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雑賀光夫の徒然草

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党とともに歩んだ岩尾靖弘さん

生涯を党とともに歩んで 岩尾靖弘
                    月刊学習1992年 3・4月掲載
                    佐々木良平(本名 楠本一郎)

地域におけるすぐれた指導者…
<子どもたちに親しまれた教師  
  
  和歌山県における一九五八年を中心とした、教職員の勤務評定に反対する闘争(勤評闘争)は、全国的な民主勢力のたたかいが警職法反対闘争から安保闘争へと発展する上で、大きな役割を果たしたといわれています。それは和歌山県の勤評闘争が、それぞれの郡市においても県段階でも、教職員組合や民主団体による共闘を重視して、たたかわれたからです。
 それ以後の和歌山県の教職員組合運動や民主運動を支えてきた活動家が、ここ数年、相次いで亡くなりました。そのうち、六十歳前後という働き盛りで惜しまれながら亡くなった一人に、岩尾靖弘さんがいます。彼は、労働運動、教育運動の中でつねに学びながら成長し、すぐれた組識者として、多〈の人に親しまれ、敬愛された指導者でした。
一昨年(一九九〇年)十二月二十日付の『赤旗』は、岩尾さんの死去について、十八日午前六時五十分、肝硬変のため死去。六十三歳。一九五四年入党。永年党員。和歌山県教職員組合専門委員。和歌山県国民教育研究所事務局長。和歌山県教職員組合執行委員。同海草支部書記長、海南市政を明るくする会事務局長などを歴任した、と伝えました。

 ◎文学書を読みふける青年時代

 一九二七年十一月二十九日、那賀郡猿川村(現海草郡美里町)に、父泰三、母たまえの二男として生まれた岩尾さんは、一九四二年猿川小学校(現国吉小学校)高等科を卒業し、兄さんの進んだ道にならって、和歌山師範学校予科に入学しました。このころの彼のことを、同級生であった中山豊さん(現日本共産党海南市議)は、次のように書いています。
 「学生の頃、彼は教壇からあびせかけてくる課題に熱心でなかった。懸命に文学書にふけっていた。戦時中のことである。軍国主義教育をさけて如何に人間らしく生きるかを勉強していた」。
 生前岩尾さん自身が語っていたところによると、彼の文学好きは、小学生の時若い女の先生が授業で文学の読み聞かせをしてくれた影響によるということでした。後に教師として国語を語るときも、すぐれた文学は、読むだけでいい場合もあるのではないかというのが、彼の持論でした。
 教え子が語る教師としての岩尾さんですが、学芸会の劇の練習の際、何度か夜練習したことがあったが、そんなときは自分も好きな柿をむいてみんなに食べさせてくれたこと、音楽の時間は、ピアノを弾きながら、いい声で歌を歌ったこと、体育の時間には、年に十回ぐらい近くの山へつれて行ってくれたことなどが、印象的なことだと語っています。子どもと同じ日の高さで物事を見、考えていました。
 六〇年安保闘争のあと、彼も会員であった教育研究サークルの合宿研究会で、「文学論 スタンダール『赤と黒』」と題して講話をおこなっています。その中で、「人間一生のうちに何度か如何に生きるべきかということを考える機会がある。その際、宗教書とか哲学書等を読んで、直接教訓を導きだすという型があるが、もう一つ、文学というものを通した、小説や詩という形を通じて、歴史観、社会観や生き方を直接説いていないものから生き方をとらえていく型がある」と語っています。その話の終わりに、教師はあまり小説を読んでいないのではないか、という疑問を投げかけ、楽しく小説を読んでほしいと注文をしています。
 読書好きの岩尾さんは、青年時代から何でも読む乱読タイプで、新刊書はいち早く読み、人にすすめるほうでした。マーク・ゲインの『ニッポン日記』や五味川純平の『人間の運命』などは、自分が読んだあと、人に「読んでみないか」とすすめた書物です。こういう乱読タイプの読書は亡くなる直前まで続いたようです。
 文学を好んで読んだことが、人びとを組織する際、人間をありのままとらえそこから出発する、という彼の資質と切っても切り離せないことだったと思います。
 少しつけ加えますが、卒業するために人並みの勉強をする、というようなことも軽視しないのが、岩尾さんのもう一つの側面でした。先の中山さんの言を借りると、師範時代、「試験の前になると数学などについて、『どこがでる』かと、出題されるかもしれないいくつかの問題を言えという。少なくともその中でいくつかは言い当てていたのであろう。必要な問題の正解をしてパスをするのである」。

