。「召集されていたら生きていなかった」と小さいころ父にきかされた。戦災のあと、やけのこった家財を荷車につんで「次の電柱まで。次の電柱までJと自分にいいきかせ、はげましながら、海南の借家までたどりついたことなど……。弱々しい人間の、ごく平凡な戦争体験でしかないけれと、自分の孫たちにそんな経験をざせてはならないとだけは思っているようだ。
 そのことだげ思っていてくれれば、革新想のメンバ-としては十分だろう。よびかけ人や世話人というがらではないけれど。
 「彼は決して政治を求めては行かなかった。ところが政治が彼を求めてきた」(ロマンロラン「魅せられたる魂」第九巻)という、戦争と平和の問題にだれもが無関心でおれない時代に、また、さしかかっている。
                         (一九八二、五、三)
………………………………………………………………………………………………
 父のことについて、ふと雑文をかいてみたくなり、どこにのせるともなく書きとめておいた。父が野間さんを推せんしだ機会に、ひっぱり出してみた。
(和教組書記長) (「和歌山民報」掲載)
………………………………………………………………………………………………
「あとがき」にあるように、「和歌山民報」にのせるために書いたものでなく、自分の手記である。「和歌山民報」の下角さんに見せたら、「これは面白い」と載せてくれた。
 生前、親に一言も親孝行の声をかけたことのない息子が、「民報」紙上で親父に送った親孝行の言葉である。父とこのことについて話したことはないが、母が「お父ちゃん、よろこんでたよ」と言っているのは聞いた。父と息子の対話の少なさというのは、こういうものであろうか。
 日本共産党から「お父さんに野間さんのパンフレットに推薦をいただけないか」と相談を受けたとき、私は、こう答えたと思う。
「僕は、絵の依頼でもなんでも、自分で親に頼まないことにしている。いろいろ引き受けている親父が、息子の義理でまで仕事を引き受けてはかわいそうだと思うから。僕には無関係に話を持ち込んでほしい」と。
父が野間さんの推薦を引き受ける判断をしたのには、野間さんへの評価とともに、当時の父は、「自民党の先生」に気兼ねしなくても誰でも絵を評価してもらえるという絵描きとしての自信を持てるようになったことに加えて、息子が野間さんにお世話になっていることへの配慮もあったかもしれない。
 一方、この文を、「民報」にもち込んだ私のほうにも、父の立場への配慮がはたらしていることも読み取っていただけよう。
ところで、その父が、野間さんのパンフレットに寄せた言葉。
「………野間さんは立派だ。その野間さんを毎回国会に送っている和歌山県民も立派だ。」
県委員会の松葉さんが「ええことばやなあ」と言ってくれたが、僕も、親父にほれ込んだ言葉である。
(父の死後、HPに載せるにあたって書き加えた)

[PR]
by saikamituo | 2012-01-12 12:46