◎勤務評定反対闘争をくぐって

  一九四八年三月、和歌山師範の本科を卒業して教職につきますが、その翌年結婚し、一男一女をもうけます。このころの岩尾さんは、教職員組合運動や「わだつみ会」のような平和運動にあまり関心を持っていなかったといいます。
 ところが一九五一年に政府は、アメリカなどと単独講和を結びましたが、日本共産党をはじめ、労農党や産別会議、私鉄総連をはじめ多くの労組、民主団体、大学教授などの知識人が、全面講和を要求する運動をくりひろげ、全面講和を要求する署名が四百八十万も集められました。
 また、そのころ原子兵器の無条件禁止を要求する有名なストックホルム・アピールの署名が六百四十万も集まるなど平和運動が大きくもりあがりました。
 こういうなかで、岩尾さんは、物の見方、考え方について、居住組織の人びととしばしば討論し合ったといいます。
 そんなとき、一九五三年七月十八日に和歌山県をおそった大水害の救援活動に教師として積極的に参加するなかで民衆の側に立つと、心のうちに決意を固めていた岩尾さんは、入党のすすめにたいして快く応じました。
一九五七年から始まった勤評闘争の時期は、和歌山県の教職員組合が、いわゆる「校長組合」から、下積みの教育労働者が主人公の組合に脱皮する時期と重なっています。
一九五八年四月、岩尾さんは海草郡内の二つの町にまたがった教職員組合班組織の書記長の役につき、勤評闘争をたたかいます。和歌山県の勤務評定反対闘争は、「勤評は差別を助長し、民主教育を破壊する」という合言葉のもとにたたかわれました。この二つの町の各職場では、愛媛の勤評闘争の経験などをきちんと学びながら、地域の父母や個人・民主団体との共闘を追求しました。その結果、二つの町の教育委員会が勤務評定実施反対の決議をするという成果を上げることができました。
しかし、権力の側の反撃もきびしく、その年度末の人事異動で、ある学校の教職員のうち半数が配転されるという報復的人事が出てきました。この時、岩尾さんたちは地教委と交渉するため、国鉄の駅で終列車まで待っても帰ってこなかった教育長を、朝の一番列車まで待ってやっとつかまえ、交渉の場を持つことを約束させるというきびしいたたかいもおこないました。
 岩尾さんは、このような勤評闘争をふりかえって、次のように書いています。
 「勤評ほどすべての教師を闘いの中にまきこみ、教師自身の力をいやおうなくひきむいた闘いはなかった。あるものには限りない自信と勇気を与え、あるものには権力の前におしひしがれるよわい姿を見せつけ、あるものにはあきらめと逃避をうえつけ、その意味で非常に残酷な闘いであるとも言える。残酷であるだけに今後の闘いそのものも如何に苦しくとも途中でやめることのできない性格を持っている。前むいて闘いつづける以外に苦しみを少なくする道がない。それほど権力との闘いは冷酷無慈悲なものである」
 和歌山闘争の意義は、愛媛などの貴重な経験に学びながら、過去十数年蓄積してきた組織の全能力をふりしぼって、全国的に守勢に追いこまれていた勤務評定反対闘争を攻勢に転じ、文字どおり全国民的な運動へ転化させる機縁を与えたという点にあったといわれています。そして、勤務評定反対闘争の前途に希望の光を点じ、高知闘争とともに、単なる教師のたたかいの枠をこえて、全労働者階級を中心とする国民的なたたかいに発展させる有力な支柱となったのです。岩尾さんたちのたたかいは、この和歌山闘争を下から力強く支えました。

◎組織者として一回り大きく成長
 よく知られているように、一九五八年は日本共産党の第七回大会がもたれた年です。この大会で採択された「『勤評反対』激励の決議」では、「教師の勤務評定は教育の自由をうばいとり、子どもと教師とを軍国主義体制の確立に奉仕させ、日本の核武装のための思想的準備を整え、学校教育をふたたび戦争への道へのぼらせようとするものであります。(中略)諸君の闘争には子どもをはじめとして全人民の幸福とわが国の将来とがかけられています」と呼びかけていますが、これは、勤評闘争をたたかう教職員を大きく励ましました。党とともに歩んだ岩尾靖弘さん_d0067266_18551244.jpg
 岩尾さんは翌年一九五九年四月には、海草郡・海南市の小中学校の教職員で組織されている和教組海草支部の書記長に就任します。そして職場の組合員の声や要求を引き出しながら地域での共闘をひきつづき発展させる幅広い活動をすすめていきました。人を組織する上での彼の持ち味がいかんなく発揮され、組織者としてひと回り大きく成長したのは、この時代です。
 彼の友人の田伏通男さんは、そのころのことを次のように書いています。
 「このような彼だからこそ、勤評闘争後のあの困難な時期、海草支部書記長として支部組織を守りぬき発展させることができたのだろう。勤評闘争後、厳しい弾圧に耐えきれなくなって次々と脱退者が出たころも、少しも動揺せず、いつも笑顔を失わなかった。支部委員会を招集しても、数人しか集まって来ない状況の下で、先ず人を集めることが大事だと考えた彼は、青年教師たちに働きかけて焼肉の会を開き、そこへ集まった組合員に学習させたりなどして、次々と組織していった。
 どんな人にたいしても、じっと話を聞き、その上で歯に衣を着せず率直に批判をしたりするけれども、その人のすぐれた点を大いに評価しつつ展望を示し、相手の気持ちを汲む心遣いを忘れない態度は、彼と接したすべての人々をひきつけたのだった。
 考え方が全く違う人さえひきつけ親しくつき合うのをみて、靖っさんは、磁石のような不思議な力を持った人だなあと、感心したものだった」

貫いた科学的社会主義の学習  同和教育でも党の立場

 ◎集中的に国民融合諭を深める 

  和歌山県では、一九七一年四月に同和対策特別措置法の趣旨にそって、同和加配教員が県下に初めて配置されます。当時有田市の小学校に勤務していた岩尾さんは、学校の要請でその任務を引き受けます。それ以来、岩尾さんは退職までの十三年間同和教育推進教員(以下、同推教員と略す)の仕事を続けます。
一九七四年十一月、兵庫県で八鹿高校事件(七十名の教職員を襲い、五十四名を負傷させた惨事)が、部落解放同盟によって引き起こされました。十二月十九日には日本共産党の村上弘議員が、衆議院予算委月会の総括質問で、この事件を取り上げて政府を追及しました。ちょうどこの日和歌山県同和教育推進教員連絡協議会(以下県同推協と略す)が御坊市で研修会を開いていたのですが、テレビに映る村上議員の質問が、夕刻、一日の研修を終わってロビーにすわっていた参加者をとらえました。参加者はまんじりともせずこの質問に聞き入っていました。
 翌年四月、岩尾さんは県同推協の事務局長に就任します。八鹿高校事件をきっかけに国民融合論にもとづく同和教育の見直しが提起されます。「解放教育」の影響が比較的少なかった和歌山県においても、改めてこれにとりくむことは重要な課題でした。
 この時期、部落問題についての日本共産党の政策・方針が、「赤旗」紙上にいくつか発表されました。一九七五年四月四~五日の小林栄三論文「自主的民主的同和教育の確立のために--朝田派の教育破壊への批判に立って--」、同五月二十六~二十七日の「部落解放のいくつかの問題--差別主義に反対して、国民的融合ヘー-」、同六月九日の「いわゆる『差別用語』問題について」などは、当時日本共産党が教育政策・教育運動・教師論について発表していた多くの文献とともに、民主的同和教育を求める教職員にとって大きな支えになりました。
 岩尾さんは、県同推協の中で、この同和教育を見なおすという課題に敢然と、そしてねばりづよくとりくみます。定期にもたれる県同推協の研修会で、現場の実践家や大学の研究者を呼んで話をききながら、ねばりづよく国民融合論にもとづく同和教育の基本路線についての理解を深めていきました。「提起された問題を集中的に深める」という、岩尾さんの活動スタイルが、威力を発揮しました。
 基本路線の問題だけでなく、それにもとづいて、同和教育の各論ともいうべき課題についても、その正しいあり方を解明する努力がなされました。同推教員と地域の関係、小学校での歴史学習のあり方、同和教育の「特設」授業、同和地区子ども会の問題など、岩尾さんの手がけた問題は多岐にわたっています。
 後年この時期の経験をもとにして、「同推教員の位置づけと任務をめぐって」という文書を執筆しました(『部落』一九八九年八月号)。この論稿をふくめて、岩尾さんの残した文章・講演記録が『ロマンを語る 岩尾靖弘遺稿集』として、1991年末出版されています。

 ◎体罰問題にとりくんだ民研時代
 岩尾さんは学校現場を持ちながら、県同推協の事務局長・会長をという大役を九年間も引き受けてきました。この間、有田地方の子どもや教職員の抱える問題を解決するためにも、日夜奮闘しました。
 岩尾さんは、退職後和歌山県国民教育研究所(以下、民研と略す)の事務局長に就任します。そしてある中学校で吹き出した非行問題についての調査をすすめ、抜本的な解決策を探るために、教育実践・学校レベルの問題にとどまらず、地域や行政レベルをふくめた全面間な教育調査を、現場教師や研究者の力を結集しておこないました。
 民研の事務局長時代、岩尾さんが特に力を入れて取り組んだ課題の一つは、教師の体罰を克服するということでした。教職員組合の機関紙に体罰問題の連載を執筆するとともに、この問題で学習討論する機会があれば、県下どこへでも出かけていきました。
 また、そのころ教職員組合の援助でつくられた教育相談センターの活動にも積極的に参加しました。今でも語り種になっているのですが、会議に岩尾さんが参加するときは問題がよく深まるというのです。それは、彼自身問題を解明するというより、彼が人から話を引き出すのがとても上手で、討論に花が咲いたからです。
 岩尾さんの活動を支えたのは、科学的社会主義のねばりづよい学習でした。一九五八年の夏、勤評闘争の最中に第七回党大会議案である「党章」(綱領と規約を合わせたもの)草案が発表されました。その学習・討議を、岩尾さんとともに、たたかいの合間を縫い何回かの日曜日をさいておこなったことを、昨日のように思い出します。
 岩尾さんは、一九六五年の四月、彼の死因にもなった肝硬変の発病で、六年間の専従の海草支部書記長を辞任し、現場へ復帰しました。この時期に岩尾さんは、古典もふくめ、科学的社会主義の学習を集中的におこないました。そのころ、第九回党大会の後、第二次総合二カ年計画と独習指定文献が発表されそれにもとづいてねばりづよく学習がすすめられていました。党とともに歩んだ岩尾靖弘さん_d0067266_185927100.jpg
 岩尾さん個人の独習の様子を語る資料として、一九六六年二月十日の日付のメモが残っていますが、その年の十二月まで読了する文献(古典の部類)として、次のようなものがあげられています。
 『国家と革命』、『帝国主義論』、『さしせまる破局それとどうたたかうか』、『民族自決権について』、『社会主義革命と民族自決権』、『共産主義内の「左翼主義」小児病』、『反デューリング論』、『労働組合について』、『第二インターナショナルの崩壊』、『フォイエルバッハ論』、『党の統一について、戦闘的唯物論の意義について』。
 ◎『月刊学習』に投稿
 岩尾さんは、山本進のペンネームで、『月刊学習』(一九六五年十二月号)に「わたしたちの細胞(現在の党支部)学習会」という報告を書いています。
 学習の基本は独習ですが、声をかけるだけではなかなか実践にうつされにくい、と言われています。それを助け全体の学習意欲をもりあげるため、一泊二日でおこなったのが、この学習会です。
 岩尾さんは、この報告の中で、学習が身についていくためには、比較的抵抗の少ない短い文献から始めること、分からないところが多くても、毎日少しずつ読みすすめて、とにかく一冊の本を仕上げるようにすること、とくに古典は簡単に全体が分かるものではないが、労働者の解放のための理論だから、やりさえすれば誰でも成果を上げ、学習の喜びを味わうことができることなど、自分の経験も含めて、説得的に語りかけています。
 また、全体の独習が進んでいく上で大切な四点を、次のように上げています。①支部会議でどんなときにも一貫して学習の問題をとりあげること。②思いきった集団学習会をすることが、独習の大きな刺激になること。③支部員の中でまず一名ないし二名独習をやる人を意識的につくること。④どんなささやかな経験や問題点もつねに出しあって相互援助をすること。
 また岩尾さんは、大衆活動としても科学的社会主義の学習を大事にしました。経済学教科書の学習サークルについては、先にふれましたが、一九七〇年四月、京都知事選に何人かで支援活動に行った帰り、車の中の雑談から生まれたのが、唯物論の学習サークル「紀北唯物論研究会」でした。


◎教職員共産党後援会の活動の中で
 最後に、教職員共産党後援会の中での活動をふりかえってみたいと思います。岩尾さんという人のもつ力が最も総合的に発揮されたのは、この活動の中であったといえるかも知れません。
 彼の口ぐせは、「構えを小さくしないで、大きな構えを」でした。彼の活動の特徴をいくつかあげるとすれば、次のようなことでした。
 後援会に集まってくる人びとに、必ずその時の情勢を訴える。そして、みんなと一緒に段取りをきめ、そのためのいろいろな係の分担をきめる。それぞれの動きが軌道に乗るまで気を配り、動きだしたら信頼してまかす。実務を抜きに活動はないことを他人にも説きながら、自分もきちんと実務をこなしていく。情勢判断は事実にもとづいて総合的にきびしくおこなう、などでした。
 どの人にも温かく接する岩尾さんの人柄が、多くの人を引きつけました。新しく参加した人には必ず声をかけて、話をじっくり聞きました。また、元気をなくして結集できていない人には電話をかけ、励ましながらぜひ力を貸してほしいと訴えました。時には、言いにくいことを、ずばり忠告するということもありました。みんなが元気づくこと、たとえばにぎやかな雰囲気をつくることなどをとても大事にしました。職場からたまり場へ直接かけつける仲間のために、時には自分で「おさんどん」を引き受けて、温かい食事を用意するということもありました。
 食事の時間には必ず食べる、というのが彼の活動の際の習慣でした。好きな酒もぷっつりやめて、発病以来二十五年間肝硬変を体内に持ちながら、常に温かく仲間を励まし続けた岩尾さんから学ぶものは多いと思います。

by saikamituo | 2012-01-10 00:27